10.《完結》
家に帰ってお母さんは温子さんに私を引き取りに来たと言った。わたしが服を着替えている間に、今まで世話になったお礼だと言ってお金をこっそり渡しているのが見えたけれど、温子さんにはそれを受け取る気がないようだった。
お母さんがその話しをするとほっとするんじゃないかとわたしは思っていたけれど、温子さんはほっとするというよりは少し動揺しているように瞳を揺らした。
わたしは少し意外な気持ちでその目を眺めた。彼女の動揺が伝わってきたみたいに、わたしのなかでゆらりと何かが揺れた。
「冗談かと思っていました……どうして、今頃」
「二人で十分に暮らしていけるようになるまでには、時間が掛かってしまったんです。勝手だとは分かっているんですが、温子さんにはご迷惑をお掛けしてしまって……」
「それでも、あなたはその子と一緒にいてあげるべきじゃなかったんですか?」
「後悔、しています。さっきこの子の顔を見て思いました」
お母さんがそう言うと、温子さんは黙り込んだ。
わたしはふたりが話しているのをぼんやりと聞いていた。わたしのことなのに、私のことじゃないみたいだ。二人の口調からして、もしかすると以前から時々連絡をとりあっていたのかもしれない。
お母さんに着いて行くということは、ジュンちゃんとも離れるということで、それはきっとお父さんとも。そんなことを思って私は馬鹿らしく感じた。お父さんもジュンちゃんも、もうとっくにわたしから離れている。
「迷惑だなんて思ったことはありません」
温子さんは静かにそう言った。いつも通りの淡々とした言い方で、それが本音なのかそうではないのか分からない。けれど温子さんがわざわざ嘘を言わないことくらい、わたしは一緒に暮らしてきた中で知っていた。
わたしはその温子さんの言葉を聞いて、馬鹿らしくなった。本当に、馬鹿みたいだ。本当は知ってたくせに。どうしてだかわたしにはお父さんしかいないような気がしていた。
隣で座ったお母さんが、わたしの手をぎゅっと握って少し不安気な顔をしている。ふたり共、わたしの意見を待っているんだとようやく気付いた。
自分勝手なお母さん。子供の時から今まで顔を合わせもしなかった娘が、簡単に付いてくるとでも思っていたのだろうか。今となっては、わたしと彼女の繋がりは、血と、微かな記憶しかないのに。
「おはよう」
家のドアを開いたジュンちゃんは驚いた顔で、家の前に立っていたわたしを見た。
今は七時半で、いつもならわたしはまだ寝ている時間だ。ジュンちゃんもそのことは承知の上のはずだ。だからこそこの時間に家を出て、わたしと顔を合わせないようにしていたのだから。
「一緒に、行こう?」
わたしが言うと、ジュンちゃんは驚いた顔のまま更に形のいい目を見開いたあと、扉を閉めた。
黙って歩き出したジュンちゃんに、わたしはついて行く。
まるで小学校の頃に戻ったようだけど、あの頃とは違ってジュンちゃんはちゃんとわたしと一緒に学校に行くつもりがあるらしい。わたしの歩調に合わせて、ゆっくりと歩いていた。
アパートの階段を下りて、舗装された車通りの少ない路地を真っ直ぐに行って、途中で左にある細い路地に入る。小学生の頃から、毎日のように歩いてきた道。最初は、わたしがジュンちゃんに付いて、途中から二人一緒に。暫く行けば、河川敷が見えてくる。
朝だと帽子を被ったおじさんが、釣れるのか釣れないのかは分からないけれど、釣竿を上手いこと地面に立てて糸を川に垂らしてじっと水面を見つめている。そのおじさんは昔からいるけれど、朝遅いわたしは久しぶりにそのおじさんを見た。
「ねえ、わたしこんな早く家出るの久しぶりなんだ」
「知ってる」
「だよね」
「……よく窓から、校庭の端を歩いてるのが見えたから」
少し意外に思ってわたしはジュンちゃんを見た。ジュンちゃんはわたしと一緒に不真面目な行動をとってしまうことが多かったけれど、授業はちゃんと受けているイメージだった。よく、ということはほんの短い時間の間に校庭を横切るわたしをよく見つけられる程、窓の外を眺めていたことになる。
「今日は、ジュンちゃんと久しぶりに話しがしたくて、待ってたんだよ。そのくらいしないと、ジュンちゃん私を避けるでしょ?」
「……今までと同じ風にはできない」
「うん。だよね」
わたしが淡々と言った言葉は、ジュンちゃんを責めたのか、ジュンちゃんは顔を苦しそうに歪めた。
多分この溝は埋まらないんだろう、と思うと少し寂しく思う。
そう思うくらい、わたしはジュンちゃんになにかしらの情を抱いていた。それくらい、わたし達は同じ時間を共有した。
「けど、ジュンちゃんに言っておこうと思って……わたしね、お母さんと一緒に暮らすことになったの」
わたしがそう言うと、ジュンちゃんはまた驚いたような顔でわたしを見た。
階段でわたしが抱きつかれていたことを思い出しているのか、視線を僅かに彷徨わせたあと、真っ直ぐな目でわたしをまた見る。
そんな風に真っ直ぐな目を最近よく見るような気がする。お母さんや、温子さん。
あの後、また来ると行って帰って行ったお母さんに、わたしは自分の少ない荷物を運んでもらっておいた。温子さんもお母さんも驚いていたようだけれど、お母さんは同時に喜んでいるようだった。行くのなら、すぐにでも行ってしまわないと、ぐうたらなわたしはお母さんの元へ行くことさえ億劫になってしまうと思ったから。 お母さんのもとを選んだのは、簡単な理由からだった。それが、自然なことだから。温子さんとわたしはもともと家族でもなんでもない赤の他人なのだから。それに、もしかすると少し期待しているのかもしれない。こんなわたしでも、昔は同じ立ち位置にいて、今は全然違うところにいるジュンちゃんに、少しは近づけるかもしれないと。誰よりも人間くさい、かつてのかみさまと一緒にいれば、何か変わるのかもしれないと。
別に温子さんのことは嫌いでもなかった。好きでもなかったけれど、彼女との生活はわたしにとって心地のよいものだった。遠い仕事場に通う温子さんは、お父さんがいなくなってからも引越ししようとはしなかった。もしかしたらお父さんを待っていたのかもしれないし、他になにか考えがあったのかもしれない。そのどちらかも知らないけれど、小学生のわたしはそのことに少なからずほっとしていた。その頃のわたしはお父さんがもしかすると帰ってくるかもしれないと少しの期待を抱いていたし、生まれ育ったあの部屋には色んなものがあるような気がしていたから。
お母さんとお父さんと暮らしたところ。わたしの最後の感情の在り処。
わたしはジュンちゃんを見上げた。
「遠いのか……?」
「うん。多分ここには戻ってこようとは思わない程度には」
どこに行くのかもジュンちゃんは聞かずに、ただ小さく、項垂れるように頷いた。
いつ行くんだと聞かれて、今日学校帰りすぐと言うと、ジュンちゃんはどこか自嘲気味に微笑みながら早いな、と呟いた。本当は今日は学校に行かずにそのまま行くつもりだったけれど、お母さんに、友達にお別れをしてきなさいと言われたのだ。友達なんてわたしにはいないけれど、それを言うと彼女の顔が歪むのが簡単に想像できたから止めておいた。それに、最後に学校に行くのも悪くない。
あのなんの変哲もない教室に、渡り廊下に、運動場。小さな池がある中庭に、校庭を見下ろすことのできる屋上。なんの思いいれもないけれど、この先わたしは、多分そこでの風景を時たま思い出すだろう。
「だから、仲直りしておこうと思って」
「仲直り……?」
どこか的外れなその言葉にジュンちゃんは顔を顰めた。
仲直りなんて簡単な言葉でジュンちゃんが元通りに振舞うことなんて出来ないことは分かっている。わたしは、わたしたちの不自然な時間を守っていた薄い膜を破ってしまって、それはそんな簡単に戻ることはないことも知っていた。
多分ジュンちゃんの罪悪感と、事実がそれを許さない。
わたしの方はもうとっくの昔に、多分どこかおかしくなってしまっていて、今までジュンちゃんと過ごしてきた時間を思えば、そんなことは些末なことなのだけれど。
けれど、あの大きな虹のことは今も微かに心にひっかかっている。
わたしに残る普通の部分。
つまらない、どうでもいいような小さな事に執着する心。
わたしの心を動かす、ジュンちゃんの存在。
「仲直り、な」
ジュンちゃんは呟くように言うと、ふっと笑った。
無理して笑ってくれたのかもしれない。どこか寂しそうな笑い方だった。
風が吹いて、冬の澄んだ空気に混じって草のにおいと、少し生臭い川のにおいがやってくる。この河川敷をジュンちゃんと一緒に歩くのも多分これで最後だ。
「うん。そう。仲直り……ねえ、ジュンちゃん」
「うん?」
「抱きついてもいい?」
返事を待たずに、ぶつかるようにしてジュンちゃんに抱きついた。
マフラーとブレザーにぎゅっと顔を押し付ける。制服の繊維のにおいと、洗ったシャツのにおいとかすかに、それとは違う懐かしいにおいがする。
少ししてから、首や肩、背中に温かさを感じた。やわらかなシャンプーのにおいがする。首に髪の柔らかな感触がした。
「ばいばいだね。ジュンちゃん」
「……うん」
首元でくぐもった声が聞えた。無理やり搾り出したような声。
わたしはきっと、新しい場所でお母さんと新しい生活をして、今度は他人にも少しの興味を持って接して、誰かと知り合う。もしかしたら此処ではありえなかった『友達』もできるかもしれない。
めまぐるしい変化に、きっとわたしの中でこの河川敷の景色も、においも、あの大きな虹も薄れていくだろう。今のわたしの中の殆どを占めているジュンちゃんの存在さえも。今は想像でしかないけれど、きっとそうなる。
小さい頃はかみさまみたいな存在だった、本当は人間くさい、自分勝手なお母さん。彼女の存在でさえも、わたしは薄めていくことができたのだから。
「いい男捕まえて、元気な子供を産めよ」
ジュンちゃんは久しぶりに軽い口調でそう言った。
その言葉のおかしさにわたしは笑ってしまう。自分が普通の男の子と、普通の付き合いをしている姿なんて想像もつかなかったし、ましてやその先自分が子供を産むなんてことも考えられなかった。そんな現実的で、不可思議なことがわたしにもこの先訪れるのだろうか。
それにしても別れの挨拶でそんなことを言うなんて、ジュンちゃんはやっと少し調子を取り戻したらしい。
わたしがくすくすと笑っていると、ジュンちゃんは背中にまわした腕をそのままに、少しだけ体を離して顔を覗き込んできた。
「冗談とかじゃなくってさ」
「本気? だって私だよ? 想像できないよ」
「お前はちょっとどこか壊れてるけど、お前が思ってるよりは平凡な高校生だよ」
「そうなのかな……そうだったら、いいな」
二人揃って小さく笑う。わたしたちはどちらからともなく体を離すと、再び歩き出した。 少し前を行くジュンちゃんに付いていくようにゆっくりと進む。先ほどのように会話はなかった。
ふと川の方を見ると、釣竿のおじさんがいて、わたしはふいにおかしくなった。河川敷の風景は変わらない。川の上を渡る線路を電車が通過して、風が吹いた。
再会しても、もうわたしたちがあの時間を共有することはきっとない。不自然で、だけどゆったりとして柔らかい、心地よい時間。
その時間を思うと、ふいに頬を涙が伝った。お父さんが家を出て行った時に、追い詰められた風に流した涙じゃない。
どうしようもない寂しさは一緒だけれど、もっと違う何かが胸を締め付ける。
分かっている筈だった。いつかこんな風に別れの時がやってくることを。けれど、それと同時にあのゆったりとした時間が永遠に続くような錯覚にも陥っていた。自ら壊してしまった時間の儚さを今更ながらに想う。
ジュンちゃんといる時にわたしの胸を刺し続けたちっちゃな棘。その正体は分からないけれど、わたしはきっとこの痛みを忘れない。いつかその痛みが薄れてしまったとしても。