6間 それでも男はリヤカーを引く
「は?」と思わず心の底から声に出ていた。
日本語を喋っているのに、この子は日本語を喋っていない気がした。
どうにか頭を回転させて言葉の意味の解読から順に行っていく俺を置いてけぼりにして、少女は制服のスカートを2度ほどパンパンと叩いてから、行儀よく頭をこちらに下げた。
「はじめまして、先ほどやり取りをさせていただきました『31』です。今日はお忙しい中お時間とお手間を取っていただき、本当にありがとうございます。ふつつかな者ですが、これからなにとぞよろしくお願いいたします」
「さんいち、だ?」
そんなへんてこな名前の小学生の知り合いは生まれてこの方出来たことない。
『さんいち』と名乗った少女の、まるで旅館か何かの若女将のような丁寧なそれに、俺は言葉の意味を理解できないとか以前に呆気にとられてしまっていた。
こんなに小さいのに、まるで何年も社会の荒波に揉まれ続けてきたかのような年季を感じる。
「? あの、『ヒゲの人』さん、ですよね?」
「ッ!」
小学生女子に顔を近づけられて尻もち付きながら後ずさるとは、我ながらなんとみっともない。
「あれ、もしかして人違い? ……いやでも、無精髭がチャームポイントだって……」
独り言のつもりなのかは知らないが、言ってることが全て筒抜けだ。
聞く限り、『さんいち』が言った通り、俺はその『ヒゲの人』とやらに間違われていたらしい。
通りで日本語なのに言葉を理解出来ないはずだ。
「期待させて申し訳ないけど、俺は『ヒゲの人』じゃねえ。髭がチャームポイントなのは否定しないけどな」
警戒されないよう、少し茶目っ気を出して優しく正してやる。
「あっ、それは、どうも失礼いたしました……なにぶんチャームポイントしかうかがっていなかったもので」
「はぁ……」
恥ずかしさを誤魔化すためか、『さんいち』は自分のもみあげを撫でながら静かに上品に笑う。
このやり取りで、俺と『さんいち』の関係は終わった。もう会うことも無いだろう。
そう考えるとずいぶんと気が楽だ。『さんいち』への関心は完全に消え、落とした空き缶を黙々と拾う作業に戻る。
「だとしたら遅いな、『ヒゲの人』さん。もしかして、待ち合わせ場所間違えちゃったかな……」
今度は、もう目の前の俺を意識には入れていない本当の独り言。
俺には何の関係も無い、ただ耳に入ってきただけの1日もすれば忘れ去っているような呟き。
「……その『ヒゲの人』って奴、キミの友達?」
風の音ですらかき消してしまえるような小さな言葉。
しかし『さんいち』はちゃんと聞き取っていたようで、え? と目を丸くして返してきた。
ただちょっとした興味本位が投げた言葉だから、その先は続けない。それに続けると事案のような気がしてしょうがない。
それを察したのか……いや、いくら有名な私立学校といえども、まだ小学生の子供だ。そこまで相手を慮れるほどの知識と経験は持ち合わせていないか。
しかし、『さんいち』は何も言っていない俺に対して口を開いた。
「いえ、友達ではないんですよ。今日初めてお会いする方で……」
そう笑みを浮かべて言った少女からは、どこか不安を帯びているように俺には見えた。
「両親の知り合いとかか」
白々しいにもほどがある。
もう本当のところは察しているはずだろう。
それに、関わってはいけない、見てはいけないと分かっているはずなのに、こうして訊いてしまうのは、俺がまだ信じたくなかったんだろう。
「違います……だって、さっき初めてインターネットでやり取りしたばかりの方なんですから」
やはり、この子は人の気持ちを察せない。
信じたくなかったのに、信じざるを得なくなってしまった。
「俺を『ヒゲの人』って勘違いしたってことは、その人も俺くらいの無精髭生やしたオッサンなんだよな?」
「はあ、おそらくそうだと思いますが」
なんでそんなことを聞くのか、といった感じの表情だ。
この子はやはり小学生なのだということを強く認識させられる。
だって、普通だったら見ず知らずの大人にペラペラとこんなこと話さないで、何とか嘘をついてはぐらかすだろう。だって、もしかしたらその大人が覆面の警察かもしれないから。
たとえ警察じゃなくても良識な大人に知られたら、大慌てで警察に連れて行かれる。
それだけこの子は現状に対する危機感を持ち合わせていない。
だから、良識な大人ではない俺はどうするか。
「そうかい」
吐き捨てるように呟いて、残っている空き缶を黙々と拾っては袋に詰めていった。
良識な大人ではない俺の取る行動はただ1つ、もう関わらないことだ。
この俺の決断を俯瞰で誰かが見ていたら、俺を批判するんだろう? だが、そいつらはずいぶんと視野が狭い。綺麗なところしか見てない節穴人間だ。
この世界に生きている人間の大半は、みんな厄介なことになんて関わりたくない、ろくでなしばかりだ。
俺が空き缶ぶちまけても、誰も拾おうという仕草すら見せない、それが証拠。
それに俺はただでさえ最低な立ち位置にいるんだ、首を突っ込んでもどうせロクなことにならないのが目に見えてる。
「もう行くんですか」
全ての空き缶を拾って袋に詰め、それらを山積みにしたリヤカーを無言で引き去ろうとした俺に『さんいち』が問いかけてくる。
俺は少女に一瞥くれながら、無言で小さく手を振った。
これ以上関わると罪悪感が出そうな気がしてならないと察した。
ろくでなしで良識的ではない最底辺な男は、さっさとこの場を去ってこの数分の出来事を一刻も早く忘れたいんだ。