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虹のまち  作者: はんどろん
 
8/13

08.

 わたしたちは、たまたま同じ高校を受けることになった。電車で通わずにすむ地元の公立で、偏差値は高くもなく低くもないところ。

 よく授業をサボっていたわたし達だけれど、勉強はそんなにできないこともなかったと思う。授業に出なかった分は、ジュンちゃんの友達が貸してくれたノートですぐに追いつくことができた。

 高校には別に興味はなかったけれど、お母さんの言葉も尤もだったからわたしは他の生徒と同じ風に黙々と勉強をした。午前は学校で過ごして、午後はジュンちゃんの家かわたしの家で二人で勉強することが殆どだった。わたしよりも幾分か真面目に授業に出ていたからか、もともとの頭のつくりが良いのか、ジュンちゃんはさらさらと問題集を解いていく。ジュンちゃんはいつも短い時間に集中して一気に勉強してしまうのだけれど、その集中力といえば半端なものではないので、わたしがその様子を眺めていたとしてもなかなか気付かない。わたしはといえば、集中力があまりないから長い時間をかけてだらだらとしてしまうタイプだ。

「少し休憩したら?」

 盆にお菓子とジュースを載せてやってきたお母さんが、静かな声で言った。今日は珍しく仕事が休みらしく、わたしたちが学校から帰ってくると同時に起きてたお母さんは、先ほどまで座卓の上で勉強をするわたしたちに構うこともなく掃除や洗濯をしていた。けど、それも終わったらしい。ノートや教科書で散らかった卓上にジュースとお菓子を置くと、お母さんはジュンちゃんの隣りに腰を下ろした。そして何を言うでもなく黙々と自分の分のお茶を飲む。

 わたしたちも運ばれてきたジュースに口をつけて、ジュンちゃんの方は軽く伸びをした。ジュンちゃんもわたしも制服のままで、暖房のついていない部屋の中は寒かったから、その上からカーディガンを羽織っている。少し伸びてしまった裾の先はシャーペンの色で少し黒く汚れてしまっていた。寒い日に、冷たいジュースを出してくるなんてお母さんらしい。ジュンちゃんを見ると案の定、寒そうに肩を竦めていた。

「受験って、面倒くさそうねえ」

 全く他人事のように、お母さんが言った。確かに他人事ではあるのだけれど。ジュンちゃんはそんなお母さんの言葉に少し目を円くさせる。ジュンちゃんは、わたしとお母さんの血が繋がっていないことを知らない。お母さんは若くて見た目はわたしとは似ても似つかないから、薄々勘付いてはいるかもしれないけれど、それをわざわざ説明するつもりもなかった。実はわたしもジュンちゃんの家族構成のことをよく知らない。知っているのは、今はお母さんと二人で暮らしているということだけ。長い付き合いになるけれど、わたしたちは家族の話しをあまりしたことがない。内容の薄い、日常にあったことを淡々と話すぐらいだ。

「おばさんも受験生したことあるんじゃないの?」

 するとお母さんも珍しく目を円くしたあと、小さく笑った。随分前にね、と言って肩を竦める。そういえば、わたしはお母さんのこともよくは知らない。お父さんが、ある日突然連れてやってきた女の人。わたしはその人をお母さんと呼び、生活を共にしているけれど、知ろうとしたこともない。

 若くて、美人な人。お父さんの奥さんで、わたしの新しいお母さん。いつも綺麗にネイルされた爪に、白い肌に、夜仕事に行く時に念入りに化粧された顔と、昼間の素顔。どこか気だるげだけど、きちんと食事を作って、家事もきちんとこなしてくれる。お父さんがどこかへ行ってしまったあとも、文句も言わず黙々と。

 夕方になると、お母さんは買い物に行くと言って出て行った。その頃にはすっかり勉強に飽きていたわたし達は、お母さんが家を出るとノートを閉じた。ジュンちゃんは同時に大きな欠伸をした。わたしはなんとなくテレビをつけて、同じように何気なくチャンネルをかえていく。静かなニュースに、賑やかなバラエティ番組に、いかにも子供が好みそうなアニメにドラマの再放送。

「やっぱり、お前とおばさんって似てるなあ」

 わたしはチャンネルをかえる手を止めてジュンちゃんの方を見た。ジュンちゃんは、そんなわたしの視線に気付いているのかいないのか、テレビの方にぼんやりと目を向けている。

 似てるわけないよ、と言いかけて、ジュンちゃんが言っているのは性格のことだと思い直した。

 わたしと温子さんは、性格だけなら確かに似ているかもしれない。熱しにくく、冷めやすい性格。温度のない気持ち。温子さんはお父さんがいなくなったあとでも、わたしを受け入れるわけでもなく離すこともなかった。だからこそ、わたし達は丁度いい心の距離を保てているのだと思う。

「ジュンちゃんも、ジュンちゃんのお母さんと似てるよ」

 二人とも、すごく美人。

 わたしが言うと、ジュンちゃんにとってそれは不本意だったのか、眉を顰めて不満そうな目を向けてきた。けれどそれに反論する気はないのか、むっと口を閉ざしたままだった。少なくとも、ジュンちゃんのお母さんはそんな表情はしない。顔の造りはそっくりだけれど、彼女はいつもほんわかした空気を纏い、柔らかな表情でいるから。

「嬉しくないの? ジュンちゃんのお母さん、綺麗なのに」

「綺麗って言われても嬉しくないよ。俺、男だし」

「ふうん」

 そうか、ジュンちゃんは男の子だったとこの時改めて思った。結構な時間を一緒に過ごしてきたから、ジュンちゃんはわたしの中で男子という分類ではなく、どこまでいってもジュンちゃんだ。男の人のことが好きでも、すごく綺麗な顔をしていても、ジュンちゃんはジュンちゃんでしかない。

「ねむい」

 そう言って仰向けに倒れると、呆れた目を向けられた。古びて黄色く変色した畳は冷たい。手の甲でその感触を楽しむ。テレビから流れてくる明るい声が、なぜか今は眠気を誘った。

「……なあ、羊。俺さ」

「なあに、ジュンちゃん」

 目を閉じたままで訊くと、静かな笑い声が聞こえた。

「風邪引くぞ」

「引かないよ」

 床の軋む音がした。ふと影が落ちる気配がしてうっすらと目を開けると、ジュンちゃんが見下ろしてきていた。何の感情も篭らない静かな表情は、その綺麗さを際立てている。

 夕日の差し込む部屋で、黒い影を落とす。ジュンちゃんの落とした黒に、わたしも染められる。

「ジュンちゃん」

「ん」

「高校も一緒なんだね」

「そういうのは、受かってから言えよ」

 確かに。まだ受験生真っ只中の人間が、寝転びながら言う言葉ではなかったかもしれない。

 わたしが目を大きく開けると、ジュンちゃんは微笑んだ。優しそうな笑い顔は、やっぱりジュンちゃんのお母さんに似ている。最後にこの笑顔を見るのは一体いつになるんだろうとふと思った。もしかしたら明日かもしれないし、十年、二十年先になるかもしれない。人と人との関係なんて曖昧で保証のないもの。お父さんがいなくなって、わたしは痛いほどそれを知った。痛いのが嫌なら、最初からそれを覚悟しておいた方がいい。

 そもそも、ジュンちゃんとわたしが一緒にいるのはジュンちゃんの罪悪感がそうさせているのが原因で、わたし達の間には別れが痛くなるような親愛の情なんてものもない。いくら一緒に過ごしても、わたし達はそれを知っているからそこまで近付かない。

 けれど、そんな関係も、高校に上がれば変わるような気がした。ジュンちゃんはきっと大切なものを見つける。わたしとジュンちゃんは元々違うものだから、彼は簡単にそれを見つけてしまうことができる気がした。わたしはきっと変わらない。変わろうとも思わない。

 わたしはジュンちゃんから目を逸らして、窓から覗く夕日が沈む空模様を見上げた。電線が縫うようにそこにかかっている。すぐ近くにある工場はそれ自体が大きな影みたいに黒く色付いていた。何年も見続けた風景だ。わたしが本当に小さかった頃は別のところに住んでいたらしいけど、覚えていないから、わたしの最初の記憶はここから。その僅か数年後にジュンちゃんがやってきた。

「高校の次は大人だね」

「大学生だったらまだ学生だから大人って感じじゃないけどなあ」

 ジュンちゃんはぼんやりした様子で呟いた。わたしは高校卒業した後も学生を続けるつもりはないけれど、ジュンちゃんは大学に進むつもりらしい。その姿が容易に想像できて、わたしは目をしばたたかせた。今はどこか女の子みたいな可愛さもあるけれど、大学生にもなれば立派な男の人になってるんだろう。そう思うと、少しおかしい。わたし達が大人になるなんて、おかしい。

「わたし達ってまともな大人になれなさそうだよね」

 言いながらも、ジュンちゃんだけはまともな大人になっていそうな気がした。そもそも彼は割とまともな人間なのだから。

「俺は、お前の将来が心配だよ」

 おどけた仕草でジュンちゃんは言う。自分でもかなり怠惰な性格だと自覚しているから、ジュンちゃんがそう思うのも無理はない。わたしの将来を心配なんて冗談だと思うけれど。

「多分、意外と普通だよ」

 普通に高校に行って、普通に卒業して、普通に就職して。地味な人生を送る。多分。変わっているとよく言われるけれど、奇抜なことなど思いつかないし、してみたいとも思わない。

「かもな」

 そうだといいな、と続くような気がしたけれど、ジュンちゃんはそれ以上言葉を紡がなかった。大きなため息を吐いて、わたしの隣りに体を倒す。同じ様に仰向けになったジュンちゃんを横目で見た。

 いつの間にか外は暗くなりかけていた。さっきまで差し込んでいた夕日も、今では微かな残光しか残していない。暗くなり始めた部屋のなか、テレビの音だけがずっと流れていた。賑やかだったバラエティ番組は終わり、いつの間にかニュースキャスターが今日の出来事を淡々と語り始めている。

 こんな時、なんとも言えない気分になる。お父さんの言葉を借りれば、「胸がしくしくする」だ。意味はよく分からないけれど、なんとなく言葉の音がその気分とぴったりな気がして、わたしはこんな時いつも心の中でその言葉を唱えた。

「なんか、胸がしくしくする」

「しくしく……? ああ、うん。なんとなく分かる」

 てっきり怪訝そうに顔を歪められるかと思ったけれど、意外にも同意された。

 また隣りの顔を見ると、長い睫は伏せられていた。それに釣られるようにして、わたしも見慣れた天井を少しの間眺めたあと目を閉じた。


 卒業式の日、泣き声交じりの式の最中。トイレに行くと言ったきりわたしは式に戻らなかった。

 卒業生の殆どがしんみりとした空気を味わっているのが体育館の空気で分かったけれど、どうもそれに馴染めなかったから。ただたんに学校が変わるくらいの感覚。離れるのが惜しい友達もいない。

 生徒の列の間を通る時、顔を上げたジュンちゃんと目が合ったけれど気にしないでおいた。

 体育館を出ると、すぐに外だ。そこから見える校庭には当たり前だけれど誰もいない。特別に駐車場として開放されているから、ずらりと車が並べられていた。それらを横目に渡り廊下を歩いた。

 校舎にも誰もいない。と思っていたら、校舎前にある花壇のところで色あせた紺色のつなぎを着たおじいさんが立っていた。汗を掻くような気温でもないとは思うけれど、首に手ぬぐいを下げ、手には大袈裟なくらい大きい箒を持っている。用務員のおじいさんだ。

 おじいさんはわたしを見ると驚いた様に目を円くさせて瞬かせた。けれどすぐにその顔に笑みを浮かべる。

「君は卒業生かい?」

 卒業生は制服の胸元に造花の付いた札を付けている。わたしは小さく頷いた。少し離れたところにいてもおじいさんが柔らかな空気を纏っているのが分かったから、その場を別に離れようとは思わなかった。

「別に本当の別れでもないのに、なんとなく哀しいものだよねえ」

「わたしは、別に哀しくない。だって、高校生になるだけでしょ。学校が変わるだけ」

 体育館の方から、マイク越しの鈍く濁った卒業生の言葉が聞こえた。

 おじいさんはまた目を円くさせるとにっこりと笑う。くしゃっと皺の入ったその顔は愛嬌のあるものだった。そういえば、このおじいさんは生徒の間でも人気がある。教師のように怒らないし、諭しもしない。ただみんなをその愛嬌のある顔で迎え、見送るだけ。マスコットのようなおじいさん。確か、生徒の間では「おぐじい」と呼ばれていた。

「お嬢さんにとっては今回はとくに大きなお別れがないのかな」

 おぐじいは静かにそう言うと、再び花壇に目をやった。その声は少し小さかったけれど、他に人もいないからよく通って聞こえた。それは特に質問という訳でもなさそうだったから、わたしは口を閉ざす。

 そのまま、どこで時間を潰そうかと考えた。最後のホームルームは流石にサボれないから、それには出ないといけない。教室で待とうと思っても、鍵はきっちりと閉められている。結局、面倒くさくなって花壇の脇に座り込んだ。

 綺麗に植えられた木々の間から木漏れ日が差し込んでいて、時々吹く風が心地よい。密閉された体育館のなか、長い話しの途中で時たま誰か倒れてしまうのは仕方がないことだと思った。

 立てた膝の上に突っ伏してもおじいさんは何も言わなかった。目を閉じると、体育館の中から聞こえてくるマイク越しの声に、時々聞こえてくる車の騒音、風で枝が揺れる音が静かに聞こえた。

 次は、高校生だ。人生は気の遠くなるほど長い。わたしとジュンちゃんは志望していた学校に受かったから、春からも同じ学校に通うことになる。環境の変化に戸惑うこともなく、だからといって慣れることもなくわたしは高校生活を過ごすだろう。緩慢としたわたしの脳みそは、きっと高校生になったって変わることはない。

 それとも、大人になった時、わたしは今のわたしを笑っているのだろうか。でも、そんな明るい可能性なんてやっぱりしっくりこなくて、わたしはその考えを打ち消した。

 大人になっても、多分同じ。わたしはただ平らな道を通っていくだけ。

 大きなお別れ。

 おぐじいの言葉で、わたしの頭にはジュンちゃんが浮かんだ。わたしはそれを恐れてもいないし、遠ざけたいとも思わない。もしその時が来たとしても、お父さんの時のようには泣かないだろう。ただ、一番近くにいて、長い年月を一緒に過ごしてきたジュンちゃんとの別れはわたしにとって少なからず『大きなお別れ』になるのだろうと思った。







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