04.
どうして、あの時一緒に虹を見てくれなかったの?
そう言うと、ジュンちゃんはやっぱりわたしのことを頭のおかしいやつだと思って、怒るのだろうか。
「目、覚めた?」
その声と同時に、額に冷たい手が重なった。
ジュンちゃんだ。朦朧とした頭で何故ジュンちゃんが目の前にいるのかを考えた。今、わたしはいつも通り瀬沢さん家のベッドに寝転んでいる。昨日もいつ寝たかは覚えてないけれど、普通にベッドに入ったはず。わたしが知らない間にこの家に来たのだろうか。
ほてった体に冷たい手が気持ちよくて、わたしはまた目を閉じた。そういえば、ジュンちゃんがわたしに触れてきたのはいつぶりだろう。いつも一緒にいても、どれだけ長い付き合いでも、ジュンちゃんがわたしに触れたのは数えるほどしかない。
「瀬沢さんから、連絡あった」
なにが、と訊こうとしたけれど、だるかったので止めた。体全体が重くてだるい。
「熱、あるみたいだな。喉からからだろ? 飲め」
そう言ってジュンちゃんはストローを指した、半透明の液体が入ったコップを手渡した。わたしは力ない手で、なんとかそれを受け取る。少しひんやりとして甘ったるいそれを喉に流し込んで、やっと小さな声を出せた。
「なんで?」
要領を得ない私の言葉でも、ジュンちゃんには通じたらしい。
「学校来ねえなぁと思ってたら、瀬沢さんから携帯に連絡あったんだ。朝珍しくお前が起きてこないから部屋覗いたら、お前が顔赤くして寝てたから一応連絡したって。そんで、学校サボって来た。今時、小学生でも携帯持ってるよ」
「……ジュンちゃん、留年するよ」
「羊の方が、相当やばいと思うけど」
ジュンちゃんは苦笑してそう言うと、わたしが手に持ったままだったコップをとり、近くにあったローテーブルの上に置いた。ぼんやりとした状態で、私はそれを眺める。骨ばった長い指は、知らない人の手に見えた。
その手がまた、ゆっくりと額を撫でていく。心地よい感覚に目を細める。
「……ジュンちゃんは、どうして優しくなっちゃったの?」
「ん?」
わたしの擦れた声で呟いた言葉は、ジュンちゃんの耳には届かなかったらしい。
頭がぼんやりする。ちゃんと考えてから喋る前に、口から言葉が零れだしていた。
「ジュンちゃん。小学生のころ、大きな虹、見たの覚えてる?」
わたしがそう訊くとジュンちゃんはただ頷いた。その表情から、ジュンちゃんの思考は読めない。
「わたしね、あれより大きな虹、見たことあるんだ」
ジュンちゃんは黙ったまま、わたしの方を見ない。どこかぼんやりとした目で、窓の外を眺めている。わたしたちが住む場所とは違って、この家の窓の外の景色は広い。
「その時ね、ジュンちゃんも一緒にいたんだよ」
わたしは、ずっとその虹を眺めていた。ジュンちゃんが走り去ってしまった後でも、あの生臭い、河川敷で空を見上げて。ジュンちゃんはきっと知らない。私がずっと虹に見惚れていたことなんて。
「お父さんがね、小さい頃、虹はかみさまが作ったんだよ、て言ってた。かみさまは女の人なんだって」
「……へえ」
「わたし、その大きな虹を見た時に、かみさまに会ったよ」
わたしはジュンちゃんの顰められた横顔を眺めた。そのかみさまは、きっともう二度とわたしの前には現れない。手を震わせて一度だけわたしを抱きしめると、そのまま何も言わずに走り去ってしまった、わたしのお母さん。昔にも、一度だけ見た覚えのある涙を流していた。かみさまはきっとわたしを助けてくれるものだと思っていたけれど、みっともないわたしの姿を見て、幻滅してしまったと思う。あの懐かしい匂いは、きっともう二度と嗅ぐことはない。
子供の頃のわたしのかみさまは、きっとどうしようもなく弱い女の人だった。全ての真実を知りながら、それから逃げたのだから。わたしをその最中に置き去りにして。
「そういえば、おばさんが心配してたよ。お前が急にいなくなって帰ってこないからって。一応事情は話しといたけどさ、せめておばさんには連絡くらいいれとけよ」
自分から連れ出しておいて、その言い草はないだろうと思ったけれど、だるいから黙って頷いておいた。
ジュンちゃんは、やけにテキパキとした動作でわたしの看病をしてくれた。作ってくれたお粥を食べながらそのことを言うと、お母さんが病気になった時はいつも看病していたから、と苦笑した。
わたしもお母さんと二人暮しだけれど、そういえばあまり看病なんかはしたことがない。今のお母さんである温子さんは、風邪をひくといつも一人で病院に行き、あっという間に直してしまう人だった。けれど、わたしは小さい頃このお母さんによく看病をしてもらっていた。お母さんも仕事があったから、付きっ切りという訳ではなかったけれど、家にいる時はおかゆを作ってくれたり、林檎を摩り下ろしてくれた。さっぱりとしたお母さんとわたしの間に言葉は少なく、その上お母さんは一人でさっさと家事をこなしてくれていたから、わたしは料理ひとつまともに作れない。
ジュンちゃんは良いお嫁さんになれるよ、と言うとまた苦笑いされた。本気で言ったのだけれど、その言葉はやっぱり微妙だったみたいだ。
ジュンちゃんが女で、わたしが男だったらよかったのに。そうすれば。
そうすれば……? 一体なんだというのだろう。
わたしたちは特殊なかたちで繋がっていて、だからこそ今でもこの関係は続いている。それとも、元々どこも繋がっていないのかもしれない。平行腺上で、わたしたちはいつまでも交わらない線みたいだ。わたしが表を歩けばジュンちゃんは裏を行き、わたしが裏を歩けばジュンちゃんは表を行く。片方が片方の代役をして、だからこそわたしたちはいつまでも付かず離れずなのだ。
だから、ジュンちゃんは今わたしに優しい。わたしは、多分ジュンちゃんに優しくない。
ぼんやりとした頭で、わたしたちが出会ったばかりの頃のことを思い出す。家が隣同士のわたし達は、自然と顔を合わすことが多かった。ましてや、わたし達は同じ学年の同じクラス。大体同じ時間に家を出て、大体同じ位の時間に家に着く。それでもわたし達はクラスでも外でも、会話を交わすこともなかった。
ジュンちゃんはタイミングよくわたしと顔を合わせてしまう度に、その綺麗な顔を一瞬嫌そうに歪めていた。わたしもそんなジュンちゃんに構うことなく、お互いがいつも殆ど素通りだった。
そんな二人の間に変化が起こったのは、わたしが大したことのない風邪で学校をずる休みした日、ジュンちゃんのお父さんが珍しくジュンちゃんの家に帰ってきた日だった。帰ってきた、と言うのはおかしいかもしれない。ジュンちゃんのお母さんとお父さんは、離婚していたから。わたしはその時まで、ジュンちゃんにお父さんがいるなんて思いもしなかった。アパートに引っ越してきたばかりの母子には、最初から父親の影もなかったから、考えもしなかった。それに友達にもそういう子はたくさんいたから、別にジュンちゃんが特別という訳でもない。
そんなわたしがジュンちゃんのお父さんがやってきたことに気付いたのは、ジュンちゃんの、お父さん、と言う声が聞こえたからだ。夢現にいると、隣の家の扉の開け閉めする音が響いて、そのすぐあとに聞こえてきたのは、再会を喜ぶ声ではなく強張った声だった。ジュンちゃんはわたしと違って、ちゃんと風邪で熱を出して学校を休んでいた。けれど、その掠れた声がけして風邪を引いたからではないということが、すぐに分かった。
ジュンちゃんのお父さんはジュンちゃんに会いに、わざわざ小さなアパートまで足を運んだのだ。わざわざジュンちゃんたちの住処をつきとめて。それも、ジュンちゃんとジュンちゃんのお父さんのぼそぼそと聞こえてくる会話から分かったことだった。
会話の内容を聞き取れるほど、静まり返った昼間のことだった。それとも、わたしの耳がその声々を敏感に聞き入れたのか。
真昼間のアパート。
わたしは、家に一人。
ジュンちゃんは隣の家にお父さんと二人。
ジュンちゃんは、わたしが学校を休んで家にいることなんて知らない。アパートに住む人は殆どが一人暮らしの人で、昼間は殆どが仕事に出て、多分誰もいない。わたしは静かな家の中で布団に寝転がって、ぼんやりと外の明かりで照らされた天井を眺めていた。
窓から差し込む暖かな日差しに温められて、心地よく眠気がじんわりと広がり始めた頃だった。すすり泣くような声が聞こえたのは。わたしは断続的に聞こえてくる、その声の意味を瞬時に理解した。猫の鳴き声の様なその声。わたし自身も、その声はよく知っていたから。
暖かな日差しの中、わたしは胃の中から底冷えするような感覚に襲われて、金縛りにあった様に固まってしまった。
たまに聞こえる遠くの騒音。それでも静寂に包まれたアパートの中、隣の家から小さく聞こえてくる、ジュンちゃんの声。別に聞きたくもないのに、冷えた私の耳に突き刺さる声。何度も何度も。
わたしはとうとう眠れなくて、冷え切った頭の中で、馬鹿なことを考えた。
あの、ぶっきらぼうな男の子は、わたしと一緒だったんだ。
今まで興味のなかったあの子に、急激に興味がうまれて、わたしの中でその存在はどんどんと大きくなった。
それからわたしは、ジュンちゃんに必要以上に付き纏った。それまで一度も名前なんか呼んだことなかったくせに、ジュンちゃんの名前を呼ぶようになった。ジュンちゃんはぶっきらぼうなまま、私を鬱陶しそうに跳ね除けようとした。
ジュンちゃんは知らないけれど、わたしは知ってる。わたし達は、仲間なんだよ。
わたしはそれが悪いことだとは思わないけれど、変だということは知ってる。人から見れば、悪いことだということも。
だからこそ、ジュンちゃんとわたしは仲間なんだと、幼い頭で考えた。