03.
「貧そうな体だね」
上半身がほぼ裸のわたしを眺めて、その人は言った。
凄く失礼な言葉だと思うけど、まあそう言いたくなるのも仕方ない。色白で痩せっぽちのわたしの身体は、年齢よりも幼くて、胸がなくて肋骨も少し浮き出ている。それは、自分でも認めている。
けどなんなんだろう、この状況。
わたしは脱ぎかけたトップスをそのままに、扉の前に立つ男をじっと見た。
ジュンちゃんの元恋人のこの人は、ジュンちゃん曰く「余り関わってこない」人物ではなかったっけ。それなのにこの人は、例え自分の家だとはいえ今現在は人が使っている部屋の扉を無遠慮に開けた。その上、その仮の住人が着替えている最中だったというのに、扉を閉めるどころか開け放ったまま上から下までわたしの身体を眺めまわしたあと鼻で笑ったのだ。ホモだし、別に体を見られるくらいどうでもいいことだけど、これじゃあ話しが違う。
「なに、固まってんの? 大丈夫だよ。全然興味ない」
男は、わたしが驚いて固まっていると勘違いしたらしい。馬鹿にするように笑うと肩を竦めた。
「そうですね」
わたしはそう言って腕にぶら下がっていたブラジャーをとり、下のスカートを脱いで着替えを続けた。
『瀬沢さん』と云う男は、わたしが着替えを再開したことに面食らったような顔をした。
「……ジュンちゃんで、慣れてます」
わたしが訳のわからない助け舟を出してやると、瀬沢さんは呆けた様子で「そう」と答えた。
ジュンちゃんにお父さんが帰ってきたことを告げた日、ジュンちゃんは珍しくサボるつもりのなかったわたしを昼休み中に、ご丁寧にわたしの帰りの準備までしてくれて、無理やりアパートまで引っぱって帰った。
お母さんとお父さんのいない昼間のうちに、わたしを家から追い出すつもりだということにすぐに気付いたけれど、特に抵抗することもなくわたしは大人しくしていた。
わたしの家の前に着くと、ジュンちゃんは慣れた様子でわたしの鞄の中から家の鍵を取り出して、中にさっさと入って行き勝手にわたしの荷造りを始めた。
わたしはジュンちゃんの後に続いて家に入ると、呆れてその姿を眺めた。
ジュンちゃんは上手い具合に、わたしの必要な物だけを大きな旅行用の鞄に次々と詰め込んでいく。
押し入れの前に掛かけられたスーツや、そこかしこに男物の荷物を見つけては一瞬止まって顔を顰めたけれど。
「……路上生活はやだって言ったのに」
そう言うと、ジュンちゃんはわたしの方を見ないで荷造りを続けながら言った。
「安心しろ。お前は今日から瀬沢さんの家に居候になる」
どうして勝手に決めるかなあと思いながらも、わたしは別に止めようともせずに、じっとジュンちゃんが手際よく荷造りしていく様子を眺めた。
『瀬沢さん』はわたしも見たことがある。建築家で、すらりとした爽やかな若い男の人で、ジュンちゃんの元恋人だ。
ジュンちゃんはようやくわたしが突っ立ったままジュンちゃんの様子を眺めていたことに気づいたのか、やっと振り返ってわたしを見た。
「……無駄に、関わってこない人だから」
「ホモだしね。安心」
「まあな」
ジュンちゃんは苦笑すると、最後の荷物を鞄に詰め込んでチャックを閉めた。
そして、今に至る。
瀬沢さんとの生活は、瀬沢さんの最初の無遠慮な行動以外は、ジュンちゃんの言ったとおり「関わり合いの無い」生活だった。同じ屋根の下にいるものだから、顔を合わすことも多々あるし、ご飯を作ってくれたりもするけれど、瀬沢さんは殆ど家を空けている。
生活費も一切出していない瀬沢さんとは直接関係のないわたしに、瀬沢さんはどうして親切なんだろうか。
多分、ジュンちゃんのことまだ好きなんだろうなあ、と思う。
ジュンちゃんの恋人は、いつもいい男だけど入れ替わりが激しい。どっちから離れたなんて、私は知らないけれど、瀬沢さんがジュンちゃんの頼みを聞いて、わたしに親切にしてくれる理由なんてそれしか思いつかなかった。
「ジュンちゃんって、つくづく罪な男だよねえ」
「なんだそれ」
わたしの勝手な推測によっていきなり飛び出した言葉に、ジュンちゃんはいつもの調子でそう返した。
わたしはよく自分の思考の続きから話しをしてしまうことがあって、余り付き合いのない人はわたしの発言によく顔を顰める。その点、長年の付き合いのジュンちゃんは慣れっこだ。
「瀬沢さん、多分ジュンちゃんのことまだ好きだよね」
邪測の上に、それをジュンちゃんに言うなんて、親切にしてくれてる人に対しての恩を仇で返す行為だ。その親切もジュンちゃんへの下心あってのものだろうけど。
我ながら、やっぱり性格が悪いと思う。
ジュンちゃんは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「お前なあ……」
「なあに?」
わたしはそ知らぬふりで言った。
ジュンちゃんは大きくため息をつくと、ブレザーのポケットから鍵を取り出した。
見たことないようなださいキャラクターのキーホルダーがついたそれは、屋上の鍵だ。
危険だとかなんとかで屋上は普段は生徒には開け放たれていない。屋上に上がれるのは、化学の授業の時くらいだ。けど、そんな屋上の鍵をどうして一生徒のジュンちゃんがそれを持っているのか。多分、また得意の色仕掛けだ。
「……寒いから、もう中に入ろう」
そう言ってわたしの腕をひっぱって立たせると、扉の方へと向かった。
先を歩くジュンちゃんの背中を見ながら、わたしは立ち止まる。見慣れているはずなのに、たまにジュンちゃんはわたしの全く知らない人の様にも見えた。
「アパートの、様子はどうですか?」
訊くと、ジュンちゃんは殆ど表情のない顔をして肩越しに振り返った。
「さあ?」
ジュンちゃんは惚けて言う。
わたしが訊いたのは、わたしのお父さんとお母さんがどうしてるのか、だ。
家に帰ると娘の荷物がなくなっていて、娘もその日から何日も帰ってきていない。
お父さんは、どうしているのだろうか。
自分が帰ってきた途端、わたしが居なくなって、どうしてる? お母さんは、口に出さなくても、多分安心してる。
お父さんは。
あの情けない、懐かしい顔で笑ったお父さんは。
ジュンちゃんは知っているはずだと思ったけれど、わたしに言うつもりはないらしい。惚けた顔のまま、じっとわたしが動くのを待っている。
ひゅうっと冷たい風が吹いた。
「入ろうか」
わたしがそう言うと、ジュンちゃんはほっとした様に少し笑って頷いた。
強い風に押されながらばたんっと勢いよく重い二枚扉を閉めると、隙間風がひゅうひゅう鳴いた。
独特の校舎の古臭い匂いと、冬の香りが混ざって鼻をつく。
「ジュンちゃん」
「なに」
「お父さんは、わたしのこと探してる?」
しつこく訊いたわたしをジュンちゃんは階段の数段下から不快感を露にした顔で見つめてきた。ああ、懐かしい目、とわたしは思った。その目は、どうしてそこまで、と訴えかけてくる。
自分でも、狂ってると思う。
あのお母さんと同じように。お母さんとは、血の繋がりはないけれど、わたしたちは何処かしら似通ったところがある。
「ジュンちゃん。わたし、許せないだろうけど、やっぱりお父さんに会いたい」
あの日、学校に行く前に再会したお父さんは、まともっぽいふりをしてすぐにわたしを学校へ行かせた。
わたしはお父さんとは一言も喋っていない。声も出せなかった。
驚きとか、不快感とか、不信感とか、色んな感情が渦巻いたけどそれでも、どこかで懐かしい、と感じてしまった。痩せて以前見た時よりも衰えたお父さんを見て、哀れにも思ったし、少し悲しくも感じてしまった。
ジュンちゃんは、わたしのこと頭がおかしい、って思い知ったのだろうか。わたしから顔を背けて階段を下りて行った。
そんなの、昔から知ってたくせに。
「――お前、なんでそんなへらへら笑ってんだよ!」
わたしの話しを聞きながら顔を青くしたその男の子は、今度は見る見る顔を赤くしてそう怒鳴った。
「どうして、ジュンちゃんはそんな風に怒るの?」
わたしがそう言って心から不思議に思って首を傾げると、ジュンちゃんは不快感で顔を歪めたあの顔で、わたしを睨んだ。まるで、汚いものを見るような目だ。どうしてなのかさっぱり分からない。
わたしが繋ぎ留めておく方法は、多分それしかないのに。
昔、家にもかみさまがいた。本当にわたしが小さかった頃に出て行ったその人は、わたしを凄く可愛がってくれて、いけないことをした時は叱ったけれど、その後優しくしてくれた。凄く、大切にしていてくれたと思う。それでも、出て行くのだ。
ある日の夜、その人は布団で眠るわたしの頭を撫でながら、泣いて「ごめんね」と言い残し、出て行ってしまった。わたしはその時よく分かっていなくて、半年くらいしてやっとその人がもう帰ってこないのだと知った。
わたしにとって、かみさまみたいな存在だった、お母さん。その時はお父さんも、わたしにとってはかみさまみたいな存在だった。だから、わたしはお母さんにも、お父さんにも反抗することはなかった。その必要もなかったし、幼いわたしは二人が多分大好きだったから。わたしの存在は、お母さんがいなくなったあとお父さんだけのものになった。かみさまは、何をしても許される。
「……なにが一緒なんだよ。全然違う。俺を、お前と一緒にすんな!」
ジュンちゃんは汚いものを見る目をしたまま、顔を歪めてそう叫んだ。
家に帰ると、珍しく瀬沢さんの方がわたしよりも早く帰ってきていた。わたしやジュンちゃんの住むアパートとは違って、広々としたマンションのリビング。アンティークっぽい茶色の革の、短い木脚がついた一人がけのソファでラジオを聞きながら寛いでいる。
「おかえり」
「お邪魔します」
わたしがそう返すと、瀬沢さんは苦笑した。
最近気付いたことだけど、瀬沢さんの表情は、ジュンちゃんのそれとよく似ている。恋人って、一緒にいた分だけ雰囲気や表情が似てくると思う。「元」だけど。
「ご飯、ついでに作っといたから食べなよ。俺はもう食べたから、食べ終わったら一緒に食器洗っといて」
「……いただきます」
親切な言葉に、ジュンちゃんに変なことを言ったことに対して罪悪感のない心の中で謝った。
瀬沢さんの料理は見た目も綺麗だし、味も見た目に見合って凄くおいしい。最近では、最初よく残していたわたしに合わせた量にしていてくれてる。それでも、今日は余り食欲がないから、多分全部食べきれない。
「君ね、相当貧弱な体してるからもっと食べた方がいいと思うよ。そんな体じゃ、男にモテないよ」
瀬沢さんは食べる準備をするわたしにそう言った。なんだか今日はやけに絡んでくる。いつもは何か用がある時しかお互い言葉を交わさないのに。その用も殆どないのだけれど。
わたしは眉を寄せて瀬沢さんの方を見た。
「男の人に、興味ないんで」
「ふうん……じゃあ、女?」
「女の人にも、興味ないです」
「じゃあ、ジュン?」
ジュン、か。わたしは苦笑した。瀬沢さんは表情を全然変えないままだ。
「ジュンちゃんにも、そういう興味はありません」
「……へえ、」
「……瀬沢さん、お酒入ってます?」
「ちょっとね」
瀬沢さんはそう言うと苦笑した。
わたしの方を見ているのに、その目はどこか遠くを見ている様だ。そうは見えないけれど相当酔っているらしい。
「……昔、あの河川敷で凄く大きな虹を見たことがあるんだ」
「へえ」
「その時に、草の中で寝転がっている、小学生位の女の子二人を見たよ」
「……そうなんですか」
おんなのこ、ふたり。
わたしは少し目を見開いて瀬沢さんを見た。
瀬沢さんは、自分の懐かしい思い出を話しているような感じだけれど、そこに続く言葉は一体なんなのだろう。
背筋がひやりとした。草原に寝転がった時の感覚が甦る。カサカサと耳元で鳴る草の音に、青臭い香りと少し甘い土の香り。別に、隠し守ってきた訳ではないけれど、誰かに知られたらどうしたらいいのか分からなくなる秘密がある。
邪測していた割には本当は結構どうでもよかったことを、わたしは話しのついでの様に聞いた。内心の動揺を悟られない様に抑えた声で。
「瀬沢さんは、ジュンちゃんのことやっぱり好きなんですか?」
「……やっぱりって?」
「過去の恋人のことをまだ引きずってる」
そう言うと、瀬沢さんは本当のことを言われて少し驚いたのか、目をまるくした。そのまま力なくソファにぐったりと凭れる。
「うーん」
そう唸ったまま何も言わなかったので、わたしは気にせずにご飯をまた食べ始めた。
やっぱり殆ど残してしまったご飯の後片付けの終わる頃には、瀬沢さんはすっかり眠ってしまっていた。わたしもなんだかだるいので、瀬沢さんに毛布をかけるとお風呂に入って、ふわふわのベッドに入って自分でもいつ寝たのかわからないくらい、あっと言う間に意識を手放した。