02.
あの頃のジュンちゃんは、警戒心の強い猫みたいだった。
頭を撫でようとしたわたしのお父さんの手を払いのけると、嫌悪感を露にした顔で、アパートの階段をそのまま駆け下りて何処かへ走り去ってしまった。
優しいわたしのお父さんは、困ったように苦笑しただけだったけれど。
ジュンちゃんは、わたしのお父さんが特別嫌いだった訳じゃない。自分に関わってくる全ての人を、そうやって払い退けようとしていた。凄く優しそうに見えたお母さんに対しても、そんな雰囲気だった。勿論、わたしにも。
その理由は、わたしがジュンちゃんを仲間だと思い込む理由にもなった。
あの頃のわたしにはそれなりにまだ、友達と呼べる存在がいた。みんな、わたしを変な子と思いながらも、何故か関わってきていた。それでも、わたしがジュンちゃんに付き纏い始めるとみんな、潮が引くみたいにいなくなった。むしろ、疎ましがるようになった。確かにあの頃のわたしは、周りから見ても鬱陶しかったかもしれないけれど。今思えば、ジュンちゃんはやっぱり昔から特別綺麗だったからかもしれない。女の子みたいだったけれど。今のジュンちゃんは、どこからどう見ても、いくら綺麗でも男だ。
ジュンちゃんも女の子だったらなあ、と思う。
そうしたら、この下っ腹の鈍い痛みも、頭痛も判るのに。
「めずらしいなー。どしたんだ?」
ジュンちゃんは少し驚いた様子で、地べたに座るわたしの顔を覗き込んできた。
「お前、今日は帰るって行ってなかったっけ?」
ジュンちゃんは調子が悪そうなわたしの具合を訊いてきたわけではない。自分で言うのもなんだけれど、不健康そうなのはいつものことだ。わたしは久しぶりにジュンちゃんのクラスと合同の体育に参加していた。それがあんまりにめずらしかったんだろう。
けれど、やっぱりすぐにダウンしてしまった。
あちら此方で楽しそうな声が響いている。
今日はバスケットボールだ。
わたしのクラスは男女共同クラスで、ジュンちゃんのクラスは男子クラスだから、男子の方が圧倒的に多い。
一昨年まで女子高だったわたしの高校は、一学年上は全部女子クラスで、わたし達の学年は男子クラスや共同クラスがランダムにある。今年は、女子が多いと思ってやってきた男子が多かったのか、男子の数の方が圧倒的に多いからだ。
ジュンちゃんと一学年上の先輩方は、さぞ嬉しいだろう。
「単位が、やばいの」
わたしは、抱えた膝をそのままに楽しそうにバスケをする同級生達を眺めながら呟いた。
いくらなんでも、このままでは留年してしまう。
この前担任に呼び出されたばかりだ。次は保護者も呼び出しになってしまうらしい。それは困る。
「へー。お前がそんな、まともっぽいこと言うなんてなあ」
ジュンちゃんは目を少し見開いて、楽しそうに言った。
「でも、結局こんなとこに座ってんのな」
そう言うとわたしの横に腰を下ろした。
ジュンちゃんのクラスの子が、少し離れた所から声を掛けてきて、ジュンちゃんは手を振る。
この寒空の下でその子はジャージの袖を肘の辺りまで捲り上げて、前髪を赤いプラスチックのボタンが付いた、女の子みたいなゴムで括っていた。多分そのゴムは女子に借りたのかもしれないけれど、少し可笑しい。
親しげにジュンちゃんに笑顔を向けるその子はもしかしたら、新しい恋人なのかもしれない。ジュンちゃんもその子も全然そうは見えないけど、ジュンちゃんの今までの恋人たちだって全然そんな風には見えなかった。
わたしのクラスの子達が、わたしとジュンちゃんをもの珍しそうにちらちらと見てくる。
普段誰とも喋らないわたしがジュンちゃんと普通に会話しているのを初めてみた人達は、少し驚いた様だ。
目の前で試合をしているクラスの女の子たちは、明らかにジュンちゃんをちらちらと見て、わたしと見比べていた。
「生理痛」
そう言うと、ジュンちゃんは顔を少し顰めた。
まるでわたしが、言葉と共に血なまぐささを漂わせたみたいだ。
「ジュンちゃんは、参加しないの?」
「俺のグループは今休み中」
ジュンちゃんはそう言うと、胡座をかいた足に肘をついて頬杖をついた。
全身をゆったりと包む眠気に欠伸する。ジュンちゃんといる時間はいつもゆったりだ。今日は生理のせいもあって、すごく眠い。暖かい太陽の光が、ジャージの上から体をぽかぽか温めてくれる。
「ジュンちゃん。お父さんが、帰ってきた」
「……そうか」
ジュンちゃんは一瞬ぴくりと体を反応させると、考え込むようにして頬杖ついていた手で口元を覆い隠し、くぐもった声でそう言った。
いつも一緒に登校するけれど、今日はジュンちゃんの方がクラスで文化祭の話し合いがあって、早めに出たのだ。
早め、と言っても普通の登校時間だけど。
わたしはいつも通り、遅刻する時間にゆったりと家を出た。
その時だった。カンカン、と階段を上る音がしたのは。
お父さんはわたしを見ると、あの懐かしい、少し情けない顔で微笑んで、さも当たり前のようにわたしの頭を優しく撫でた。
ジュンちゃんが、わたし達の住むぼろアパートに移り住んできたのは、わたしとジュンちゃんが小学三年生の冬のことだった。
ジュンちゃんは優しそうなお母さんと一緒に、わたしの家のドアの前に立っていた。綺麗な顔を歪ませて、こちらを見ようともせずに。
ジュンちゃんのお母さんが挨拶に持ってきてくれたお菓子を食べながら、あの綺麗な顔をなんとなく思い出した。
明日から、わたしと同じ学校に通う、と言っていた。
ジュンちゃんと、そのお母さんと、わたしは、いつの間にか明日、一緒に登校することになっていた。
綺麗な子だったけれど、好奇心の薄いわたしは余り興味を持てずに直ぐにジュンちゃんのことを忘れると、お菓子を食べる手を止めて、お母さんの方を見た。
まだ、お父さんは帰ってきていない。
「お母さん」
「なに?」
お母さんは振り向かずにご飯の準備をしながら答えた。おいしそうな匂いがする。
「お父さん、何時に帰ってくるの?」
「……多分、七時半頃よ」
またお母さんが、仕事に出る前に帰ってくるのか。
お父さんは仕事に出るお母さんを見届ける為に、いつもお母さんが帰ってくる少し前に帰ってきていた。
お母さんはなんの仕事か分らないけれど、夕方までに家の用事を済ませて、夜になると家を出て行く。
「……ふうん」
興味なさげに答えると、おいしいと思うわけでも、お腹が空いてたわけでもないのに、中身が空っぽになるまでわたしは甘いお菓子を食べ続けた。
次の日、自転車を引くジュンちゃんのお母さんを真ん中に、わたし達三人は通学路を歩いていた。
うちの学校は制服で、紺のブレザーに、女子だったら紺のスカート、男子だったら紺の半ズボン、それに黄色の指定の帽子を被らなければならない。
わたしの帽子のゴムはすっかり伸びてしまっていて、首の下でその役目を果たさずにただぶらんとぶら下がっているだけだ。それに比べて、ジュンちゃんの帽子に付いたゴムは全然伸びてなくて、綺麗な白はジュンちゃんの首にしっかりとくっついていた。ジュンちゃんは苦しそうにして、直ぐに帽子を脱いでしまったから、今は手に持ったれた帽子の下でぷらぷらと揺れているけれど。
「ほら、ジュン。恥ずかしがってないで、羊ちゃんと喋りなさい」
ジュンちゃんのお母さんがそう言うと、ジュンちゃんはちらりとわたしに目を向けたが、直ぐにそっぽ向いて言った。
「羊なんて、馬鹿みたいな名前した奴と誰が喋るかよ」
綺麗で可愛らしい顔に似合わない乱暴な言葉だった。
どう見たって、ジュンちゃんのお母さんが言うようにジュンちゃんは『照れて』わたしと喋ろうとしない訳ではなかった。明らかな拒絶の反応だ。
ジュンちゃんのお母さんはジュンちゃんを叱ったが、わたしは相手が喋る気がないのなら別にそれでよかったから、ただ前を向いて黙々と歩いた。
本当は『羊』じゃなくて、『羊子』なんだけど。
お父さんとお母さんが、そう呼ぶからジュンちゃんのお母さんまでそう呼ぶ。
結局、わたし達はその日一日言葉を交わすことはなかった。
たまたま同じクラスだったジュンちゃんは、珍しい転校生、ということでクラス中で持て囃された。ジュンちゃんは綺麗な顔をしていたから特別、だ。クラスが二つしかない私たちの学年では、代わり映えのない面子の中に突然現れた新顔のジュンちゃんを一目見て、できれば友達になろうと、休み時間には隣のクラスからも男女入り乱れてやってきた。けれどジュンちゃんは、粗野な言葉使いで近づいてくるみんなを遠ざけた。
わたしはそれを見て、ジュンちゃんは特別わたしを嫌っているんじゃないと知ったけれど、そんなのどうでもよかった。
帰り、一緒に帰るように言われていたのに、ジュンちゃんは先に一人で帰ってしまっていた。
それさえも、どうでもいい。
わたしは、自分がその先ジュンちゃんを仲間と勝手に思い込むなんて、予想もしてなかった。
そうして、勝手に裏切られた気持ちになることも。
アパートの、壁は薄い。
どんなに隠そうとしても、偶然分かってしまうこともある。