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第一話

 血の赤で地面に記された魔法円。

 書きこまれた文字はこの宗教の祖となるものとは全くの無関係で、ひどい出鱈目だった。

 そして、それを崇める人間も出鱈目だ。衣食住を欠いては、いるやもしれぬ偶蹄目の頭蓋骨をした神に頭を下げて、地面に額をこすりつける。

 わたしはうつ伏せのまま、魔法円の上で朦朧とする意識を何とか保っていた。

 口の中は酷い血の味がする。腹はずきずきと痛みを訴えるが、両掌に打ち込まれた杭のせいでもだえることすら許されない。

 次第に脳はすっきりと霧が晴れ始めた。

 もう、苦しまずに済む。

 わたしは頬をじりじりと焼くように照らす、ろうそくの赤い火を横目で眺めた。

 もう、学校で冷ややかな目を向けられずに済む。

 無理やり押さえつけられて背中に刻まれたタトゥーがじくり、と熱を帯びる。

 もう、傀儡を演じなくて済む。

「────」

 何を言っているのか、母親の声がした。そして頭上に彼女の歪んだ醜い顔が映る。

(さようなら、お母さん)

 そのとき体に衝撃を受けた。ごふっ、とわたしは血を吐き出す。

 形容しがたい痛みと熱さが胸を貫いている。ろうそくの火を反射する銀色がわたしの胸部に突き刺さっていた。そしてその柄は母親の手によってしっかりと握られている。母親という役割を忘れた醜悪な顔がわたしの血で赤く染まっていた。

 反動でもがけば両手が裂かれるような痛みに襲われる。

 そして本能のように生を求めて空をさまよっていたわたしの瞳は、ぴたりと何も映さなくなった。


「──っ」

 覚醒した途端、肺が異物を訴えた。

 入ってはいけないものが、入ってはいけない場所にいる。

 わたしは絨毯に手をつくと、体を大きく曲げてむせ返った。口から血がぼたぼたとしたたり落ちる。まるで先ほどまでトマトジュースを飲んで激しくむせ返ったようだ。

 まだ違和感の残る心地に不安感を覚えたわたしは、慣れた素振りで左手を口の中に突き入れた。そして舌の奥を探り当てて、強く押そうとする。しかしそれは未遂に終わった。

 左手を何者かに掴まれたからだった。

「それまでになさってください。ここは神殿です」

「……」

 牛のような、羊のような、その類の動物の骨を模したような仮面をつけた人間が、わたしを見下ろしていた。くりぬかれた穴からじいっと覗く瞳にわたしは腕を引っ込める。

 仮面に覆われていない唇には真っ赤な紅が塗られていた。細い顎、絢爛な装飾の大きな布に身を包んでいるが、肩幅は狭く細身。声色からしても、女性であることがわかった。

 彼女はわたしの左手を見下ろすと、はあ、とため息を零した。わたしは中指の付け根にある吐きだこを見られたのだと察し、手を背に隠す。

 徐々に、わたしは冷静さを取り戻していた。

 わたしの下にある短い毛並みの絨毯に手のひらを滑らせる。

 今しがた吐いた血で汚れてしまった絨毯は暖色に鮮やかな青が織り交ぜられた幾何学模様をしていて、辺りを見渡せば彼女を含む同じような格好の人々が纏う布も似たような模様で彩られている。そしてあちらこちらに崇めるように設置された偶蹄目の頭蓋骨。

 どれもこれも見覚えがある。しかし、何かと問われれば回答が脳のどこかでつっかえてしまう。

「貴方は王妃に選ばれました。我らが冥界様にご挨拶ください」

 しゃがみ込むわたしの腕を、彼女は引っ張り上げた。

(冥界? どういうこと?)

 頼りない足取りで立ち上がれば、仰々しく両開きの戸が開かれる。その奥からやはり仰々しい足取りで姿を現した存在に、わたしは瞠目し、言葉を詰まらせた。

「君がサムンドか」

 低い男性の声に合わせてかたかた、と噛み合わせが動く。周囲にいる人々のように仮面をかぶっているのではない。わたしはぞっとして、その長身に乗っかった骨の頭部を見上げて固まった。

 目のくぼみの奥は闇で、体長はおよそ二メートル半はあるだろう。その大きな口を開けばわたしの頭くらい飲み込めそうだった。

 しかし奇妙なことにその異形の身体は人間のものだった。否、人間の形をしていた。大きな布に身を纏ってシルエットを潰し、手には手袋がはめ込まれていた。わたしは到底恐ろしくて、この手袋を外してみてほしい、など好奇心に任せて尋ねることなど一生できないと思った。

「変わった衣裳の人間が来たものだな」

 手袋に包まれた、おおよそ成人男性ほどの大きさをしている手がわたしの服をつまむ。

 吐血の跳ねたブラウスにチェック柄のプリーツスカート。上には一枚灰色のジャケットを羽織っている。

「君はどこから来た」

 わたしは口をはくはくと動かして言葉を探した。思い出そうと記憶の引き出しを引っ張れば、目の前にいる彼の手で抑え込まれる。そんな情景が脳裏に浮かぶ。

 わたしは引き出せそうで引き出せないもどかしさに、頭を押さえて喘いだ。

「すまない。思い出せるようにしよう」

 彼がわたしのジャケットをより深くつまむ。その瞬間、一部の記憶が脳内になだれ込んできた。視界が傾くほどの眩暈がして、わたしはよろめきながら口を開いた。

「……日本」

「二ホン? 聞いたことのない地名だ。巫師ゲロン、お前たちは知っているか?」

 仮面たちが揃って首を横に振る。

「わたしは、たしか高校に通っていて……」

 脳裏に教室と規則正しく並べられたたくさんの机、そして今の自分と同じような格好をした人間が浮かぶ。そこまでを口にしたところで、再び脳に電流のようなものが走った。引き出そうとした引き出しが押し戻された。

「これ以上はいけない、サムンド」

「え……?」

「君はここで暮らすのだから、必要以上に過去は知らなくていい」

「その……サムンドとはいったい、なんですか? それにあなたの名前は……」

 わたしは狼狽えながら、言葉を紡ぐ。

 骨の口が小さく開いた。

 やがて口は閉ざされ、手袋に包まれた指が優しい手つきでわたしの顎に触れた。

「サムンドとはわたしの妻となる人の名だ。そして申し遅れたな。私の名はエルリク。この冥界の主であり最高神、人々は私を冥界様と呼ぶ」

 わたしは彼のうろになっている目を見上げ、唾を飲む。

「君は死んだのだ」

 色のない声で、偶蹄目の頭蓋骨は──エルリクは告げた。

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