05.
その年最後になる、どろどろとした雪が降った。
冷たくて白い塊は、アスファルトの上に落ちた途端黒い染みになって空気を冷やす。
瀬沢さんの家に居ついてからもう二週間経っていたけれど、わたしは自分でも不思議なくらいジュンちゃんの言葉に従順だった。この二週間というもの、家には帰っていない。一応お母さんとは連絡をとっているけれど、お母さんもわたしに帰って来るようにとは言わなかった。お父さんはどうなのか分からないけれど、わたしがそれをお母さんに聞くと、少しの沈黙のあと「元気よ」と言った。それを聞くと、いつもわたしはほっとすると同時に自分のなかで嫌悪感や空虚な気持ちが沸くのを感じた。お母さんにではなく、お父さんに対して、だ。
瀬沢さんの家での生活は静かなものだった。朝起きて、学校に少し遅めに行くこと自体は変わらなかったけれど、日常自体が大きく変わったような違和感に包まれていた。ジュンちゃんは相変わらずで、少し遠いにも係わらず、いつもわたしを迎えに来た。家を出る瀬沢さんと入れ替わるようにやってくるジュンちゃんは、遠慮もなく家に上がっては、わたしの準備ができるまでリビングでテレビを見たり雑誌を見たりして時間を潰していた。その様子に、わたしは初め苦笑してしまった。さすが恋人というだけのことはある。ジュンちゃんは瀬沢さんの家に来慣れているようだった。
ソファの背もたれに腕を伸ばして眠そうにテレビを見るジュンちゃんの隣りに座ると、ジュンちゃんは驚いたように目を円くさせた。
「え。ちょ、なに? いくらなんでものんびり過ぎだろ」
テレビ画面の右上の表示されている時刻を見ると、それは八時半を示していた。ここからだと、学校まで少なくとも一時間は掛かる。どのみち今日も間違いなく遅刻だ。わたしは早起きな方だと思うけれど、朝は体が重くてなかなか思い通りに動かない。いつも起きてから二時間くらいはだらだらと過ごす。
ソファの上で体育座りをして丸くなると、横で溜め息が聞こえた。目の前にスカートのプリーツが見える。鼻の奥がツンッとするような繊維のにおいがした。頭の上の方から聞こえてくるテレビの声は、ひたすら明るい。
ふと、懐かしい感じがした。小学生の頃、朝食を食べながらぼんやりとテレビを見ているとお母さんがふと言った言葉を思い出す。「ほんとうに、しょうのない子ね」苦笑交じりに言われた言葉。今はこんなでも、小学生の最初の頃はわたしもがんばってあまり遅刻をしない様にしていた。けど、朝ぼんやりとしていたのは今と変わらない。だから、ジュンちゃんの後に付いて学校へ行くのもぼんやりとした状態でだった。遅刻をするようになったのは小学生高学年の頃、お父さんが出て行ってからだ。わたしとジュンちゃんの立場が逆転した時のこと。もし、あの時のままだったら、わたしが今でもジュンちゃんに付き纏っていたのだろうか。
「俺もかなり眠いよ」
ソファの軋みが体に伝わった。
そんなに眠いなら、迎えに来なくてもいいのに。それでも迎えにやってくる意味なんかないのをわたしは知っている。わたしもジュンちゃんに付いてまわるのに、特に意味なんかなかった。それは、一種の義務感のようなものだった。わたしは、この男の子と一緒にいないといけない。なぜか、そう強く思ったから。
ドアが開く気配がして顔を上げると、瀬沢さんが目を円くしてドアの前で呆然と立ち尽くしていた。廊下から漏れる光が眩しい。カチッと音がして部屋全体に光りが行き渡る。
「なにしてんだ、お前ら……」
瀬沢さんの呆れた声で、ようやく今どういう状況か理解する。どうやらあのままわたしたちは寝てしまったらしい。外はまだ薄ぼんやりと明るいけど、もう夜にさしかかろうとしてしている。時計を見ると、四時半だった。
隣りで身じろぎしている気配がしてふと見ると、ジュンちゃんはいつの間にか寝転んでいたらしい。広がったスカートを枕代わりにして、頭の天辺がスカートに包まれた腿とくっついていて、そこだけが温かい。スカートは、当たり前だけれど皺だらけになっている。わたしは体育座りとしたままだったから、首が痛かった。
「学校は?」
「……」
さすがに気まずい気分になって視線を彷徨わすと、目を覚ましたばかりのジュンちゃんと目が合った。その瞬間ぎょっとしたように目を見開いたジュンちゃんは、すごい勢いで体を起こしたあと、あーと額に手のひらを当てて呻いた。
「……マジで?」
なにがマジなのか分からないけれど、わたしとジュンちゃんがうっかり寝てしまい学校に行きそびれたことは本当だ。
寝ぼけているのか、ジュンちゃんは額をぐりぐりと押したあとで、手の隙間から何故か恨めしそうにわたしの方を見た。瀬沢さんの大きな溜め息が聞こえる。
「どっちかが目を覚ましてもいいだろうに……小さい子供じゃないんだから」
「……すみません」
「ごめんなさい」
ジュンちゃんが謝るから、わたしもそれに便乗する。それが分かったのかそうじゃないのか、瀬沢さんはもう一度溜め息を吐くと、手に持っていた袋を下ろした。袋の中には白葱や肉のパックが入っているのが見えた。
「今日、鍋だけどジュンも食べてくか?」
「……はい」
鍋、というのが意外だったのか、ジュンちゃんはわたしと瀬沢さんを交互に見たあと頷いた。わたしと瀬沢さんが二人で鍋を囲んでいる姿なんて、確かに意外かもしれない。当のわたしもそのメニューに少し驚いていた。
瀬沢さんは一変、にっこり微笑むとじゃあ、手伝ってくれと言った。
「いつの間に眠ったんだろ。羊、覚えてる?」
大根の皮をそろそろと包丁で剥きながら、わたしは首を横に振った。やけに明るいコメンテーターの声が頭の上で響いていたのは覚えている。今人気のダイエット料理とかなんとか。
ようやく一切れの大根の皮を剥き終わって隣を見ると、ジュンちゃんは器用に人参で花を作っているところだった。この家の主人である瀬沢さんは、ソファでくつろいでニュース番組を見ていた。手伝い、という言葉を吐いたわりに、瀬沢さんは最初の方で下準備することを放棄した。ジュンちゃんは手先が器用で料理も得意だからよかったけれど、わたし一人だったら大変なことになっていたに違いない。それに気づいているのか、瀬沢さんはわたしのたどたどしい手つきを見て苦笑いしていたけれど。
わたしはジュンちゃんの手つきを見て早々に瀬沢さんとリビングに戻ろうとしたけれど、よく似た二つの笑顔に押し留められた。
「ジュンちゃんは?」
「……覚えてない。お前見たら寝てるっぽかったからさ、なんか馬鹿らしくなって、どうせ遅刻だし。そのまま寝転んだらいつの間にか」
「あーあ」
「ほんとうに、あーあだよ」
ふた切れ目の大根の皮むきに集中しながら言うと、ジュンちゃんは苦笑したようだった。ため息の様な息を漏らす。
ふと顔を上げると、細められた目と目が合った。細く通った鼻梁に優しげな二重まぶたの目。ジュンちゃんと瀬沢さんは、改めて見ると思っていた以上に似ていた。
「ジュンちゃんと瀬沢さんって、すごく似てるね。恋人同士だったから?」
ジュンちゃんはその言葉に驚いた様で、目を大きくして手に持っていた人参の欠片をまな板の上に落とした。その人参はころころと転がり、危うくもまな板の端っこで静止する。
ジュンちゃんはそんな人参に目を向けることもなく、驚いたような目でわたしを凝視し続けた。
「……お前って、やっぱりずれてるよな。まあ、そう思ってお前が安心できるならそれでもいいと思うけど」
しばらくして、ジュンちゃんはそう呟いて人参の欠片を再び手に持った。ずれてるって、なにがだろうか。人と感覚が多少ずれてるのは自覚しているつもりだけれど、今の言葉とそのずれとはなんら関係ないと思う。それに、安心ってなんだろう。ジュンちゃんと瀬沢さんが恋人同士だったからそっくりなことに安心? わたしがどうしてそれに安心するのか。
先ほどのわたしの言葉は瀬沢さんの耳にも届いていたのか、その顔は苦笑いのかたちに歪められていた。
三人で囲む食卓は、不思議な感じがした。ジュンちゃんも瀬沢さんも、二人で話すのも食事するのも慣れている様子で、談笑しあう中に自然とわたしも招きいれた。嫌なわけじゃないけれど、こういう場に慣れていないわたしは少しの居心地の悪さを感じた。
食卓に、三人。
それは、わたしとお母さんと、お父さんもそうだった。わたしたちは毎日ではないけれど、たまに三人で食卓を囲むことがあった。わたしはその時間が得意というわけではなかったけれど、多分好きだったんだと思う。それも今では分からないけれど、その時々のことが印象深く心の中に残っていた。お母さんの仕事が休みで、お父さんが、わたしに触れない日。けれど優しくしてくれる日。
お父さんは、昔から自由な人だった。朝から仕事に行く時もあれば、昼頃から出かけることもあったし、二日くらい家に帰ってこないこともあった。家で食事することは、お父さんにとって家族サービスだったのかもしれない。お父さんは、家にいる時はよく料理を作ってくれた。手先の器用なお父さんは、本当のお母さんと暮らしていた時にも、時たま料理を振舞ってくれたのだ。
鍋をつつく箸を持つ手が止まる。隣に座っていたジュンちゃんが、顔を覗き込んできた。
「……羊?」
心配げな声でわたしの名前を呼ぶ。
今はお父さんもお母さんも家に揃っている。けれど、わたしはきっとあの時みたいな純粋に嬉しいという気持ちだけで、あの家族の食卓を囲むことはできないだろう。お父さんが家を出て、わたしはちっぽけな体だけではお父さんを引き止めておくことができないことを知った。それと同時に、わたしの心が最後に残された本当の家族であるお父さんを痛いくらいに求めていたことも。
お父さんがいなくなってから一番傍にいたのはジュンちゃんで、ジュンちゃんも、遠い昔にわたしを裏切って、一人でさっさと変わってしまった。
「なんでも、ない」
そう言って、詰まりそうな喉に噛み砕いた人参をぐっと押し込んだ。