09.
学校の靴箱の前でわたしが昔のことを言ってから、わたし達は今までいつも一緒にいたのが嘘みたいに全く一緒に行動しなくなった。夜中のコンビニに行くのにも、学校の屋上でも、帰り道の河川敷でも。隣の部屋に住んでいても、会おうと思わないと殆ど顔を合わすことがないものなんだと、その時になってわたしはようやくそのことに気付いた。もともとジュンちゃんとわたしは行動時間が違ったし、ジュンちゃんは殆どわたしに合わせてくれていた。それがわたしにとって少し不快なことだとも気付かずに。わたし達がふたりでいることは不自然だったのに。
そんな日の中、朝起きてみるとお父さんがまたいなくなっていることに気付いた。昨日まであった筈のお父さんの荷物がなくなっている。見ると、お母さんは台所でいつも通りに朝ごはんを作っていた。
「……お父さんは?」
「出て行ったわ」
お母さんは振り向きもせず、包丁で大根を千切りにしながら言った。とんとんと、規則正しい音が響く。
なんだ。そうだよね。なんとなく分かっていた。なんの為に戻ってきたのかなんて分からなかったけれど、お父さんの荷物は少なすぎたし、なんとなくもう他の居場所を見つけていることにも気付いていた。久しぶりに会ったお父さんに感じた懐かしさと不快感と、他人に感じるような疎外感。それに何度か携帯で親しげに誰かと話しているところを見かけたことがある。きっと新しい家族だ。わたしは前の家族でしかない。
分かっていたのに、わたしは何か期待していたのだろうか。脱力するような、どこかにすっぽり穴が開いてしまったような気持ちになって、けれど同時にそんな自分が馬鹿らしくて布団に顔を埋めた。小さい頃に流したような涙がまた出ることはなかった。
暫くして顔をあげると、お母さんが二人分の朝食を座卓の上に並べているところだった。
お母さんは平気なんだろうか。今更そんなことを思う。お母さんはまだ若い。なのに結婚して数年してお父さんに出て行かれて、それも血の繋がらない子供を置いていかれて。
そんな話しをしたこともなかったし、そういえばわたしはお母さんと必要最低限以外の会話をしたことがないかもしれない。今思えば、お父さんが出て行ってからわたしがまともに会話をしていたのは、ジュンちゃんだけだ。
これから先もわたしはこの赤の他人であるお母さんと一緒に暮らしていくのだろうか。この女の人は多分わたしに愛情なんて抱いていない。わたしはそういう子供だったし、わたしもこの人にそんな感情なんて多分これっぽちもない。多分わたしたちはどこか似ている。きっとどこか、欠けている。
「食べないの?」
言われて、わたしは重い体を布団から引き剥がし立ち上がった。
お味噌汁とご飯のいいにおいがする。隣の家のドアの閉まる音がする。最近ジュンちゃんは家を出るのが早い。
わたしが座ると、お母さんは黙って食べ始めた。わたしはなんとなくそれをじっと眺める。綺麗な手つき。お母さんである温子さんは、客商売で食事をすることも多いからか、もともとからなのか、わたしの目から見ても食事をする手つきはどこか品があって綺麗だ。
「どうして戻ってきたのかな」
わたしが殆ど無意識に言うと、お母さんはわたしを一瞥したあと、また綺麗なお箸使いで魚の身をとった。
「さあ」
言って、乱れのない動作で魚の欠片を口に運ぶ。わたしがお茶に口をつけると、お母さんはまた口を開いた。
「もう戻ってこないわよ」
今度こそ、これで最後。
本当にそうだとしたら、なんて呆気ないんだろう。今のわたしは小学生の頃のわたしとは違う。長い時間の間にお父さんのことは諦めていたし、その間にどういう訳か、それまではなかった筈の嫌悪感が積もっていった。
もう戻ってこないなんて、どうしてそんなことこの人は分かるのだろう。もしかしたらお父さんと何か話しをしたのだろうか。
けれど、そんなことよりわたしは隣のドアが閉まった音の方が気になっていた。いつもなら気にならないカンカンと階段を降りていく音も、やけに耳につく。それを誤魔化すように、まだ熱いお味噌汁を飲み込んだ。
結構ぎりぎりな時間に家を出たにも関わらず、わたしはゆっくりと通学路を歩いた。
学校に着いたのは九時前で、廊下には誰もいなくて静まりかえっている。ちょうど一時間目の真っ最中の時間帯だ。それぞれの教室から教師の抑揚のない声だけが聞えてきた。今教室に入るのはめんどくさい。休み時間を見計らって入ろうと、わたしは屋上へ上る階段を行った。扉を開けようとするとガチャっと音がするだけでそこは開かず、鍵を持っていないことを思い出した。いつもはジュンちゃんがどこからともなく持ってきていたのだ。仕方なく扉を背もたれにして座りこんだ。
ここにある光は屋上に続く扉の硝子窓からだけで、薄暗い。狭い階段で、遠くから教師の声とたまにどこかの教室からの笑い声が聞えてくる。そして、ほんのりとかび臭いにおいがする。
外からはたまにスピーカーから流れる町内会の放送が鈍く響き、扉の硝子窓から差し込んだ明かりは埃をちらちらと光らせていた。
何度となく見てきた、見慣れた光景。だけどどうしてか、いつもと少し違って見える。胸がしくしくする。
助けて、と思った。
何からかは自分でも分からない。誰に助けて欲しいのかも分からない。
誰に、何から。
苦しいとか、悲しいとかでもないのに、ただなんとなく、漠然とそう思う。一度思うと、だんだんとそれは大きくなっていった。悲しいとか、苦しいと思わない。わたしはそれを感じないのだから。それなのに、体のどこかが酷く痛みに疼いているようだった。
助けて。
どうしようもなく、そう思った。
学校から帰ると、アパートの前に一台の乗用車が止まっていた。
真新しいその車から出てきた女の人は、すらりとスーツを着こなしていてしていて綺麗だ。
誰かを待っているみたいで、アパートの方に視線を向けたあと、暫く視線を彷徨わせていた。わたしがその横を通り過ぎて階段を上ろうと手すりに手をかけると、手を掴まれて思わずぎょっとした。
わたしの手を掴むベージュのマニキュアを塗った綺麗な手は、車から出てきた女の人のもので、その人は自分から掴んできたくせに少し驚いた顔をしてわたしを見上げた。綺麗に一本一本マスカラを塗られた長い睫に縁取られた目は、大きく開かれている。
「羊子……?」
その声に、わたしは眉を顰めた。少し低めの、どこかで聞いたことのある声だ。だけど思い出せなくて記憶を探る。
わたしが訝しげにしていると、その人ははっとして手を離して、少しばつが悪そうな顔で目を伏せた。
近くで見ると、その人は思っていた程若い人ではないことが分かった。肌は綺麗だけど、目の下には薄っすらと皺が入っている。ほっそりとした手も、骨ばっていて若い人のそれとは少し違う。
まさか、と思ったけれどわたしはこの人を知っていた。もう何年も経っているのに、わたしが覚えているよりも随分と洗練されていて若々しいけれど、その表情や顔には見覚えがあった。
「……おかあさん?」
呟くように言う。言い慣れたはずの言葉は、舌に変な違和感を残した。淡々とした声が出ると思っていたのに、その声は子供のように、やけに甘く響いた様に思う。
その人はぱっと顔を上げて、抱きついてきた。
少し驚いたけれど懐かしいにおいがして力が抜ける。わたしが幼い頃に、かみさまみたいに感じていたその存在は、思っていたよりも小さくてどこか情けなかった。他のだれよりも、人間くさい。
茫然とそのままでいると、車の辺りでヘッドホンをつけて歩いているジュンちゃんの姿が見えた。目が合っても、ジュンちゃんは目を逸らさずに、少し驚いた顔をしてこちらを見ている。
そういえば、ジュンちゃんはうちにいるお母さんを本当のお母さんと思っているのかもしれない。ジュンちゃんにはわたしが知らない女の人に抱きつかれているように見るのだろう。
「羊子、ごめんなさいね。驚いたでしょう? ……久しぶり」
お母さんは少し動揺しているのか、わたしの腕を両手で掴んで体を離すと、変な順番で喋った。
わたしはどこかぼんやりとその様子を眺める。小さな子供のわたしの世界で大きな存在だったお母さんは、離れている間に小さくなってしまったのかもしれない。それともまだお母さんが目の前にいると実感できていないのか。他人を見ているような、どこか遠くの世界を見ているような気分になる。
お母さんは見たはずだ。わたしがジュンちゃんに河川敷で何をされたのかを。わたしはあの時、どうしてだかあの河川敷にいたお母さんと目が合ったのを覚えている。綺麗な虹を背景に佇む綺麗なお母さん。けれど、その顔が驚きとわたしの理解できないような感情に塗れていた。だから、お母さんはもう二度とわたしの前には現れないと思っていたのに。
「お母さんね、あなたを迎えにきたのよ」
お母さんはそう言うと、小さい頃にそうしたようにわたしの頭を撫でた。
唐突なその言葉に、わたしは内心驚いて目の前にいる女の人の目をじっと見つめた。急に現れてそんなことを言うなんて、この人は随分と興奮しているみたいだ。
迎えにきた、なんて。驚いていたからか、その言葉は上手くわたしのなかに響かなかった。テレビのニュースキャスターの声と同じくらい、無感動に聞こえてきた。
ジュンちゃんもその言葉が聞えたらしい。目を見開いてわたしを見た。
わたしの視線の先に気付いたのか、お母さんは振り向く。
「お友達?」
わたしが首を横に振ると、ジュンちゃんは何か少し苦しそうな顔をして目を逸らした。
「隣の家に、住んでるの」
「そう……ねえ、温子さんはいる?」
お母さんはジュンちゃんに会釈するとそう聞いていた。
頷いて階段を上ると、後ろからお母さんのヒールが階段とぶつかる音がした。ジュンちゃんの足音はない。お母さんと会った時には何も動きはしなかったわたしの心は、ジュンちゃんが苦しそうな顔をした時に少し痛んだ。
自分から突き放したくせに。