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日曜日の朝は、少しだけ家の空気が軽かった。
「あと3日だよ、3日!」
キッチンでカレンダーを指差しながら、日葵が何度目か分からない確認をしてくる。
「分かってる。ちゃんと覚えてるって」
「今年もプールだよね?」
「うん。鈴鹿サーキットの夏限定のやつ」
そのやり取りを、母さんが微笑ましそうに見ていた。
「じゃあ、美奈ちゃんにも連絡しないとね」
「うん。今する」
僕はスマホを取り出し、幼馴染にメッセージを送る。
『今年も日葵の着替え、お願いできる?』
既読が付くのは、驚くほど早かった。
(美奈)『もちろん! そのために予定空けてるんだから!』
その文面に、思わず小さく笑ってしまう。
本当に、毎年恒例だ。
美奈はテニス部で忙しい。
それでも、この日を空けて待っていてくれた。
僕が覚醒した事も、もう知っている。
誕生日の日、僕が出掛けていた時に家に来て、日葵から全部聞いたらしい。
だからこそ――
今日、直接会うのは、少しだけ緊張した。
◆
鈴鹿サーキットの夏限定プールは、相変わらずの賑わいだった。
僕はラッシュガードを羽織り、両手には穴あき手袋。
覚醒者が紋章を隠すための装備だという事を、今では誰もが知っている。
更衣室から飛び出してきた日葵が、僕を見つけて駆け寄る。
「お兄ちゃん! はやく!」
その後ろから、美奈が現れた。
水着の上にパーカータイプの上着を羽織っているけど、それでも分かる体格。
周囲の視線を自然にかわすように、僕の横に並ぶ。
「おまたせ、彰斗」
「今日もありがとう」
「恒例行事だもん」
そう言って笑う美奈は、少しだけ大人びて見えた。
プールサイドを歩きながら、美奈がふっと前に出る。
「ねえ、彰斗」
そう言って、上着の前を少しだけ開く。
「新しい水着なんだけど」
「……似合ってるよ」
「ほんと?」
「うん。色もいい」
毎年のやり取り。
でも今年は、胸の奥が少しだけざわついた。
(……来年はどうなるのかな)
そんな僕の内心なんて知らずに、美奈は満足そうに頷いた。
「ありがと」
しばらく歩いてから、美奈が少し声を落とす。
「魔眼、覚醒したんだよね」
「うん。日葵から聞いたって」
「聞いた。……おめでとう」
その言葉は、軽くも重くもなく、ちょうど良かった。
「ハンターって、危ないんでしょ?」
「まあ……それなりに」
「赤いポーションの話も、ニュースで見た」
続けて聞きたい事があるのは、分かっていた。
「ねえ! まだー!?」
でも――
日葵の声が、全部をかき消す。
もう、プールに入りたくて仕方ないらしい。
「……詳しい話は、また今度」
「うん。今日は日葵ちゃんの日だもんね」
美奈はそう言って、話を切り上げた。
僕達は、日葵を先頭にプールへ向かう。
水しぶきの向こうで、日葵が振り返って手を振る。
「お兄ちゃん! はやくー!」
「うん! 今行く!」
◆
波のプールは、相変わらず賑やかだった。
日葵は浮き輪を抱えて、先に先にと進んでいく。
それを追いかける形で、僕と美奈は並んで歩いていた。
「日葵、走ると滑るから――」
言い終わる前だった。
波が一段強くなり、少し離れた場所で、小さな悲鳴が上がる。
「――っ!」
視線を向けると、小学校低学年くらいの男の子が、浮き輪ごと体勢を崩していた。
波に煽られ、顔が水に沈みかけている。
周囲の大人が気付く。
でも、距離がある。
一瞬の迷いがあった。
でも、体が動いた。
水面を蹴る。
抵抗を抜ける感覚。
腕を伸ばす。
次の瞬間、男の子の身体を抱き上げていた。
「だいじょうぶ?」
声を掛けながら、浅瀬へ戻る。
男の子は咳き込みながら、何度も頷いた。
「ありがとう」
駆け寄ってきた母親らしき女性が、深く頭を下げる。
「いえ、大事なくて良かったです」
それだけ言って、その場を離れようとした時だった。
「日葵ちゃん!」
美奈の声。
振り返った瞬間――
日葵が、プールサイドで足を滑らせた。
前のめりに倒れかける、小さな身体。
考えるより早く、踏み込んでいた。
一歩。
距離は、5メートル以上あったはずなのに。
次の瞬間、日葵の肩と腰を同時に支えていた。
「よかった……」
「う、うん……」
日葵はきょとんとした顔で僕を見上げ、それから笑った。
「お兄ちゃん、早い」
「気をつけなさい」
そう言って手を放す。
周囲は、一瞬だけ静かだった。
「……今の、すごくなかった?」
「え、もう抱えてたよね?」
「走った?」
そんな声が、あちこちから聞こえる。
ライフガードがこちらを見て、少しだけ首を傾げていた。
僕は、気にせず日葵の頭を軽く撫でる。
「ほら、行くぞ」
「はーい!」
日葵は何事もなかったように、また走り出した。
「また滑るから走らない~」
「そうだった!」
◆白崎美奈視点◆
(……おかしい)
今の二つ。
どっちも。
反射がいい、とか。
運動神経がいい、とか。
そういうレベルじゃない。
(水の抵抗、無視してた)
助けた時の踏み込み。
距離の詰め方。
それに――
(日葵ちゃんを止めた時)
あれは、
“走った”んじゃない。
跳んだ。
いや、違う。
(……一瞬で、そこに居た)
覚醒者は、地上だと力が抑えられる。
それは知ってる。
出せるのは10%。
たった、それだけ。
(それで、あれ?)
背中を追いながら、喉が乾く。
彰斗は、何も意識していない。
当たり前みたいにやっている。
だから――
同時に、胸がざわつく。
(……彰斗)
日葵ちゃんの笑い声が響く。
今日は楽しい日。
だから、今は聞かない。
でも――
(覚えとこ)
今日見た、この一瞬を。
いつか、ちゃんと聞くために。
白崎智世「プール楽しかった?」
白崎美奈「う、うん! 楽しかったよ!」
白崎智世「ほんと、私が買った水着をその歳で着れるなんてね。発育良すぎでしょ。まったく」
白崎美奈「私は、可愛い頃が良かったんだけどね……彰斗より大きくなっちゃった」
白崎智世「でも、男の子は大きいのが好きだよ♪」
白崎美奈「お姉ちゃん! お姉ちゃんがそんなんだから、彰斗が悟りを開いたみたいになったんだからね!」
白崎智世「そっかぁ~。今年もダメだったか~。あの水着ならいけると思ったんだけどなぁ~。美奈、ちゃんと抱き着いた?」
白崎美奈「そんな事出来る訳ないでしょ!」




