甘い夢だと思っていた
「なあ、セレス、知ってるか?
第一王子のカルヴィン様が、廃嫡になったらしいぞ」
ドアを開けて部屋に入って来た、兄カーターの思い掛けない言葉に、私は、手にしていたピンセットを思わず床に取り落とした。
「……嘘でしょう?」
「いや、それが本当らしくてな。俺も耳を疑ったんだが」
「……」
私は言葉を失くして呆然と立ち尽くしていた。しばらくしてから、震える声で兄に尋ねる。
「どうして廃嫡なんかに?」
「公衆の面前で、婚約者だった侯爵家令嬢との婚約破棄を告げたんだってさ。何も非がないのに、婚約を破棄されて面子を潰された令嬢の家ーーお前も知ってるだろうが、この国でも指折りの有力な貴族だーーは怒り心頭で、第二王子が王位を継ぎ、その妃として令嬢が収まることになって、ようやく溜飲を下げたらしい」
私は信じられない思いで呟いた。
「カルヴィン様は、考えなしにそんなことをなさる方なんかじゃ、ないはずよ」
ーー昔は、手の焼ける悪戯っ子だったかもしれないけれど。もう、誰もが認める立派な王子になっていたのに。
この王国の第一王子、カルヴィン・リル・ラシウス様。
カルヴィン様がまだもう少し幼かった頃から、彼が学園を卒業するまで、彼の家庭教師をしていたのが、私、セレスティア・クラインだった。
私の家系は、研究者を多く輩出していて、兄も私も、祖父や父と同様に研究者をしている。子爵家である私の家は、貴族としての位はそう高くはないけれど、学園時代の成績は一応、兄妹共に良かった。
はじめに、カルヴィン様の家庭教師候補として白羽の矢が立ったのは、私の兄だった。けれど、三度の飯より研究が好きな兄は、あろうことか、私にその役目を押し付けて来たのだ。
王家からの依頼を無下にできる訳もなく、不承不承、私は兄の代わりに王宮に出向いた。カルヴィン様の側近は、カルヴィン様と割合と年も近く、当時はまだ学生だった私を彼の家庭教師にすることに、はじめは難色を示していたらしい。けれど、王宮を訪れた私の、分厚い眼鏡をかけて、ひっつめた黒髪を後ろで1つに結わえた、化粧っ気も色気の欠片もない姿を見て、これなら大丈夫だと安心したそうだ。
カルヴィン様の部屋に通されて、私は早速彼と顔合わせをすることになった。
「初めまして、カルヴィン様。私はセレスティア・クラインと申します」
深々と頭を下げて挨拶をした私に、カルヴィン様が少し片眉を上げた。
「へえ。君が、僕の新しい家庭教師?」
当時のカルヴィン様は、一見すれば、整った顔立ちの中にもあどけなさの残る、可愛らしい少年だった。彼は私ににっこりと笑い掛けた。
「ちょうど、数学でわからないところがあったんだ。早速だけど、教えてもらってもいい?」
「ええ、もちろん構いませんよ」
黒縁の分厚い眼鏡をくいっと持ち上げた私が、机の上の数学の教本に手を伸ばした時、私は思わず大きな声を上げた。
「ひゃあっ……!」
カルヴィン様が、わくわくしたように、悪戯っぽい輝きをその瞳に浮かべている。その教本の表紙には、大きな芋虫がもぞもぞと這っていたのだ。
「カルヴィン様! この幼虫、どこで見付けたのですか??」
「は?」
私が悲鳴を上げて逃げ出すことを期待していたようだったカルヴィン様は、芋虫を素手でつまんで掌に乗せ、目を輝かせた私に、驚いたようにぽかんと口を開けた。
「……この部屋の前にある、中庭の花壇の中だよ」
ぼそりと呟いたカルヴィン様の前で、私は興奮のあまり、つい饒舌になった。
「この幼虫の、身体の横に入った、2本の青い線が見えますか? これは成虫になると、とても珍しい、美しい瑠璃色をした蝶になるのですよ。王都にはいないかと思っていましたが、こんな場所にもいたんですねえ」
何ていうことはない、私の家では代々昆虫を研究しているのだ。芋虫なんて朝飯前だった。
私が嬉しそうに芋虫を掌に乗せている姿が余程可笑しかったようで、彼は堪え切れず吹き出すと、そのままケラケラと笑い出した。
「君、面白いね。君の名前、セレスティアって言ってたよね?」
「はい、そうです」
「じゃ、セレスでいい? これからよろしくね、セレス」
そうして、彼の家庭教師としての日々が始まったのだった。どうやら、彼の悪戯に、私の前に幾人かの家庭教師がドロップアウトしていたらしいと知ったのは、その後の話だ。
カルヴィン様は、こんな風に年相応の少年らしさはあったものの、実のところ、非常な努力家だった。
今でこそ、表向きは非の打ち所がない王子と呼ばれるようになっていたカルヴィン様だったけれどーー少なくとも、非常識な婚約破棄をするまではーー、それは彼のたゆまぬ努力の賜物であることを、私は誰よりもよく知っていた。だからこそ、彼の廃嫡を聞いても、私はにわかに信じ難かったのだ。
私が家庭教師を始めた頃には、苦手な科目が思うように理解できなくて、ベソをかいたりむくれたり、剣技を習った後で疲れ果てて、こくりこくりと居眠りをしたりということもあったけれど、それでも、負けず嫌いの彼は、必死に勉学に剣技にと食らい付いていた。どんなに困難に見える目標でも、これと決めたら必ず達成する彼を、私は密かに尊敬していた。
少し疲れた時、彼は決まって私の服の裾を引っ張ると、「セレス、ちょっと外で休憩しようよ」と言った。
豊かな自然を残した、広い王宮内の庭では、たくさんの昆虫を観察することができた。
私に負けず劣らず虫が大好きだった彼と、花咲く時期には一緒に蝶を追い掛けて、暑い盛りには木の上のセミを捕まえて。土の中に眠る、白く丸まった幼虫を、爪の先まで真っ黒にして掘り返したこともあったし、涼しい風が吹く頃には、2人して虫の音に耳を澄ませた。カルヴィン様とは、教え子の王子というよりは、仲の良い親戚の男の子という方がしっくり来るような距離感だった。
時々、珍しい虫も見付かった。カルヴィン様は、変わった昆虫を見付ける度に、私の手を引いて行った。
「ねえ、セレス。この虫って何て言うの?」
「カルヴィン様、また珍しいものを見付けましたね。それはですね……」
私が嬉々として蘊蓄を傾けても、嫌な顔をせずにこにことして聞いてくれた彼は、なかなか心が広かったのだろうとも思う。私もそんなカルヴィン様と過ごす時間が楽しかったし、その一方で、彼がめきめきと学力を伸ばし、将来の国王に相応しく、どんどん成長していく姿を見るのも嬉しかった。
私は、彼の年子の弟である第二王子のエルネスト様の勉強も、少しだけ見たことがある。エルネスト様は、またカルヴィン様とはタイプが違って、生まれ付いての天才肌だった。一を聞いて十を知る、とは、エルネスト様のためにある言葉かと思ったほどだ。
けれど、エルネスト様の勉強を見ながら、私は胸がちくりと痛むのを感じた。こんなに優秀な弟と比較される兄の気持ちは、どんなものなのだろう、と。私がエルネスト様に勉強を教えた後には、決まってカルヴィン様の機嫌が悪くなるものだから、私は早々にエルネスト様の家庭教師は辞した。
カルヴィン様の成績は、私が家庭教師になってから知る限り、学園でも安定してトップクラスを維持していた。必死に努力するカルヴィン様の姿を見ていなければ、彼は易々と何でもこなす王子にしか見えなかっただろう。でも、彼が目に見えぬ重圧と必死に戦っていることは、私には痛いほどにわかった。生まれながらに背負った、第一王子という地位と、それに対する周囲の期待、そして秀でた弟と比較する者たちの目。カルヴィン様は根は真面目で、うるさく言わなくてもやるべきことはやってくれたから、私が彼と過ごす時は、せめて肩肘張らずにリラックスしてもらえるようにと、ただそれだけを心掛けた。
「……もし僕が王子に生まれていなかったら、セレスみたいに虫の研究者を目指してみたかったな」
たった一度だけ、彼がそう言って、自由な立場の私を眩しそうに見たことがある。
「カルヴィン様は、将来、素晴らしい国王になりますよ。でも、そうですねえ。……もしカルヴィン様が研究者になったとしても、いい研究者になったでしょうね。ふふ、私も助手に欲しいくらいですよ」
私が冗談めかして、少し憂鬱そうな顔をした彼の頭をぽんぽんと軽く撫でると、彼はじっと私を見つめた。
「ねえ、セレス。いつか僕が学園を卒業して、君が僕の家庭教師じゃなくなっても、僕、セレスのところに遊びに行ってもいい?」
きっと、彼が学園を卒業したら、そんな時間の余裕なんてないだろうことはわかっていた。彼も、それは理解していたと思う。それに、彼には既に、彼が王になる時に、彼を支えるために定められた婚約者がいた。王妃教育のために王宮を訪れている、お人形のように美しい、カルヴィン様の幼馴染みだという彼女を見掛ける度に、私は思わずほうっと彼女に見惚れてしまった。そして、そのような時には、カルヴィン様は、これからこの国を担う、私とは住む世界が違う方なのだと、改めて感じた。
けれど、授業の合間に2人で食べるお茶菓子のように、ただ甘くて優しい、吹けば飛んでしまいそうな夢を、もう少しだけ見ていたいような気もした。もし、成長した彼と一緒に過ごせる時間が未来にあるのなら、それは楽しいひとときになるに違いない。
「……もちろん、大歓迎しますよ」
「絶対だよ? セレスは、僕だけのセレスなんだからね。また、色々教えてよ」
「はいはい、わかりましたから」
すっかり私に懐いてしまった様子のカルヴィン様に多少戸惑いつつも、私はそんな彼が可愛くて仕方なかった。
同じ季節が幾度か巡り、彼は学園を卒業した。
私は、いつか彼が国王になれば、彼をまた目にすることができると、彼が立派な国王になるのを遠くからでも楽しみに見守っていようと、そう思っていたのに。
それなのに、どうして。
「……ねえ、兄さん。やっぱり私、さっきの話、まだ信じられないわ。本当に本当なの?」
「俺にそう言われてもなあ。本人に聞いてみたら?」
私は驚きに目を見開いた。兄がくいっと顎で示した先には、懐かしい顔があったからだ。最後に会った時からさらに少し背が伸びて、大人びて凛々しくなったその顔には、悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「はっ……!? カルヴィン様!! どうして、こんな所に?」
「どうしてって、セレスに会いに来たんだよ。僕が来たら歓迎してくれるって、そう言ってなかった?」
「そ、そんなことより!! あの可愛らしかった婚約者の方との婚約を破棄したって、本当なんですか!?」
私は彼の両肩を掴んで、がくがくと揺すった。記憶していたよりも彼の顔が大分上にあるような気がして、それに細かったはずの彼の身体もがっしりとしていることに、少し戸惑いを覚える。
彼は、何でもないことだとでも言うように、飄々として答えた。
「ああ、リーリエのこと? 実はね、弟のエルネストが、昔からリーリエのことを好きだったんだよ。彼女もエルネストのことを想ってることが最近わかったし、地頭が良くて、何をやらせてもそつがないエルネストの方が、王位向きだしね。
僕が王位を辞退したいって言ったところで、立場上、はい、そうですか、という訳にはいかないからさ。あれくらいやらかしたら、ようやく解放されたよ」
あっけらかんとして笑う彼を、私は軽く睨んだ。
「だからって、カルヴィン様だけが犠牲になって、廃嫡にまでなるなんて。私が家庭教師をしていた時も、将来の王になるべく、あんなに努力なさっていたのに。あなたは立派な王になる方だと、そう信じていたのに……」
「僕が努力していたのは、別に、王に相応しくなりたかったからじゃないよ。
結果を出してセレスに喜んで欲しかったからだし、君に格好良いところを見せたかったからだよ」
「……はあ?」
ぽかんとした私に、カルヴィン様がくすくすと笑う。
「まあ、リーリエとエルネストには事前に、内緒で僕の考えを伝えておいたから。お蔭で、彼らも何かと裏では僕に協力してくれたよ。
廃嫡になった代わりに、爵位と、辺境の領地が手に入ったから、僕にとっては1つ目の目標達成。ようやく自由も手に入れたし、これからは思う存分、僕も好きなことができるよ。
……ねえセレス、僕を助手に欲しいって言ってたよね?」
「ええ、それは確かに言いましたが……」
もしかしたら、私のせいで、カルヴィン様の道を誤らせてしまったのだろうかと、複雑な思いが胸に込み上げる。
けれど、こんなに明るい彼の顔を見たのは初めてで、私も彼につられるように笑ってしまった。
「わかりました。では、お願いします。……ふふ、カルヴィン様とまた虫を一緒に捕まえられるなんて、楽しみですね」
「うん。まあ、セレスの助手だけで終わるつもりはないけどね」
兄が、にこりと笑ったカルヴィン様の肩に、親しげに腕を回す。
「カルヴィン様も知っての通り、ちょっと鈍い妹だけど、これからもよろしくお願いしますね。
……セレス。こんな研究に没頭してるお前には、嫁の貰い手なんてないんじゃないかと心配してたけど。何とかなりそうでよかったよ」
「は???」
今までの会話には、嫁なんていう言葉は一度も出て来ていないはずだ。困惑した私に、兄は再度口を開いた。
「ああ、さっき言い忘れてた。
彼が婚約破棄した時、自分には王位よりも大事な想い人がいるから、君とは結婚できないって婚約者に言ったらしいよ」
「それって……?」
まさかとは思いながらも、カルヴィン様の表情を見ると、どうやらそのまさかのようで。みるみるうちに、私の頬にかあっと血が上って来るのがわかる。
「……ちゃんと、君が一番喜びそうな、鬱蒼と木々が生い茂って綺麗な小川も流れている、自然豊かな領地を手に入れておいたからね。虫だっていくらでもいると思うよ。
すぐには無理かもしれないけど、いつか必ず君のことを振り向かせるから。しっかり覚えておいてね、セレス?」
目の前で嬉しそうに笑う、眩しいほどに成長した彼の言葉は、もう子供の冗談だと笑い飛ばすこともできなくて。
昔ほんのりと想像した夢とは少し違っているけれど、彼とこれからも一緒の時間を過ごせることは、私が想像していた以上に、素直に嬉しかった。
胸の中に初めて広がった、このこそばゆいような感情の名前が思い浮かばないままに、私は赤くなった顔をごまかすように、少しずれた分厚い眼鏡の位置を直したのだった。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!
新年が皆様にとって良い年になりますよう、お祈りしております。