うっかり魔王は元勇者とシェアハウスで喧嘩するし畑では野菜も育ってる
失敗した。うっかりしていた。
人間という生き物はどこまでも生き汚いということを、失念していた。勇者という生き物はどこまでもお節介だということを、理解できていなかった。
薄暗い石造りの空間だった。元は白かったであろう大理石の内装は煤で汚れ、壁だけでなく天井付近にまで破損の形跡がり、蜘蛛の巣状のひび割れが大渋滞している。あちこちに放置された芸術的な価値があったらしい石像は砕け、壁にかけられた絵画は悉く額縁が割れ絵も裂けている。
見るも無残な有り様だ。
「……チッ」
小さく舌打ちし、魔力を練る。しかし魔法を発動するより早く、喉元に剣を突きつけられた。
「何だ」
「何をする気だ……!」
遮る勢いで放たれた言葉には憤怒があふれ、しかし反して、声には覇気がない。
短く刈ってある金髪は血に濡れ、せっかくの端正な顔は擦り傷だらけだ。蓄積された疲労からか、澄んだ青い瞳は濁り焦点も定かでない。左腕は折れている。纏っていた立派な鎧は半分も残っておらず、残った部分もほとんど原型を留めていない。服は血が固まる際に巻き込まれ張り付いただけの布切れになってしまっているし、というか上半身はそのほとんどが露出していた。
派手に散った血が、まるで肌を這う赤い文様のようにも見える。
「ふむ……汚いな」
「何をする気だ、と聞いているんだ、魔王!」
「そう興奮するな。失血死するぞ、勇者」
あふれてなお冷めやらぬ怒気をぶつける勇者を前に、魔王はしれっと言い放つ。
死ぬ、死んでしまう。こんな弱い勇者は放っておいたら死んでしまう。到底、魔王の相手になる器ではなかった。一目見た瞬間、確信した。
魔王城の最奥、玉座の間でくつろいでいた魔王の元へやってきた勇者は、あまりに弱かった。デコピンで殺せると魔王は確信した。だから言った。帰れ、と。勇者が出しゃばってくるほどのことはまだ何もしていない。大方、お前達が信仰する神が勇み足で天啓を寄越したのだろう。大丈夫。対等に争えるような勇者が生まれるまで待っても、人間を滅ぼし尽くすには時間が足りない。安心して帰れ、と。いっそ憐みの気持ちさえ込めて言った。本心からの同情だった。可哀想に、こんなに弱いのに。よくぞここまで、よく死なずに到達できたものだと。抱きしめてキスしてあげたい気分だった。
「うるさい。貴様を殺すまで、俺は死なない」
震える足で、勇者は剣を構える。もう握力が限界で、突きつけた切っ先はブレまくりだ。それでも構える。踏ん張る。朦朧とする意識の中で、魔王への殺意だけを研ぎ澄ます。
勇者だってわかっていた。玉座の間で、中央にクッションを敷き詰めて寝そべっていた魔王ではあったけれど。『あれ、マジで来ちゃったの?』なんて第一声で迎えるような魔王ではあったけれど。勝てないことくらい理解できた。この禍々しい深紅のたてがみのような髪をした、ねじれた二本角を持つ魔王には決して勝てない、と。確信した。魔王は圧倒的な強者だった。頬を撫でられただけで死ぬと確信した。でも剣を抜いた。勝てないけれど、殺せないけれど、生かしておけない存在だった。
「じゃあ寝ろ。お前そんなんじゃ、どんなに意地を張ったって死ぬぞ」
「俺は――」
おやすみ、という魔王の声を最後に、勇者の意識は途切れた。
くずおれた勇者の体を支え、握りしめている剣を手からそっと抜いてやる。触れた指先が焼けるが気にしない。勇者が弱いせいでせっかくの聖剣も火傷する程度の力しかなかった。
どこを見回しても汚いのでしかたなく破れたカーペットの中でも割と原型を残している場所に寝かせ、自分のローブを毛布代わりにかけてやる。
「さて、と」
魔法を使うと感知して起きてしまうかもしれないと思い、魔王は自分が今いるこの場所を一先ず探索することにした。
◇
油断した。弱いから、脆いから、気を抜いた。よそ見した。
自分の腹に深々と突き刺さった聖剣を見ても、魔王は片眉を上げただけだった。さすがに内臓を焼かれれば多少は痛みもするが、気にするほどではなかった。しかしそれがいけなかった。気にすべきだった。
突如、すさまじい魔力の奔流を感じた。自分の体の内側、正確には突き刺さった聖剣から。
『道連れだ。俺と一緒にきてもらうぞ、魔王!』
あ、やばい。魔王が思ったのはそんなことだった。思い出したのである。
勇者一行は旅の道中、古の賢者だの聖者だのなんかその辺の人間が残したスクロールを手に入れていたのだった。かつての魔王の皮を剥いで利用したスクロール。強大な魔力を内包するスクロールに、これでもかと魔法を刻んだ超レアアイテム。魔王を封印する魔法が込められたスクロールである。もし万が一、新たな魔王が誕生したその時は。いつ訪れるとも知れない脅威への備え。
魔王を封印するのに魔王を頼るなよ、と。報告する部下の言葉を聞きながら魔王は溜め息を吐き出したのだった。しかも、そこまでしてなお、魔王を殺せるだけの魔法は込められなかったらしいというのが泣ける。その存在を、今まさに自分に使われるという瞬間に至るまで綺麗さっぱり忘れていた。
魔王は迂闊な男だった。己が最強であるという確信故にきっかり慢心するタイプであった。数多の勇者の頭をもいで喰らい、勇者が連れてくる女の腹を意気揚々と裂いて血を啜り、戦士や騎士といった肉の固い男連中はさっさと消し炭にしてきた。
時折、殴りこんでくる神もいたが名前が違うだけで、どれも魔王の敵にはなり得なかった。勇者と同じように頭をもいで喰らい、腹を裂いて血を啜っては、さすがに神の血は舌が痺れるな、と辛口な舌触りを楽しんだ。神は男でも肉が柔らかいので食材としては寧ろ好物だった。
そんな奴であったから、魔王は失敗した。うっかりした。失念していた。
お手玉みたいに命を放って遊んでいたら、いつか手痛いしっぺ返しを食らのだと理解できていなかった。神の采配でも悪魔の悪戯でもなく、自業自得で。
それがあの瞬間だった。腹に突き刺さった聖剣に張り付けてあったスクロールが発動して、眩い光に目が眩んで、気づけばここにいた。
天国なんて場所ではもちろんない。地獄でもないだろう。冥府の神は神経質で狭量だから、自分の領地を一部でも譲ってはくれまい。魔王は一人、納得して頷いた。
いうなればここは、スクロールの元になった魔王の魔力に残留していた思念を利用した結界、その内側である。魔王は封印されたのだ。勇者の捨て身の一刺しで、勇者諸共。よく考えたものである。人間という生き物は時として、自己犠牲に躊躇がない。だから嫌いなんだ。
封印という形をとる以上、魔王も勇者もここから出られないし死ねない。とんだうっかりもあったものである。
自分が死ぬ瞬間など考えたこともなかったが、いざ死ねないとなると少しだけ気分が悪かった。そのうち、それこそ世界が壊れる時にはさすがに死ぬだろう、と思っていたからこそ考えなかった死である。
「にしても汚いなここ。掃除へたくそかよ」
鮮明にこびりついた記憶である。魔王が考えもしなかった、それは死の記憶であった。魔法使いに身を焼かれ、戦士に肉を斬られ、聖女に聖痕を刻まれ、そして勇者によって殺された瞬間の記憶。激闘の末に打ち倒されたかつての魔王の記憶の中の城は、それに見合うだけ損傷していた。元が何であったかわからないほど破壊し尽くされた。故の汚さ、故の無残さである。
「ふむ……掃除するか」
魔王は切り替えの早い男であった。封印された以上、悪ぶっても意味がない。邪悪を肉袋に詰められるだけ詰めたような部下も、悪意を煮詰めて固めた脳みそでできたような魔族の民も、ここにはいない。一日一回、破壊行為を行わないと体調不良を疑われる生活はもうないのだ。
「箒とかあるかな……」
魔王は飽いていた。
人間はすっかり弱くなった。歴代の魔王がしっかりきっちり悪逆を尽くし続けた結果、強者はこぞって魔王城を目指し、打倒魔王を目標に据える。命に限りがあるくせに、繁殖だけに注力しなければあっという間に滅んでしまうような種族のくせに。どいつもこいつも自分以外の誰かのために剣を取った。その結果がこれだ。
人間は弱くなった。強者が血を残さないからだ。次の世代を残さない。今を生きるので精いっぱい。目先の平和などという仮初の希望に縋りついて、結果として将来的な平穏をどぶに捨てた。
何が世界平和だくだらない。世界最弱たる人間が、自分達を害する存在の中でも一等目立っている脅威を排そうと足掻いているだけだろう。人間だって人間を殺す癖に、勝手なものだ。己の宿願を果たした結果を世界規模で語るな。そんなことを言い出したら、牛や豚が人間を殺し尽くしても世界平和だろうが。と、魔王はかねてより腹を立てていた。
「うわ、箒が潰れてる。徹底してんなあ、この時代の勇者」
魔王の命を奪う頃には、勇者を筆頭に集められた人間の強者共も命をすり潰している。それは魔法の使い過ぎによる生命エネルギーの枯渇であったり、回復薬の飲み過ぎによる中毒であったり、聖なる力の酷使による魂の摩耗であったり。番を求め、血を残すには命が足りないほどに、己を擦り減らしている。擦り切れている。
そもそも魔王などというおおよそ人間では勝ち目のない存在を相手にするために、なんとか勝とうとするあまり、勇者一行は人間の枠から外されている。神の悪戯だ。人間では到達できない魔法の習得のために魔力器官を捻じ曲げ、人間では手に入らない強固さのために肉体をつくり変え、人間では届かない神の奇蹟に等しい力を得るため魂を歪め。そうして彼らは人間であることをやめた。人間が、人間のために、人間であることを諦めた。反吐が出る。
人間でなくなった彼らは人間として後世に血を残せない。人間と交わっても子をなせない。そんなことばっかりやってるから、人間は弱る一方なのだ。脆弱な血を脆弱な血で繋ぎ、ウジのように数ばかり増えて、そのくせ一向に強くなれない。
「あ、デッキブラシあった。これでゴミを集めるか」
神も神だ。面白半分で人間を創った。自分に似せて創ったくせに、天上に至ることは許さなかった。大した世話もせず野花のように眺めて愛でるだけ。
魔王がちょっと人間を殺すと大騒ぎして、勇者などと持ち上げて寄越す。弱いのだから、唯一の強みである数で攻めさせればいいものを、ちょっと突出した数人だけを送り出すものだからいつまで経っても魔族を滅ぼせない。魔王を倒すだけで精いっぱいだ。空席になった魔王の椅子に坐そうなどという魔族を出さないくらい徹底的に叩き潰せないから、魔族はすぐ次の王を戴く。彼我の戦力差を思えば、命を惜しんでいる場合ではないだろう、といつの時代の魔族も呆れているのに、人間も神も気づかない。繁殖力はあるのだから多少の数の減少には目を瞑ればいいものを。
「雑巾ねえなぁ。ま、その辺のボロ布でいいか」
水は魔法で出せるから、勇者が起きるまではゴミ捨てに専念しよう。魔王が計画を組み立てていると、遠くで自分を呼ぶ怒号が聞こえた。
「起きるの早いな、あいつ」
失血死する、と脅してやったのにもう忘れたらしい。
駆け足で戻ると、勇者が立ち上がるのも苦労しながら真っ青な顔で魔王を呼んでいた。
「何? そんなに大声出したらマジで死ぬぞ、お前」
「貴様! どこへ行っていた何をする気だ!」
さっきも聞いたなその質問、と魔王は勇者のそばへしゃがみこむ。
「汚いから掃除すんだよ。これから永遠に住むのに、こんなゴミだらけの城でやってられるか。それよりお前、本当に死ぬぞ」
かつて勇者に敗北した魔王の残留思念を用いた結界は、内部にいる存在の時もまた停滞させる。老いず、死なず。転送されてきた勇者と魔王は停滞した時の中で永遠を過ごす。聖剣で刺された傷もさっさと自己回復してすっかり無傷となった魔王はともかく、自己回復などできない死にかけの勇者は死にかけのまま死ねないのである。けれど人間が、そんな状態でいつまでも正気を保っていられるはずがない。寝ても覚めても纏わりつく激痛に耐え、抱く感情は殺意のみ。肉体は永遠に死にかけのまま、いずれ心だけが腐り落ちてしまう。
魔力を練るも、やはり聖剣を振り上げて抵抗される。せっかく取り上げたのに、早くも握りなおしてしまったらしい。
面倒くさいなあ。魔王は素直にそう思った。
この死にかけの勇者は、どうあっても魔王と殺し合いがしたいらしい。仲良くしようとは言わないがそれでも、永遠に時間を共有する相手に殺意ばかりを向けるのは不毛ではないか。飽きるまで待ってやるほど魔王は優しくない。なにより早く掃除を済ませ、生活環境を整えたい気持ちでいっぱいだ。
うるさい、黙れ、何とか言ったらどうなんだ。ぎゃあぎゃあと支離滅裂な怒号を吐き出す勇者を、魔王はいよいよ面倒に思った。
しかたなく、勇者の顔の前まで持ち上げた自分の手首をねじ切った。血が吹き出す。飛沫はバシャバシャあふれ、とっさの反応などできなかった勇者の顔にもろにかかった。
「なっ――が、あ……!」
驚いて半開きになった口に飛び込んできた血は勢い良く、吐き出す間もなく喉の奥へ流れていった。口を閉じても既に手遅れで、目から鼻から、勇者は魔王の血をがぶがぶ飲み込んだ。幼い頃、ふざけて飛び込んだ井戸で溺れた記憶が駆け巡る。あの時も今のように息ができなくて、けれど今ほど血生臭くはなかった。
ややあって血が止まり、――眼球が爆発したかと思った。雷にでも打たれたかのように脳みそがバチバチと弾ける。体中の血液が瞬きの内に沸騰したような錯覚に陥り、内臓が引っくり返った。筋肉が溶けて一塊の肉団子になったかと思えば、血管という血管が束になって蝶結びされたような錯覚に襲われる。指先からは感覚が消え失せている。小指はきっと根元からぽろっと取れてしまった。
これまでに経験したどんな攻撃よりも激しい痛みが全身を這い回る。毒の酸を浴びた時も、手足が折れた時も、ここまでじゃなかった。
「う、ぉ……げぇっ」
貴様、貴様よくも。一体、何の嫌がらせだ。
よくわからないまま勇者は痛みにのたうち回り、血を吐きながら胃の中を空にした。そうして体力が底を尽くと、もう気力もなくなってじっとしていた。どれだけそうしていたか、のんびりした魔王の声が降ってくる。
「これで楽になったろう。礼は要らん」
誰が礼など言うものか。
がばっと顔を上げた勇者は、はたと気づく。痛みが消えている。
「お、お前……俺に何をした?」
「俺の血を飲ませた」
ひくっ、と喉の奥が痙攣した。声が裏返る。
「お、俺はどうなった……?」
「? 魔族になったに決まってるだろう。そんなことも知らんのか貴様。まったく、不勉強だぞ」
言葉はもう声にならず、絶望が胸を締め付ける。顔から血の気が引いたと自分でわかった。魔王の血を飲んだ。そうだ今、俺は魔王の血を飲んだのだ。
魔族は基本的に生殖しない。生命エネルギーである魔素と穢れや澱みである瘴気が結びついて、勝手にポコポコ生まれるからだ。仲間や家族、あるいは眷属を増やしたい場合には自分の血を飲ませる。血を介して相手との繋がりをつくり、群れる。
他種族、例えば人間に血を飲ませると、人間の肉体は魔族へとつくり変わる。変質する。つまり今、勇者と魔王の間には繋がりができた。勇者は、魔族になった。
「貴様! よくも俺を――」
「ああ、もう……お前うるさい」
ばちん、と魔王の指が勇者の額を弾いた。すさまじい衝撃だった。頭が爆発したかと思った。ていうか爆発した。頭が弾け、脳みそをカーペットにぶちまけた。しかし次の瞬間には、勇者の頭は元の頭に戻っていた。
「な、……え?」
「興奮して頭に血が上ってるからうるさいんだ。落ち着きがない」
「おおおお前! 俺の、俺の頭を……」
「シャキッとしろ。魔族になったんだから頭が吹き飛んだくらいどうということはない。なんなら皮を剥いでカーペットにしてみるか? ……ったく、掃除したいんだよ俺は。あ、そうだ。お前も手伝えよ」
あんまりにも普通に話しかけてくる魔王に、勇者は肩透かしを食らったような、変な気分だった。親しみやすさすら感じる。魔王とは、こんな奴だったのか。
「カーペットって……何でそんなひどいこと思いつくんだ!? 何なんだお前は!」
「魔王だ」
「そうじゃな――いや、そうだけど! そういうことを聞いてるんじゃない!」
魔王とは、人も神もただの餌としか思っていないような、血も涙もないような奴ではなかったのか。少なくとも、勇者の前でさめざめと泣いて見せた神の使いはそう言った。助けてほしい、と言われたから頑張ってきたのに。いざ封印に成功したと思ったら、魔王は住居となる城の掃除をするという。なんという切り替えの早さだろうか。
封印されたんだぞ。もう二度と外には出られない。退屈しようが飽きようが、永遠にここで過ごすんだぞ。そんなことを強いた相手と、どうして一緒に掃除をしようと思えるのか。
わざわざ血を与えてまで。瀕死のまま死ねない勇者など、その辺の床に転がして、適当にいたぶって遊べばいいのに。勇者は当然、そうなるものだと思っていた。ほとんど死んでいるような自分は、魔王の憂さ晴らしの道具としてここで永遠を過ごすのだろうと。
「騒がしい奴だな。お前はとりあえず掃除道具を探してこい。俺が見つけた箒は折れてて使えねえんだよ」
「……本当に掃除するのか」
「するだろ。お前、こんなとこで生活できるのか?」
本気で信じられない、という顔をする魔王に、勇者は周囲を見回してみた。……なるほど確かにくっそ汚い。壊れていないものがないといっていいだろう破壊っぷりである。
掃除をしよう。勇者は素直に受け入れた。もうなんだか色々と面倒くさい気分だった。
「箒、探せばいいのか?」
「そうだ。あと雑巾」
普通の掃除道具だな、と思いつつ勇者は起き上がった。
ズタボロだった服はともかく、あちこち痛くて痛過ぎてもうどこが潰れて切れて折れているのか判別できなかった体がすっかり調子を取り戻していた。どこも痛くない。綺麗なものである。さすがに服や鎧は駄目になったままだったが、魔王相手に恥じる気持ちなど持ち合わせない。素っ裸でないならとりあえず気にしない。
「なあ、これ……」
ただ一つ。べったり濡れていた血の痕が、そのまま文様となって上半身を深紅に這い回っていた。
「ああ、それか。綺麗に馴染んだな。我ながら、悪くないデザインだ」
「なんつー悪趣味な……」
傷自体は綺麗に塞がったが、負わされた傷がそのまま刻まれているようなものだ。魔王にとっては飾りでも、勇者にとっては恥でしかない。
「五体満足で綺麗にしてやったろう。礼の代わりとして、気に入る努力をしろ」
「礼は要らねえんじゃなかったのかよ……」
ぶつぶつと不満を漏らす勇者を、うるせえなあ、と軽くいなして、魔王は面倒くさそうに外を指差した。
「掃除道具を見つけたらお前ちょっと城の外で木を切って来い。鈍になったわけでなし、元聖剣でも木くらい切れるだろ」
反射的に握りしめたままの聖剣に視線を向け、勇者は絶叫した。
「急に大声出すなよ、うるせえなあ」
狼狽しておろおろと挙動不審に陥った勇者を見ても、やはり魔王はあっけらかんとしていた。
「お、お前これ! 俺の剣が!」
光り輝いていた刀身は色を失い、同時に絶えず流れていた魔力も消えた。聖剣は、ただの剣になっていた。
「魔族になったんだぞ。聖剣なんて扱えるもんか」
「俺の、唯一の武器だぞ!?」
「だから、武器なんて持って何するんだよお前は。せっかく頭を弾いて血の巡りを散らしてやったのに、全く効果ないな」
先ほど勇者の頭を爆発させた時と同じ、中指を親指にかけた魔王を見て、勇者は大袈裟に後ずさった。自分の頭が爆発する様を二度も経験するなどごめんだ。
「お、落ち着いてる! 俺は大丈夫だ!」
「あ、そう? じゃあ箒と雑巾、終わったら木な」
わかったか、と念を押され、何でこいつの言うこと聞かにゃならんのだ、と憤慨する気持ちを押し殺して勇者は何度も頷いた。聖剣が機能を停止してしまった以上、魔王に勝つことなど不可能になった。元より、聖剣があっても即死の未来しか見えなかった相手だ。仲間もいないこの状況で、死なない魔王へ殺意を抱くだけ時間の無駄だと。勇者はようやく本当に冷静になった。
言われた通り掃除道具を探しにトボトボ部屋を出て行く勇者を見送って、魔王は意外な気持ちだった。
一人で掃除するのは大変だな、と働き手を欲して勇者に血をぶちまけた魔王ではあったが、てっきり絶望して自殺するか、そうでなくとも罵倒してくるかなと思っていた。まあ、罵倒の方はそれらしいことをしようとして失敗した風ではあったが。
神々に唆される程度の知能しかない哀れな生き物だと思っていた人間だが、一瞬前まで殺意を向けていた相手の言葉をあそこまで素直に受け入れてしまうほど素直な構造をしているのなら、なるほど神も弄びたくなるというもの。せっせと生贄の子羊を用意する人間の様を嘲笑って見ている神もまた、魔王に言わせれば素直な赤ん坊みたいなものだが。
それはそうと、魔王は掃除を始めた。床に散乱する瓦礫だとか何かの切れ端だとかを、見つけたばかりのデッキブラシで部屋の端にまとめていく。しかし、二往復もしないうちにデッキブラシの柄が押し負けへし折れた。デッキブラシに石像や壁の破片は荷が重過ぎたらしい。
「……」
えい、と。軽い気持ちで風魔法をぶっ放した。部屋中のゴミをまとめて部屋の隅に追いやる計画だ――ったのだが。
ドガァンッッ! と、冗談みたいな音がして、城の壁がゴミもろとも吹き飛んだ。ガラガラと、壁に開いた大穴から破片が散る。
「……やっべ」
外から勇者のものと思われる悲鳴が聞こえてきた。見られてしまったらしい。
「あー……うん、よし」
風通しが良くなった、と解釈すればそんなに問題はないだろう。ここを主要な部屋にしなければいいだけの話だ。
階段を駆け上がってくる足音が反響する。
「何して、……すぅ……何してんだお前!?」
部屋に飛び込んできた勇者はまず魔王を見て、それから頬をくすぐった風を追って、壁に開いた大穴を見て言葉を切った。大きく息を吸い込んで、腹の底から絶叫する。
壁に穴をあけましたが何か? と言わんばかりに瞬きする魔王に駆け寄り、勢い余って肩を殴った。鋼でも殴ったような激痛の後、右手が負けて千切れたが、瞬きの内に再生したので見ないフリをする。
「何で壁に穴が開いてんだよ! 掃除するんじゃなかったのか!?」
「掃除してたんだ」
「掃除で壁に穴は開かねえよ! 何した!?」
「魔法を……」
「加減ってもんを知らねえのかお前は!」
怒りで真っ赤になった勇者の言葉を聞きながら、魔王はぽかんとしてしまった。あんまりにも普通に怒鳴りつけてきたことに驚いたのである。
適応力が高い。枕が変わると眠れませんって旅の荷物に枕を詰めてくるような神経質な、融通の利かない男だとばかり思っていたのに。驚くほど素直で、肉体の一部が弾けて再生するという流れにも、二度目で早くも慣れてしまったらしい。
「何で魔法を使ったんだ!」
「ゴミを集めようと思って」
「俺が箒を見つけてくるまで待てなかったのか!」
「デッキブラシがあったんだ」
「じゃあ魔法は要らねえだろ!」
「折れた」
「……化け物かよ」
「化け物だが?」
魔王との会話がスムーズに進むことへの違和感よりも、呆れの方が先に立つ。勇者は頭痛を覚えた。怒鳴るのをやめて別のことを言う。
「掃除ってのは上から下にするんだ。下を先に片付けても、上から埃が落ちてきたら二度手間だろ」
「なるほど」
神妙な顔で頷く魔王に、勇者はいよいよ溜め息を吐き出した。
魔王というのは、魔族の王で魔王城の主だ。掃除など自分でした経験はないのだろう。それにしたって、風魔法でゴミを吹き飛ばすというのは大雑把が過ぎる。
「箒も雑巾もなかった。お前とりあえず、瓦礫とか大きいゴミを外に運べよ。俺が掃除道具を作ってやるから」
「作れるのか?」
「道具ってのは誰かが作ったから存在してんだよ。作れないなんてことはねえの。いいか、大人しく両手で抱えて外まで運ぶんだぞ、魔法はなし!」
びしっと指を眼前に突きつけて強い口調で念を押す。
「わかった」
魔王は素直に頷いた。てくてく歩いて瓦礫をかき集め、言われた通り階下へ続く階段を下りて行った。
「……はぁ」
なんだかどっと疲れた。
命懸けの賭けに出て、魔王を封印することには成功した。目を覚ましたと思ったら魔族に変異させられ、次の瞬間にはぎゃあぎゃあ騒ぎながら掃除をしている。これまでの人生もなかなか濃密なものだったが、そんなものは今日の出来事に比べたら水のようなものだろう。
足元に転がっていた、おそらくはデッキブラシの柄を拾い上げ、元聖剣で削っていく。尖っていた先端を丸めたら、その辺の布を幾重にも巻き付ける。布を細かく裂いたら、簡易的なハタキの完成だ。箒はどうするか。木の枝を折って代用するか。
……勇者もかなり大雑把な性格だった。多少の埃は見ないフリをしてきたし、食事は食べられるならちょっと火の通りが甘くても気にしなかった。生きてさえいれば、人生の凹凸は全てかすり傷だと言いきるような男である。
「おい」
「あ、……うわっ!」
魔王が大穴からひょっこり顔を出した。
「び、っくりしたぁ……心臓が止まるとこだぞ!」
「止まっても死なん。それより、俺がここから捨てるからお前がここまで運べ。往復するのは手間だ」
「え、ああ……お前、今どんな状態なの?」
「飛んでる」
「……飛べんのかよ」
「お前も飛べるぞ」
「マジで!?」
完成したばかりのハタキを持って壁へ寄る。魔王は本当に飛んでいた、というか浮いていた。翼もないのにどうしてか、宙に浮いている。
「魔法か?」
「魔法はなしとお前が言ったんだろう」
忘れたのか、と魔王が不機嫌な顔をする。
「魔法などなくても飛べる」
「マジかよ。魔族って便利だな……」
魔王城までの道中を思い出し、勇者は深々と溜め息を吐き出した。もし飛べたなら、旅はもっとずっと楽だった。どう考えても、魔王討伐というのは人間には向かないと思い知る。
「そんなに飛びたきゃやってみればいいだろう」
「え、そんなすぐできんの?」
「魔族だろう、お前」
「わかった!」
勇者は大きく一歩、前へ体を投げ出した。ふわり、と押し寄せた浮遊感に口元をほころばせ――次の瞬間、体が潰れる嫌な感触を全身でしっかり味わった。
「何してる」
上から降ってくる魔王の声に奥歯を噛みしめて、誤って土を飲み込んだ。
「飛べねえじゃねえか」
「飛び降りたんだから、そりゃ落ちるだろ」
「じゃあ言えよ、先に」
「知るか。勝手に落ちたんだろ」
かちーんときた。
立ち上がり、魔王に掴みかかる。体が弾けたり千切れたり、その度に瞬きの時間もかからず再生することも、慣れてしまって気にならない。
「何がしたいんだお前は!?」
「うるせえ! 今はとりあえずお前を殴りてえんだよ!」
「できるわけないだろう! 自分の脆弱性にまだ気づいてないのか!?」
「うるせえっ!」
がむしゃらに殴りかかって、その度に腕が弾け飛んだ。ただ殴られていた魔王もあまりのしつこさにカチンときた。それからはドロ沼の大喧嘩だ。
勇者の一撃は魔王に一切のダメージを与えられず、代わりに魔王の一撃は勇者の体をただの肉片にしてしまう。それでも一方的にならなかったのは偏に、勇者の執拗な追撃と諦めの悪さである。
喧嘩は夜になっても朝になっても終わらず、昼になってようやく終わった頃には疲れ果て、何もかもどうでもよくなって二人して地面に大の字に寝転がって三日ほど動かなかった。掃除も何もかも後回しだ。
「化け物が」
「化け物だが?」
「くっそムカつく……」
「こちらの台詞だ」
それがこの三日間、二人が交わした唯一のやりとりであった。
◇
やれここが汚い、やれ本棚を作れ。
手を出すとキリがないから喧嘩は口で、手は作業に使う。三日経って、おまけで二日サボって、二人が出した結論である。
「くっそ、何で腹も空かねえんだよ。変だろさすがに」
「魔族になったばかりで、体が変化について来てない。その内、嫌でも鳴き出す」
「お前は?」
「俺は食事も睡眠も要らん」
魔王の返事を聞くなり、勇者は作りかけの本棚を放り出して立ち上がった。
「じゃあ何で俺にテーブル作らせた!?」
やれ脚にはこういう彫り物をいれろ。やれ角は丸くしろ。高さはこう、サイズはこう。耳を塞ぎたくなるほどの注文の多さと細かさだった。
「椅子なんて無駄に四脚もあるんだぞ!? 二人しかいねえのに。何だ俺とガキでも作ろうってか?」
「やめろ死にたくなる。見栄えの問題だ」
「見せる相手もいねえのに!」
「文句は作る時に言え。完成してから苦情を入れるな」
「作ってる時は夢中だったんだよ」
そもそも魔王は四脚も椅子を作らせる気はなかった。勇者が夢中になった結果、声をかけた時には三脚目に着手していたのである。三脚では収まりが悪いので、結果として四脚になっただけだ。
「おい、それが終わったら外だ。お前が飢えで騒ぐ前に食料を確保する」
「何? 畑でもあった?」
「半壊してたがな。食えるだけ回収したら整備して、規模も広げる」
「お前、畑仕事とかしたことあんの?」
「どうせお前が知ってるだろ」
魔王はもう、喧嘩することにも慣れてきていた。少し前まで命の奪い合いをしていたはずの関係で、勇者は魔王を殺す気満々だったというのに。今は魔王の指示で大人しく家具をこさえている。
勇者は意外と手先が器用だった。大雑把な性格でいまいち掃除はままならないようだが、凝り性でもあるようであれやこれやと注文を付けてもきちんと叶えてくれる。勝てもしない魔王を殺そうと足掻いているよりよっぽど建設的だと、魔王は勇者が正気に戻る前に次から次へと指示を出し、気を逸らし続けた。
血生臭い生活は、ここへ来る前の生活だけで充分お腹いっぱいだった。
「なあ、肉とか魚とか食えるか?」
「森に入れば獣くらいいるかもしれん。あとで散歩がてら連れて行ってやる」
魔王にとって、魔族領は端から端まで己の庭だ。思い出すまでもなく全体を事細かく把握している。それは当然、結界の基になった魔王もそうだろう、と疑いもしない。己と同じ認識でいた魔王であるならば、その記憶であるなら、獣くらい存在する。水辺があれば魚も手に入るだろう。
どうせ停滞した時の中、それもかつての魔王の記憶の再現でしかない世界だ。今日、一匹獣を狩って食っても、しばらくすれば同じ個体がぽこっと再現されたりするのだ。不完全な人間が込めた、魔王を閉じ込めるためだけの魔法だ。どうせその辺の細かいところまでカチッと決められてはいない。不確定であるならば、曖昧であるならば、どうにでもなる。魔王はその辺なかなかの楽天家であった。駄目なら駄目で、どうにかできなかったこともないのでやはり楽観を決め込む。
「なあ、魔族になったなら俺ってもうちょっと強くなれたりするか?」
「器が変わったんだ。中身も伴うよう鍛えればいい。魔族には上限などないぞ」
「なあ、魔法とか教えろよ」
「あ? ……ああ、食料をどうにかしてからな」
「なあ、ベッド作ろうぜ」
「食事はともかく、睡眠はお前にも必要ないぞ。魔族は寝ない」
「寝たい気分なんだよ」
「勝手に作れ。森で鳥でも狩って、枕に羽毛を詰めるといい。肉は食え」
「なあ、お前ってさあ――」
「何なんだお前!? なぜ何期の赤ん坊か!?」
絶え間なくかけられる言葉に堪らず怒鳴った。喧嘩を吹っかけられるならまだしも、他愛ない会話を振られると調子が狂う。
「んなわけねえだろ! えーと、あ~、……お、お前の情報を収集してんだよ! ね、寝首掻かれないように気をつけろよな!」
だから、俺は寝ないから掻けねえよ。言おうとしてやめた。勇者自身も気づいたのか、背を向けているが耳も首も真っ赤だった。
「ハァ……何がしたいんだお前」
こぼれた言葉に返事はなく、魔王は首を傾げながらも作業に戻った。
返事をしようにも、自分がどうしてそんなことをしたのか、何がしたかったのか。勇者自身もわかっていないなどと、魔王は知る由もない。
◇
『なあ、これ本当に食えるのか?』『おい、そっちのは食ったら腹を下すぞ』『なあ、俺が寝てる間お前って何してんの?』『おい、舌を腐らせたくなかったらそれは食うな』『なあ、俺にも火の魔法教えろよ』『おい、それは食った相手の腹に卵を産むぞ』『なあ、これ美味いかなあ?』『おい、バカ食うな!』『なあ、』『おい、』
魔王と勇者。共同生活は思っていたよりずっと穏やかで、勇者は現状に心地良さを覚えるまでになっていた。
恵まれた肉体を役立てるべく村を出て、人を助ける仕事をしようと生きてきて、遂には人類救済の為に勇者として魔王討伐の旅に出た。優しく生きることは難しくて、正しく生きることはもっと難しくて。身も心もズタボロになっていたのだと、気づいたのは皮肉にも、諸悪の根源だと疑いもしなかった魔王と生活するようになってからだ。
『あっ、やっべ箒! ……折っちゃった』
『木ならいくらでも生えてるだろう。さっさと切り倒してまた作れ』
馬鹿力が災いして物を壊すのはこれが初めてではなかったが、魔王に文句を言われたことは一度もない。
『物はいつか壊れる。一々文句を言ったり気にしてたら脳みそ腐るぞ』
人でも物でも、触れるもの全てに注意を払っていなければいけないと思っていた。ちょっとした油断で傷つけてしまう。勇者の馬鹿力は、人間の国ではとことん都合が悪かった。共に旅した仲間相手でさえ、勇者は全力を出せなかった。
殴っても蹴っても噛みついても、勇者の肉体の方が負けてしまう相手は魔王だけだ。雑に扱っても力任せにぶつかっても、魔王は気にもしない。
楽だ。勇者はここにきて、自然体で過ごせる気楽さを知った。
『うわっ、このにんじん生煮えだった!』
『歯ごたえがあってちょうどいいだろうが。気にせず何でもモリモリ食え』
強くなれねえぞ、と。魔王は時折、母親のようなことを言った。
勇者がどんなに失敗しようが間違えようが、魔王は気にした風でもなくけろっとしている。
『他者の失敗を責めて何の得がある。俺が失敗できねえだろうがふざけんな』
女神に選ばれ、勇者となって以来、たった一度の失敗も許されなかった。
勇者は失敗しない。勇者は間違えない。勇者は負けない。勇者はどんな不利も覆す。勇者は必ず助けてくれる。勇者は常に正しい。困っている人を助けるのは当然で。命を懸けるのは普通のことで。身を挺して、身を粉にして、あらゆる正義の味方をしてきた。
お前のようなバカ野郎がどれだけ失敗しようが知ったことか。魔王はいつもそう言って鼻で笑う。
楽だ。勇者という肩書きに縛られない生活。不出来を繕わずとも放っておかれる生活。勇者はここに来て、魔王との生活はこんなにも楽なのだと思い知った。
「おい、薪がなくなるぞ」
「ん~……」
思えば、魔王は勇者から吹っかける喧嘩こそ買うが、そうでない時は実に穏やかな性格をしている。声を荒げたり手を出すのは決まって、勇者がバカをやって、それが勇者の命を脅かす場合だ。どうせ死なない、と喧嘩中は迷いなく頭を爆発させてくるくせに。
「どうした、退屈したなら――」
「お前さ、最近ちっとも魔法使わねえけど何かあった?」
ぽろっとこぼれた勇者の言葉に、魔王はものすごく嫌そうな顔をした。
「何? マジで何かあったの?」
「貴様のくそみたいな魔法を見たら、誰だって控えるようになる」
「あぁん!? 俺の魔法が何だって!?」
「くそだよ、くそ。よくもまあ毎回のように自分の魔法で死にかけるものだ」
「う、うっせえなあ! 家事への応用は完璧だろうが!」
「だからこそ不思議なんだ。攻撃として出力を上げるとなぜああもくそになる?」
そりゃあ、攻撃対象として想定している相手が魔王だから。
口には出さず、けれど顔に出た。
「おい、俺に勝とうなどとアホなこと考えるのはやめろ」
「わ、わかんねえだろ! 俺達は永遠にここにいるんだぞ。そんだけ時間があれば、いつか勝てるかもしれねえだろうが!」
一体、何のために勝つのか。言いかけて、けれど魔王は黙った。この男はどうせそこまで考えていない。
「たかが永遠をかけたところで、俺も同じ時間を過ごすんだぞ。お前だけが成長してるわけねえだろ。無理だ」
「ぐっ……も、もしかするかもしれねえだろ。諦めねえぞ俺は」
ムキになる勇者に、魔王はどうしてか腹が立った。
「無理だ。どうせ……、きっとその前にお前の魂が擦り切れる」
突っぱねるような声はどこか、拗ねたような音をしていた。勇者がぽかんと口を半開きにして魔王を見る。
「たかだか百年かそこらしか生きられない脆弱な人間の魂だ。永遠も健やかでいられるものか」
長い、永い時を生きてきた魔王が飽きたのだ。代わり映えのしない毎日に、移り変わりのない日々に、いつかきっと勇者も飽きる。永遠なんて、端から無理な話だ。
「わかったら薪を切って来い」
話は終わりだと、シッシと手を振る。
くだらない話をしてしまった。そんなことよりも、と無理やり頭を切り替える。畑に生えていた肉食の花を引っこ抜かなければ。また勇者がうっかり近づいて丸呑みにされかねない。
「もしそうだとしても、そうなる前に限界までアホなことしようぜ」
ああ、忙しい忙しい。白々しくぶつぶつ呟いて振り返った魔王の背に、勇者の声がぶつかった。
「結界の端っこ探しに限界まで走ってみたり、逆立ちでどこまで行けるか競争したり、全裸で穴掘りでもいいぞ」
「はあ……?」
「限界までアホなことして、俺達バカだなって腹抱えて笑って、喧嘩して飯食えば魂云々のことなんて忘れるって」
絶対、と妙に力強く言うから、魔王は向けたばかりの背をひっくり返す。勇者は、軽い声音に反して真面目な顔をしていた。
「しんどいのに、魂が擦り切れるまでぼーっとしてることねえだろ。二人しかいねえんだぞ、俺達。しんどくなったら全力で片方に寄りかかるに決まってんだろ」
何をまたバカなことを。そう思ったのに、言葉にし損ねた。
「俺がしんどい時はお前が俺を運んで風呂に入れて飯を食わせてそんで寝かしつけろ。子守唄とか歌え、下手くそでも笑わないでいてやるから。お前がしんどい時は、……お前でかいし重いから運んではやれねえから床に捨て置くけど、飯は食わせてやるからこぼさず食えよ。風呂はまあ、上からお湯ぶっかけるくらいはしてやるよ。髪洗ってほしい時は言えよ、長い髪は洗うの面倒だからばっさり切るけど、洗うだけ洗ってやるから。お前は寝るの嫌がるけど俺の美声から繰り出される子守唄を聞けば一瞬で眠くなるから安心しろ。あとはそうだなあ……」
大真面目な顔をして、こいつは一体、何を言っているんだ。そう思ったら、何だかバカらしくなってしまった。
魂が擦り切れるまで、この男がじっとしているはずがない。退屈したら、紛らわせるためにアホなことをしでかすに決まっている。そして魔王は、勇者のアホなしでかしに腹を立てるのに忙しくて、退屈している暇などきっとない。
「ふっ、……」
「あ?」
「あっはっはっはっは!!」
突然、響き渡った笑声に、勇者は目ん玉が落っこちるかと思った。魔王の笑った顔を見たことがないわけではない。畑の野菜が立派に育つと嬉しそうに口元をほころばせるし、勇者の作ったスープが美味い時も表情が柔らかくなる。勇者がアホなことをすれば鼻で笑い飛ばすし、喧嘩に勝っても余裕の笑みを浮かべる。しかしこれまで、こんなにもしっかり笑う魔王は見たことがなかった。
腹を抱え、目端に涙が浮かぶほど、大爆笑している。
「バカだバカだと思ってはいたが、まさかここまでバカだとは……ふふ、あはは!」
嬉々として、バカ、を繰り返す。
「なぜ貴様のようなバカに付き合って俺がアホなことをせねばならん。勝手にやってろ。あとお前の子守唄なんぞ聞かされた日には耳が腐る。音痴だから魔法もくそなんだお前は。しんどいなどと言ってその辺で寝てみろ。壁の大穴から放り出して湖に沈めて腐った芋を口にねじ込んで毒花の花畑に寝かしつけてやる。子守唄の代わりに一晩中耳元で爪とぎしてやるからな」
かと思えばくるっと真顔になって暴言を吐く。勇者は堪らず、半開きになっていた口を閉じ、改めて開いた。
「お前は何でそんなひどいこと思いつくんだ!? どんな生き方したらそんな発想できるんだよ!?」
「魔王をやってれば自然とこうなる」
「封印されるよりよっぽど不健康だろそれ! 魔王なんてやめちまえ!」
「封印したのはお前だ。そしてお前のせいで魔王でもなくなったよ」
「じゃあ俺のおかげで健康になったんだな。感謝しろよお前!」
「寝言は寝て言えくそ勇者。俺が血を分けてやったからキャンキャン吠えていられるんだろうが。貴様こそ感謝しろ」
「そうだったなありがとう! はい、お前の番!」
「一人でやってろアホらしい」
「~~~~ムカつくっ!!」
歯を食いしばって悶える勇者を鼻で笑い飛ばし、魔王ははたと思う。一体、自分達は何の話をしていただろうか。勇者のせいですっかり忘れてしまった。まったくろくなことをしないな、この男は。つらつらと頭の中で勇者をこき下ろして、そうして思い出す。
「おい、」
「だああわかってるよ薪だろ! 面倒な恋人かお前は一回でわかるっての」
ぷんすか怒って立ち上がった勇者はぷりぷり肩を怒らせ聖剣を担いだ。怒ったせいで腹が減った。まったく、ろくなことを言わない魔王だ。はて、そう言えばなぜ魔王にバカにされていたのだったか。
忘れてしまった。忘れてしまったので、きっと大したことではなかったのだろう。そうして、別のことを思い出した。
「なあ、」
「にんじんなら多めに盛ってやる。食い意地の張った男だな、貴様は」
「いや、そうじゃなくて、」
「具材は大きめに切ろと言うんだろう。ちゃんとやってやるから、さっさと行け」
シッシ、と邪険に手で払われる。
どうして全部言ってないのにわかるんだ、と怒りがぶり返す。いつか殴ってみせるからな、と決意を新たに外へ出て、ふと両親のことを思い出した。仲が良かった勇者の両親。
なぜ今、どうして思い出したのか。理由はさっぱり浮かばなかったけれど、記憶が薄れていなかったことが嬉しかったので、勇者は機嫌よく木を切り倒した。
「いつまで切ってるんだ。森を禿げあがらせる気か貴様」
「あれ!? え、あー……どっちが立派なイカダ作れるか勝負しようぜ!」
「飯は俺が食っておいてやる。気が済むまでやってろ」
「待て魔王てめえこら! 俺も食う!!」
◇
こうして、奇妙な共同生活は騒がしく、思ったよりも和やかに、日々を過ごし年月を経て。気づけば二人とも、どれだけ一緒にいるのか数えるのをやめてしまうほど一緒に過ごしていた。
「おい、勇者」
「何だよ。にんじんならあげねえぞ」
最初の頃は散々、文句を言っていたくせに、いつの間にかおかわりに遠慮がなくなった。肌艶も随分と良くなって、出会った頃の弱々しさなど夢だったよう。喧嘩をすれば今でも魔王がデコピン一つで制圧してしまうが、それでも頭が爆発するようなことはなくなった。
聖剣はすっかり城の装飾の一部になり、木を切るくらいしかその役割を果たせていない。魔王は魔法を使わなくなって久しく、勇者は魔王への殺意をすっかり忘れてしまった。このまま二人で永遠を過ごす。今の二人なら、きっとそんなに難しくない。
「次の実りを収穫したら、ここを出よう」
それは提案ではなかった。魔王はここを出ると、もう決めていた。
勇者は瞠目し、じぃっと魔王の顔を凝視して、けれど結局、拒絶はしなかった。何も言わず食事を再開し、いつものように手を合わせてごちそうさま、と呟いて、それだけだった。
それから二人はほとんど会話もないまま一日を過ごし、夜になった。いつものように、勇者が必要もない睡眠をとるためにベッドに潜り込む。けれど今日は、いつもと違って魔王を呼び寄せた。無駄に場所をとるベッドは、二人で並んでも余裕がある。
こんな時のために大きめに作ったわけではなかったが、大は小を兼ねるというのは本当だったんだな、と勇者は一人納得して頷いた。それから、誰に教えてもらった言葉だったろうかと首を傾げる。……まあ、いいか。
「寝る練習しとけ」
簡潔な言葉の意味を汲み取るくらい、造作もないだけの時間を一緒に過ごした。果たして魔王は、過たずその言葉を受け取った。
「目を閉じて、じっとしてりゃいいのか?」
「そ、簡単だろ」
「……長い夜になりそうだ」
「文句言うなよ。俺が先にお前に寄ったんだ。次はお前の番。退屈くらい我慢しろ」
それもそうか、と魔王はあっさり受け入れ目を閉じる。
同意もなく魔族にした。あの時は、ああでもしないと死ぬと思ったし、判断を誤りだと思ったことはない。しかしまさか、ここで弱みとして使われるとは予想外だ。不快では、ない。
「最初からそのつもりだったのか」
疑問というには弱い勇者の言葉に、まさか、と鼻で笑う。
「不便を享受しなきゃ、退屈で死にそうだと思っただけだ」
ここを出て行くつもりなんてなかった。どうせ出られない、と早々に諦めていたし、ちょうどいい休暇になるかと気持ちを切り替えるのは難しくなかった。
騒がしいが意外と素直な勇者との共同生活は、悪くなかった。勇者をやるより農民でもやってた方が天職だったろう、と言いたくなるほど、それこそ面白いくらいに畑仕事に夢中になるような男だ。新しいことを教えてやれば、その度に無邪気に驚いて、はしゃぐ姿は愉快だった。魔法で時間を短縮するほど急ぐこともない。のんびり生活しているうちに、思ったより年月が経って、その分の魔力が貯まっていただけだ。それは、結界を抜け出すために消費でもしなければ外の世界ごと破壊しかねないほどに。
「そろそろ結界の方が俺の魔力に耐えられなくなる。さすがに内側から破裂したら、世界がどうなるかわからんからな」
「ははっ、天下の魔王様が、世界が壊れないように気を遣ってくれようってわけだ」
「その魔王と永遠を過ごすことになってまで、守りたかったんだろ」
「……」
そう、守りたかった。
弱い自分が、それでも世界を守ろうと剣をとった。
ここまで絆されて、ここまで気を許して、こんなにも仲良くなるなんて夢にも思わなかった。気が抜けたのは多分、ここにきた初日。汚い新居を掃除する、と魔王が素っ頓狂なことを言い出した時。確かに汚いな、と納得したあの時、自分と魔王の間に横たわっていたはずの違いや差が薄れた。同じこと考えたりするんだ、と親近感すら湧いたのだ。
「そこまで覚悟を決めといて、今になって失敗したなんて笑えねえだろ。お前に気を遣ってやってんだよ」
「お優しいことで」
「言っとくがお前、俺の長い人生の中でも最長だぞ。ダントツで一番、長い付き合いだ。気くらい遣うようにもなる」
「俺なんてお前、人生何回分の付き合いだよ」
「それもそうだ」
はは、とどちらともなく笑った。しばらく腹を抱えて、途切れた頃に黙って目を閉じ直す。
寝返りが激しいようだったら寝惚けたフリして蹴っ飛ばしてやろう、と勇者はぽつりと思いつき、にやける口元を隠すべく枕に顔を埋めた。
最後の野菜が実るまで、そう時間はかからない。
◇
失敗した。うっかりしていた。
「バカバカお前本っ当バカ! 朝起きたら天井で寝てるとかマジ有り得ねえ!」
「うるさい! お前だって寝惚けて浮いたまま、それも窓から外に出たろうが!」
「いいから走れ!」
元勇者はなんとか持ち出せた元聖剣を胸に抱え直して走る。元魔王は、持ち出し損ねた枕を惜しんで何度も振り返る。諦めろ、と何度言ってもやめないので、新しいのは俺が買ってやる、と言ってようやく前を向かせることに成功した。
「これで引っ越し何回目だ!?」
「知らん! 十を越えてから数えてない!」
最初は魔王がうっかり使った魔法で家を吹き飛ばした。久し振りで加減を忘れた。
二回目は魔王がうっかりくしゃみで教会の窓を吹き飛ばした。久し振りに感じた神聖な空気に鼻がムズムズして我慢できなかった。
三度目は勇者が村の神聖な樹を切り倒し、四度目は勇者が寝惚けて浮いたまま窓から外へ出た。幾度となくうっかりしては、その度に国から都市から町から村から逃げ出してきた。
「人間のフリはお前には無理だな! 角でバレる!」
「今更それを言うか!? お前こそ元人間のくせに何でそんなに人間のフリが下手くそなんだ!?」
「だああうるさいうるさい! そうだ魔族領行こう、魔族領。二日もあれば制圧できんだろ!」
「王などせんぞ面倒くさい」
「適当な奴にやらせろそんなもん。それより畑! 俺スイカ育てたいんだよ!」
「また手間のかかるものを……土地も広くないと無理だろそんなの」
ぶつぶつ呟いていた魔王が、ややあって声を張り上げた。
「よし、魔族領行くぞ、魔族領。半日で制圧してやる!」
「マジ? 化け物かよ」
「化け物だが?」
ぎゃあぎゃあと大騒ぎしながら、魔族領を目指して疾走するこの二人が、互いの名すら知らぬまま何百年も共同生活をしていたと気づくには、もう少しだけ時間がかかる。
「そういや、そうだった。頼りにしてるぜ元魔王!」
「手伝えよ元勇者!」
あれ? そういえばお前の名前、何だっけ? と、顔を見合わせるまで、あと半日。