第三話 形態再構成道
# 『形態再構成道』- Gestaltrestrukturierungsweg
重層ビル群が月を隠す旧横浜区。霧と電子の混ざり合う夜気の中、Identitätswechselpunkt(身元交換点)と呼ばれる闇市場では、命が金とIDチップによって売買されていた。
容貌変転散の達人、鏡堂零は、新しい顔を獲得したばかりの女性客から八両の支払いを受け取った。玉虫色に変化する粉末の残りを慎重に小瓶に戻しながら、彼はほとんど見えないほどの僅かな微笑みを浮かべた。
「三日間は変化を維持できます」彼は客に告げた。「その後は元の顔に戻っていきます。薬方変異の気の循環は、変化を永続させる力を持ちません」
若い女性は満足そうに新しい顔を電子ミラーに映し、そしてバイオスキャナーに自分のIDが新しい顔と一致したことを確認すると、黙って立ち去った。彼女の背後には痕跡も残らない。
鏡堂は店の扉に施錠し、内部のネオン管をひとつだけ残して落とした。低い紫色の光が彼の作業場を照らしている。ガラスケースの中には様々な顔のホログラムが浮かび、壁には『外科正宗』の古写本と最新の顔面変異数式が併置されていた。
彼の指で触れると、隠されたパネルが現れ、地下への階段が露わになった。これは本職場だった。真の術を施す場所。容貌の変容は彼の表の技術に過ぎなかった。
Genetische Wiederbelebungswanne(遺伝的再活性化槽)が地下室の中央に鎮座していた。東洋の古式浴槽のような外見だが、最先端のDNAリプログラミング技術を内蔵している。槽の周りには五行の調和を表す五色の光が揺らめいていた。
「そろそろだ」鏡堂は呟いた。実験体の準備が整ったのだ。
地下室の奥、培養ポッドの中に、人間の形をした何かが浮いていた。それは彼が三ヶ月かけて培養した完全な人体だった。記憶も意識もない、ただの「容器」。
彼が自らの魂を移すための器。
鏡堂零の真の目的は、永遠の命だった。彼は五十年間、容貌変転散の技術を極めてきた。まず顔を変え、次に体表を変え、そして今や全身の形態再構成に成功していた。
中国古代の形神理論と最新の量子意識転写技術の融合。この術の完成が近づいていた。
だが時間が足りなかった。彼の今の体は既に限界だった。容貌変転散の長期使用による副作用で、彼の細胞は不安定化し、時折、予期せぬ変容を起こすようになっていた。指が溶けたり、肌が透明化したりする瞬間が増えていた。
準備を整える中、異変に気付いた。地下室の温度が急に下がり、Biomolekulare Eisbildung(生体分子氷結)が起きている。侵入者がいるのだ。
「Scheisse...」彼は低く呟いた。
彼が振り向いた時、階段の上に立つ人影があった。若さを感じさせながらも、何か古びた雰囲気を持つ男。顔の左半分に薄い瘢痕がある。
「鏡堂零...いや、本当の名は楊金昊」男は静かに言った。「容貌変転散の開発者であり、五十年前に死亡したはずの人物」
「誰だ...?」鏡堂の声が震えた。
「私の名は綾瀬」男は階段を下りてきた。「あなたを訪ねてきました。正確には、これを持って」
彼は小さな木箱を取り出した。箱の表面には五行の象意が刻まれている。
鏡堂の目が見開かれた。「それは...風間の箱!」
「知っているようですね」綾瀬は静かに言った。「私の師、風間昇の遺品です」
鏡堂は動揺を隠せなかった。「風間...あの老人がまだ生きていたとは」
「もう生きてはいません」綾瀬の声には悲しみが混じっていた。「製薬カルテルのハンターたちに襲われ、私を逃がすために自らを犠牲にしました」
「なぜ私のもとへ?」鏡堂は警戒心を解かなかった。
「あなたが必要なんです」綾瀬は一歩前に進んだ。「師は、気循環大丹の完成のためには、五人の薬方変異の達人の協力が必要だと言っていました。五行に対応する五人の専門家。木火土金水」
鏡堂は沈黙した。彼はその秘密を知っていた。東洋医学における五行の調和が、薬方変異の副作用を解消する鍵だという古来の理論を。
「私はただの...顔を変える術師だ」鏡堂は言った。「風間の大きな構想に関わる者ではない」
「嘘です」綾瀬は厳しく言い返した。「あなたは五行の『土』を担当する術師。形を変え、保持する技の達人。そして...」
彼は鏡堂の背後の培養ポッドを指した。
「それが証拠です。あなたは単なる容貌変転ではなく、魂の移転まで研究している」
鏡堂は苦笑した。「よく調べたな。だが私には興味がない。私の技術は己のためだけにある」
「自分の命だけを永らえて、何になるのですか?」綾瀬の声が強まった。「今、製薬カルテルは世界中の薬方変異の達人を一人ずつ排除しています。あなたも長くはありません」
鏡堂は黙って彼の言葉を受け止めた。確かに彼も感じていた。業界に広がる緊張感を。突然消える同業者たちを。
「風間は...私を信頼していたのか?」彼は静かに尋ねた。
「師はこう言っていました」綾瀬は木箱を開け、中の古い羊皮紙を取り出した。「『楊は形を変え続けるが、その心の奥に土の安定性を持つ。彼なくして五行の調和はない』」
鏡堂の表情が僅かに和らいだ。五十年前の風間との記憶が蘇る。二人は若き日、共に研究していた。風間は気の流れを、彼は形の変容を。
「見せてもらおう」鏡堂は手を伸ばした。「風間が何を発見したのか」
綾瀬は躊躇わず古い羊皮紙を彼に渡した。それは複雑な図表と方程式で埋め尽くされていた。漢方の五行配置図と量子もつれの公式が一つに融合している。
「これは...」鏡堂の目が驚きで見開かれた。「量子レベルでの気の流れの解析...そして五行の調和による安定化機構...素晴らしい」
彼は羊皮紙から目を離し、培養ポッドに目をやった。そして自分の手を見た。皮膚が僅かに透明化し、血管が浮き出ている。時間がないことを彼は知っていた。
「私は...自分の実験を完成させなければならない」鏡堂は静かに言った。「この体では長くない。だが...」
彼は深く息を吸い、決意を固めた。
「綾瀬、私はあなたの師の仕事を手伝おう。だが条件がある」
「何でしょう?」
「私の新しい体が完成したら、五行の調和による気循環の研究に協力する。私の能力、形態再構成の技術を風間の気循環と融合させるのだ」
綾瀬は考え込む素振りを見せた。彼は師から、五人の達人を説得することの難しさを聞かされていた。特に楊金昊、現在の鏡堂零は最も頑固で自己中心的だと。
しかし当面の協力が得られるなら、それで十分だった。
「承知しました」綾瀬は答えた。
鏡堂は満足げに頷き、作業台に向かった。「私の手順を見せよう。形態再構成の秘訣を」
彼は様々な薬剤を混ぜ始めた。容貌変転散の基礎となる材料に、新たな要素を加えていく。彼の手技は流れるように滑らかで、まるで舞踏のようだった。
「形は気に従い、気は形を生む」鏡堂は呟いた。「これが東洋医学の根本原理だ。私はこれを量子レベルまで突き詰めた」
綾瀬は熱心に観察した。師の死後、彼は孤独な旅を続けてきた。そして今、初めて本物の協力者を得たのだ。
「次は誰を訪ねるつもりだ?」鏡堂が作業を続けながら尋ねた。
「木行の達人、緑颯翠教授」綾瀬は答えた。「神經調和劑の専門家です」
「難しいだろうな」鏡堂は冷笑した。「彼女は官学派の頂点。政府のバイオセキュリティ委員会の顧問だ」
「ですが、師は彼女も仲間だと言っていました」
鏡堂は黙って頷いた。彼は最後の材料、自分の血液を混合物に加えた。液体が輝き始め、培養ポッドの中の人体と共鳴するように脈動した。
「準備ができた」彼は言った。「私の魂の移転と、風間の秘伝の解読を同時に進めよう」
彼らは互いに見つめ合った。異なる時代、異なる目的を持つ二人の薬方変異の探求者。しかし今、彼らの道は一つに交わった。
風間の遺志を継ぎ、薬方変異の究極の姿、五行調和による気循環大丹を完成させるために。
外では、厚い霧が横浜の街を覆い隠し、その中をKunstkörperpolizei(人工身体警察)のパトロール車がゆっくりと通り過ぎていった。彼らの生体スキャナーは霧を透過できず、地下で進行する古今融合の秘術を検知することはできなかった...