第一話
伯夷叔斉孤竹君之二子也。父欲立叔斉。及父卒叔斉譲伯夷。伯夷曰父命也。遂逃去。叔斉亦不肯立而逃之。国人立其中子。
(伯夷叔斉は孤竹君の二子である。父は長男伯夷を差し置いて末子叔斉を偏愛し、後継者にしようとした。父が死ぬと叔斉は「兄伯夷に譲る」と言った。伯夷「叔斉が跡目を継ぐのは父の遺言である」と言い、遂に国外に逃れた。叔斉もまた首を縦に振らず国外に逃れた。そこで国中の人々は次男を跡継ぎに立てた)
(『史記』「伯夷叔斉列伝」)
紀伝道講釈において文章博士東坊城秀長より授けられた忠孝美談の、痺れるような感動を、義持は将軍になってずいぶん経った今でも忘れることができないでいる。
(伯夷叔斉の如く在りたい)
心底そう思う。兄弟が互いに国主の座を譲り合い、しまいには二人揃って出奔してしまった謙譲の美を体現したいと願う自分がいる。
等持院殿(尊氏)とその弟直義が主導権を巡って激しく争った一連の抗争事件は、三代将軍にして義持の父、義満の代に至るまで有形無形の悪影響を幕政に及ぼし続けた。父の治世の大半は、義持から見て曾祖父世代の人物が引き起こしたこの兄弟げんかいわゆる「観応の擾乱」の後始末に費やされたといっても過言ではなかった。骨肉の争いに振り回された苦い経験があるからこそ父は
「一族で相争ってはならぬ。兄弟ともなれば尚更である」
兄弟間の友愛を義持以下に強く求めたのである。
「プイ~」
義持が父義満の指導に従って笙の吹口から息を吹き入れると、竹管の下部に取り付けられた簧が振動し、独特の音を奏でた。
笙とは、竹の管を一七本束ね、吹口から息を吐いたり吸ったりすることで音を奏でる管楽器の一種である。雅楽の演奏を思い出していただければ、現代を生きる我々にも
「ああ、あの音か」
と、その音色を想像するに容易いあの楽器だ。
義持の吹奏に対して
「そうではない、そうではない」
何が気に入らないのか顔を顰めながら「そうではない」と繰り返すばかりの義満。父の言うがまま演奏しているつもりなのだが……。
「将軍の奏でる音色はまるっきりばらけて聞こえる。竹管の数ほども音は出るが、優れた演者というものは数ある音の中からも、はっきりそれと分かる芯の通った音を奏でるものだ。はい、もう一度」
(芯の通った音色……芯の通った音色)
その点に留意しつつ促されてやってはみたものの結果はやはり
「否、否。そうではない」
同じであった。
しまいには
「義嗣、やってみせよ」
義持の指導は手に余るとでも言いたげに義嗣に実演を求める父義満。
義嗣は父に求められるまま、兄義持への遠慮からか、ばつが悪そうに戸惑いながらも
「プイ~」
と実演してみせた。
「分かるか将軍」
分からぬ。
弟義嗣と自分の演奏とがどう違うのか、これがどうにもさっぱり分からないのである。
義持は吹口をくわえながら意地になって吸ったり吐いたりを繰り返すしかなかった。要点が摑めない以上、数をこなして偶然にでも父の気に入る音を奏でる以外に突破口を見出す方法がないと思ったためであった。
しかし
「スコー、スコー」
途端に音が出なくなった笙をそれでも懸命に吹き回す義持に、義満が冷ややかな眼差しを投げかける。
「兄上、それなる火鉢で……」
見かねた義嗣が小声で助言する。
「そ……そうか、そうであったな」
管楽器である笙はその構造上、内部に結露を免れない。これを放置して演奏を続ければ内部に発生した水滴により、まず高温から狂いが生じ、やがて音そのものが出なくなってしまう。真夏でも笙の演者の脇に火鉢が置かれるのはこのためだ。炙って結露を飛ばすのである。義持は演奏に懸命になるあまり、義嗣から指摘されるまで笙を火鉢で温めるのを失念してしまっていた。
「はぁ~」
額に手を当てながら呆れたように深いため息を吐く義満。
「もうよい。本日はこれまで」
そう告げて席を立とうとするが
「父上、しばしお待ちあれ……!」
なんとか引き留めようという義持。
義満はそんな義持を置いて、そそくさと立ち去ってしまったのであった。
重苦しい沈黙。残された兄弟の間に気まずい空気が流れる。
「そなたとわしとで何が違ったのかのう……」
二三歳の将軍義持が、自分でも驚くほど弱々しい声で八つ年下の異母弟に問うた。
「私にも分かりませんでした。仰せのままに実演しただけで……」
自分も兄と違わない。へりくだってそう言いたいのだろう。社交辞令だろうが、笙の演奏を父に認められたこの弟は、己が才気を鼻にかけるでもなく、かえって兄である自分に気遣いを見せてくれているのだ。
「しかし、私は少し安心しました」
ふと意外なことを口走る弟。
「安心……?」
異なことを、と義持が訊ねると義嗣は答えた。
「私にとって兄上は完璧すぎる兄上でした。漢籍の読書量、仏典の理解度、書画の業、すべてにおいて私如きが足許にも及ばぬその兄上も、笙の演奏は苦手なのだと分かると、兄上には申し訳ありませんが安心してしまったのです」
ふふっ、と笑ったあどけなさを残す義嗣の表情は、冷え切った義持の心を温かく解きほぐすに十分だった。
(もう、やむを得んか……)
――おべっかでも嬉しいものだ。
弟がここまでの力量と気遣いを示してくれている以上、義持は、帝の北山第行幸における笙演奏の栄誉を義嗣に譲るしかないと思った。
応永一五年(一四〇八)三月八日、足利義満は北山第に後小松天皇の行幸を得た。この直前の二月二七日、足利義嗣は、元服前でありながら父義満に伴われ参内する童殿上の栄誉に浴し、(正式に「義嗣」を名乗るのはこの日のこと)、三月四日には従五位下に叙されている。北山第行幸は、義嗣の社交界デビューを華々しく演出する場として利用されたのである。
帝の御前における舞御覧で、みごと笙の演奏を遂げた義嗣。その席に義持の姿はなかった。行幸中の洛中警固を義満に命じられたため、というのは建前にすぎぬ。実のところをいうと、笙演奏の腕前が不安視されていた義持を舞御覧の席から遠ざけるための方便ではなかったかという見解が今日では主流となっている。
煌びやかな北山第行幸を横目に見ながら室町第において一人不遇をかこつ義持。弟義嗣を偏愛する父義満が、それぞれ叔斉と孤竹君に重なって見える。
だとすれば自分は
「父命也(父の遺言である)」
亡父遺命を遵守して出奔した伯夷そのものではないか。自分はいま、斯く在りたいと願った聖人と同じ立場に立っているのである。
だから義持は
――舞御覧から遠ざけられた不遇をもう嘆くまい。
強いてそう考えるようにしたのだった。