あわせ鏡
私のことを知り尽くしたあなただからこそ、望んだ結末があった。それが例え、相容れぬ未来へ突き進むことになるとしても。
眼の前で武器を構え、私とにらみ合う彼は静かに口を開く。
「累、いつから俺たちは道を違えた?」
「私だって訊きたいわ、乱。私はただ」
「もう、何も言うな。俺たちはもう、戻れない」
わかっている。
握りしめた刀の重さを、けして手放すことなどできないのだ。
ーーー
齢十の頃、初めて出逢った彼は乱といった。父の友人の息子で隣村からやってきた彼は、目鼻立ちの整った人だった。私は彼の二つ下で、妹のように可愛がってもらった。ただ時折、悲しそうな目をする彼が、私には酷く儚く映ったのだ。
「どうしたの?」
「どうもしないよ、なんでもない」
「だって、泣きそうな顔をしているわ」
「……そうかい」
彼は私を強く抱きしめてきて、息が苦しいほとだった。
それでも、彼が背負っているものは私にはわからなかったのだ。
私達の国は戦争をしていた。隣国との戦争は熾烈を極め、一進一退の攻防が続いていた。父と乱の父親は連れ立って戦地へ向かった。旗を作り送り出すことも、今思えば私と乱とでは、違ったのだろう。
溢れそうな涙を必死に抑えながら手をふる私と乱は、同時に言葉が漏れ出た。
「……ご武運を、父様」
「戦地での立派な死を願います、父上」
耳を疑う言葉に、思わず顔を上げた。
「なぜ?」
「何故とは?」
彼は私の問の意味がわからないようだった。
首を傾げ、不思議そうに眉をひそめる。
「死んでしまっては、何も残らないわ」
「何を言う、死んでこそ軍人、死んでこそ国のためだろう」
「生きなければ、国のために働けないわ」
「何を言う、累。死して命を捧げることにこそ意味がある」
何故噛み合わないのだろう。
何故大切な人が死地へ向かうことを喜べるのだろう。私が甘いのだろうか。
ただ、私はやっと理解できたのだ。彼の思想は、命を懸けることにこそ価値があると信じて疑わなないのだと。そして私は、彼の思想には到底寄り添うことはできないのだと。
月日は流れ、私は女軍隊へ入り、国を立て直すための教養と、私自身の意志のために力をつけた。彼のことが頭の隅にずっと残っていたものの、私はいつしか忘れ去っていた。彼が、どこにいるのかも気にしなかった。
「累、我々も戦地へ赴く。出立は明日だ」
「御意。ついに……ですね」
「ああ。一部味方が寝返ったとも聞く。かつての味方とも戦うことになろう」
「かつての、味方……とはいえ、今は敵ということですか」
私の師であり、私の敬愛する上官は、紫色の髪を結い上げながら溜息をついた。
「累。迷いや恐れは出立前に置いていけよ。戦地では一番枷になる」
「……は、はい」
「戦地で一人になることもあろうが、迷わずに生きろ。生きることだけを考えろ、敵前逃亡は裏切りではない」
上官の目は私の瞳を真っ直ぐ貫き、逃さない。私の迷いを一喝するわけでもなく、嘲笑うわけでもなく。次の言葉を出せずにいたのは、ふと頭の隅を過った彼の言葉とは、対照的過ぎたから。
上官は微笑みながら続ける。独り言のように。
「昔、私の主は言った。死ねば終わりだと。私もそう思う。だからこそ、生きねばならん。未来は切り開くものだ、待っていても願う未来が来ることはない」
「望まずとも明日が来るのは、切り開いてないから……でしょうか?」
「無論。……だが一方で、自分の死に場所を自分で決めること自体は悪いことだとは思っていない」
目をそらした上官の顔を夕日が照らす。
美しい目鼻立ちで見るものを魅了する上官のことを、国の長が上官を見初めるのも無理はない。そして上官は、恋人であり主である長の命で戦地へ向かう。私とともに。
私には、全く動じているように見えない上官が不思議でならなかった。戦地へ赴くことへの恐怖や、主とはいえ恋人から戦地へ行けと指示を受ける気持ちは、穏やかではない気がしたから。
「上官、その……一つだけ、よろしいでしょうか」
「なんだ?」
「上官は、怖くはないのですか、……死ぬ、ことが」
少しだけ驚いたように目を見開く彼女は、言葉を選んでいるようだった。再び視線が交わると、ゆるく頬を上げ、目尻を落とした。
「ああ。怖くはない」
「なぜですか?」
「先程、恐怖は捨ててきた」
私に背を向けると、彼女は窓へ向かって歩き出す。夕日が彼女を包み込むように、暖かく。これから訪れる夜を予感させながら。
「死ぬ勇気があるなら、生き抜く覚悟を持て」
「……え?」
「先程、長から言われた言葉だ。いずれは戦場で散ることもあろうが、最後まで生きよとな」
夕日が似合う方だ。私の上官は。
彼女こそが、私の不安も包みこんでくれる太陽のようで。しかし、微笑みはまるで月のように柔らかく包み込むようで。
「私達は、生きることを選ぼう。いつか死ぬ時が来るまでは。……生きていいんだよ、累。けして、自ら死ななくていい。生きて、活路を見い出せ」
「上官……御意!」
上官と笑顔で言葉を交わしたのは、それが最後だった。
ーーー
激しく吹き荒れる鉄の雨が、私の頬を掠めた。
辺りは血の湖で、私の服は鉛のように重い。
上官が無事かどうか、そればかりが気になってしまう。自分の身より、彼女の安否が。
反逆した身内が情報を流していたのか、私達の陣営はいとも簡単に突破され、最早見る影もない。
眼の前には張本人であろう、彼の姿があった。
「これで終いだ、累」
「貴方の言いなりになんてならないわ、乱……私は、生きるのよ」
「死してこそ、価値がある。死ぬその時まで戦うことでしか、価値は出せない」
私の言葉はどれだけ貴方に伝わるのだろうか。
私の言葉は、貴方に届かないのだろうか。
一瞬の隙をついて私の胸を刃が貫いた。
痛みなどはなく、ただ衝撃で倒れるように。
肺が空気を貪るように、胸が上下するのが見える。
私が起き上がれないことに気がついたのは、しばらくしてからだった。温かい血溜まりが急速に冷えていく。
「はあ、は、……くっ……じ、上官……っ」
声にならない叫びが空気となって舞っていく。
もう動かせない手足が、私にとっては邪魔な重りのようだった。段々と霞んでいく意識の中で、先程刀を交えた敵が脳裏に焼き付いて、ただ歯を噛み締めた。
何処かで交わる刀の音がして、朧気な意識を強引に向けると、見たことのある二人が対峙していた。
「私の部下を酷く可愛がってくれたらしい」
「部下……累のことか」
「ああ、乱。お前のことも、私にとっては可愛い部下のようなものだがな。……尤も、元だが」
交わる刀が耳を劈くのは、生きている証だ。
生きるために刃を交え、生きるために信念を貫く。
なのに何故、信念を共にして歩むことができないのか。
互いの信念を貫くとき、私達は度々衝突し、傷つけ合い、そして奪い合う。命をなんとも思っていない。奪い合う対象としてしか見ていない。
彼のことを知り尽くした私と、私のことを知り尽くした彼が、何故相容れぬ道を進むことになったのか。
答えは、一つしかない。
「信念と信念のぶつかりあいは、武力でしか解決できぬ」
いつのことだったか、上官が言っていた。
きっとそうなのだろう。
だからこそ、相手を知ろうとしなければならないと思っていた。だからこそ、彼を。
私はまだ、死ねない。
おもむろに手をついて、力を込める。
先程まで立ち上がれないと思っていた私の、最後の力とでも言うのだろうか。体が浮き上がり、刀を持つことができたことに自分でも驚いた。
上官が目を見開く。
「累……!」
「冠様、私に……やらせてください」
よろけながらも立ち上がる私に、一番熱視線を注いだのは紛れもなく彼だった。
「ほう、立ち上がれるとはな、累」
「あなたを遺して、死ねないのよ」
「それでこそ……だな」
刀を構えて足に力を入れる。
なぜか再び体を起こせた私の最後の一刀だ。
「累、いつから俺たちは道を違えた?」
「私だって訊きたいわ、乱。私はただ」
「もう、何も言うな。俺たちはもう、戻れない」
私が貴方に贈ることができる、最後の一刀。
貴方が開放されるには、確実に玉の緒を切らなくては。
「生きるって、素晴らしいのよ、乱」
「たわけ。好き勝手言えるのも今のうちだ」
「死に急ぐことはないわ、あなたは……まだ、生きる道がある」
私とは違って。
玉の緒を切るただ一筋を狙いながら、逆のことを口走る私は。私の、願いは。
死に急ぐあなたと、生きてほしい私の相容れぬ未来は。
すぐ目の前にある。
「ぐっ……」
「似た者同士なのよ、私たち……ね、乱」
「る、い」
彼の望む未来が、意味のある死であるなら。
私は、意味のない生を望んだ。
彼の望む死が、最善であるのなら。
私は、彼にとって最悪の選択を叩きつける。
こだわる理由なんて何もないのに。
ただ自分を正当化したいだけの、脆弱な見栄だ。
「俺の、負けだ」
彼の背後から彼の急所を外すように貫いた刃は、彼の正面にいる私の急所を貫く。
これが私の出した答えだ。卑怯で慢心な、私の。
「私が居ない世界で、……生きて」
「それこそ、なんの意味も……ないではないか」
「意味がないからこそ、でしょう」
崩れ落ちる私の体を支えてくれたのは上官だった。
上官との約束さえも破って死を選んだ私に、上官は何も言わなかった。
「じょ、う……かん」
「もう、何も喋るな。わかっている」
「わた、し……幸せ、で」
薄れゆく世界の色が、私の感覚さえも奪っていく。
彼は私と対照的な顔をして、今にも零れ落ちそうで。
「生き、て……」
貴方にとって意味のない生だとしても。
意味のある死は、私が受け取ったから。
この先けして交わらない未来が、貴方にだけ訪れるとしても、貴方は生きて。
そしていつか、意味のない生に、価値を見出して。
けして相容れぬ貴方との未来が、私が生きた証。
私のことを知り尽くした貴方が捨てきれなかった、私の結末だ。
お読みいただきありがとうございました。