8間 男と少女の契約
俺は命の次に大事なものになっていたリヤカーをその場に停めて、ずんずんと少女に近寄っては、彼女を見下ろした。
「…………なんでしょうか? まだ何か私にご用が?」
そんな俺に対する彼女の言葉は丁寧で大人ではあったが、俺をあからさまに敵視しているような視線と表情、口調が隠せていない時点でやはりまだ子供なんだと思う。
「言っておく、その『ヒゲの人』に会ったって、すぐに家に帰されるのがオチだ」
唐突な俺の言葉に、やはり『さんいち』は片眉を上げた。
「なぜでしょう」
「考えてもみろ。怪しい無精髭のオッサンと、俺でも知ってるような有名私立学校の制服を着てるガキンチョが、こんな夜遅くに堂々と人目のある繁華街を歩いてたら絶対に通報されるに決まってるだろ」
『さんいち』は当たり前にそんなことは考慮していなかったと言わんばかりに小さく声を漏らし、目を丸くして口を半開きにさせた。
急いで、開きっぱなしの口を上品に片手で抑える『さんいち』に俺は続ける。
「そのことに、もしかしたら『ヒゲの人』も気づいたのかもな。だからドタキャンした。現にそいつは何分遅れてるよ」
先に続く言葉でも予測したか、驚いた顔からすっと表情を元に戻して、再度少女は俺を敵視するように睨む。
「だから諦めて家に帰れとおっしゃるんでしょうか」
まあ、普通の良識ある大人ならそう言うんだろうさ。
だけど、良識ある人間でも、それどころか普通ですらない俺は首を振って否定し、そして提案する。
「いや、俺のところに来いよ」
初めて人に避けられる自分の立場が役に立ったと思った。人が勝手に避けてくれるおかげで、俺のこの一言は彼女以外には喧騒に掻き消されて聞こえない。
聞いた一瞬は目を丸くしていた『さんいち』だったが、やがて平静さを取り戻した表情で当たり前の問いを投げかけてきた。
「なんでですか? あなたに付いていく意味が分かりません」
『さんいち』の言葉を咀嚼するようにゆっくりと頷く。
分かってる。何の考えもなしにこんな提案はしない。
「意味はある。俺ならお前を隠してやれる」
「? どういうことでしょう」
俺の言った言葉にどんなメリットが含まれているのか理解できない『さんいち』に、俺は指を立てて説明してやる。
「1つは、今さっき言った、繁華街を堂々と歩くと目立つリスクだ。それを隠せるなら少なくとも今日のうちは通報が入れられることはない」
そしてもう1つは、と更に指を立ててから、
「明日以降も人に見つからないということだ。『ヒゲの人』にしたって、上手く隠せても今日までだろうよ。どうせ明日になるまでには捕まる」
「あなたになら『ヒゲの人』さんにも出来ないであろうことが出来るとでも?」
ああ、もちろん。と俺は自信たっぷりに頷く。
内心、心臓がバクバクとうるさく脈打っていて、興奮しているのが分かる。
ドーパミンが恐らくドパドパと出ていて細かいことが考えられない。
「なぜでしょうか?」
「俺はホームレスっていう普通じゃない人間だからだ。普通じゃない奴は普通の事は出来ない。それは裏を返せば、普通の奴が普通失敗する所で、普通じゃない奴は失敗しないということだ」
「…………具体的にどう隠すんでしょうか」
「それは、お前の返答次第さ」
『さんいち』は制服の裾をきゅっと握って、見下ろしている俺には表情が読み取れない程に俯き、数秒考えた後、顔を上げた。
「あなたに付いていくことで私がお得なのは分かりました。ですが、あなたが私を連れて行くことによるお得が分かりません」
こいつ、何で淫行されそうだったことは気づけなくて、こういうことは気づくんだ。
こいつの印象を表すなら、少し高度なマセガキというのが正しそうだ。
「そうほうのどちらか一方にでもお得が無い取引きには応じてはならない…………と」
誰に教わったのか、どこで見たのか読んだのか知らないが、記憶の中のそれをただ読み上げるように言って俺に返答を促してくる。
まあ、待てと『さんいち』を遮るように片手で制してから、
「もちろん俺にもお得はある。じゃなきゃこんな提案はしねえ」
「お聞かせ願えますか」
俺はふいに、立てた親指で先ほど道の傍らに停めたリヤカー、正確にはそこに山積みにされている空き缶の山を指す。
「見ての通り、あれは俺が今日1日を消費して集めたもので、集めるのはかなり大変な作業だ。1人だと丁度限界が来ていたところなんだよな」
それだけ言うと、『さんいち』は、なるほどと呟いて一丁前に顎に手をやっている。
「つまり、私にもその作業を手伝ってほしいということでしょうか」
「これだから私立のお嬢様は理解が早くて助かるよ」
しばらく、少女は遠くにあるリヤカーを見つめて黙り込んでいた。
この子のことだから、仕事量と自分の衣食住を天秤にかけて、比例するか……とか考えてんだろうな。
「帰る場所なんてねえんだろ? 自由が欲しいって言ってたろ。それなら保障できる、一番自由な環境だからなある意味。それがお嬢様に耐えられるかは別だけど」
俺のその煽るような文句が『さんいち』の決断のひと押しをしたのだろうか。
すっと、『さんいち』が俺に向けて小さく手のひらを差し出してきた。
「あんな家に帰るよりずっとマシです」
ヤケクソ気味な表情と口調で言う彼女に、俺は口を結んだまま小さく笑みをこぼした。
「まいど、取引き成立だ」
一瞬の握手を交わしてから、俺は身を翻してリヤカーに向けて歩く。
『さんいち』も、こちらが何と言わずとも黙ってランドセルの位置を直しながら付いてくる。
…………実際こいつを連れて行くメリットなんか無い。
あのリヤカーに積まれた空き缶だって、アパートやマンションなどの集合住宅から溜まっているところを、人目が無いのを見計らって頂戴してるから、人手なんて1つで充分。むしろ人数が増えるほどリスクが高くなるくらいだ。
ではなぜか。
――――私に帰る場所なんか無い。
――――私は自由に暮らすんだから。
その少女の言葉を聞いて、俺はこの提案をしようと思った。それは事実だ。
だが、それはこの子の気持ちを汲み取って、とか、可哀そうだから、などという同情からでは断固としてない。
ただ、家柄っつう生まれ持ったモノがあって、帰る場所もある分際でそんな甘ったれた事を言うガキに過酷な家無しの環境で灸を据えてやろうと思っただけだ。
きっと、贅沢なガキにムカついたんだ。贅沢なことを言うガキに鼻を掛けられているような気がして心底ムカついたんだ。きっと。
だからメリットを強いて挙げるなら、八つ当たりをすることによる憂さ晴らしだ。
そう納得しているはずなのに収まりがつかない。
ただ、1つだけ分かるのは、
本当にイライラするということだけだ。