4間 男は嘆く
イライラする。
何にイライラするかと言えば、モールス信号のようにちらちらと寄越してくる多くの視線。
それに加えて優越感にでも浸っているかのような、ぐにゃりとゆがんだ笑みを張り付ける赤の他人にだ。
彼らが一点してそれらを向けているのは、こんな大人達の喧騒で彩られたアルコール臭漂う繁華街の真ん中で、1人大きなリヤカーを引いた、見るからに不潔なホームレス男が堂々と歩いているからだろう。
人間は意識的にも無意識的にも自分より下の立場の人間を見下す傾向であることは、もうだいぶ前から知っている。
自分たちは散々酒を呷り、好きなだけ歓談し、女を侍らせる。
帰る家もあるし、人によっては家族が待っているだろう。
だからこそ、俺みたいな何も持っていない奴を見ると気色の悪い視線を送ってくるんだ。
「くそっ、こっち見んじゃねえよ、死ねっ死ねっ」
俺は、重たいリヤカーを力いっぱい一生懸命に引いてますよと言わんばかりに顔を地面に伏せている。
しかしその実、歯が擦り切れるほどの歯噛みをしながらぶつぶつと周りの連中の死を願う。
顔は上げられない。上げてしまえば奴らのこびり付いた悪意に晒されることになるから。
しかし、人間は前を向いていないと上手く歩けない。
どん、と。
そんなに力は掛かっていなかったはずだ。
それでも俺はぷつんと糸が切れたようにあっけなく繁華街の生暖かいコンクーリートに落ちた。
後ろで大量の物が叩きつけられたような軽い音が響いた。
それは繁華街の喧騒を一瞬打ち消す程度には大きい音だ。
恐らくリヤカーに山のように積んであった、今日1日の成果が俺の転んだ拍子で崩れ落ちてしまったんだろう。
音が散らばっていたところからして、まとめていたゴミ袋の結び目が解けたようだ。
「あー、ちくしょう」
誰が横取りするものかと自分自身に対するツッコミを入れても、早く回収しなくてはという焦りは消えることはない。
地面に両手着いて、ぶるぶると震える自分の筋力の無さに失笑交じりの脱帽をしながらも、その場を亀の速度でゆっくりと立ち上がる。
その途中で、こつん、と。俺の頭を何者かのつま先が小突いてきた。
四つばいになった体制で顔を上げると、ふくよかな腹をに、妙に油を塗りたくったかのような顔のオッサンが、七福神の恵比寿のような笑みを張り付けて俺を見下ろしていた。
彼の両隣には若い水商売女らしき2人が片腕ずつに自分の腕を絡ませて立っていた。
「おいおい、ゴミ拾いする前に、まずやることがあるだろう」
なあ? と同調を押し付けるようにデブは片眉を挙げて問うてきた。
「もう、悪趣味ですよぅ社長」
「そうですって、かわいそうですってぇ」
両隣の売女共の言い方からして、このデブは社長らしい。汚い油かと思った顔の照りはどうやらクレンジングオイルか何かだったみたいだ。
「社長、お召しもの汚れてないですか?」
デブ社長の背後から新しく、スーツを着た若い男がへつらった笑みを浮かべながら割り込んできた。
「そうだな、汚れてしまった。しかしその必要はないよ君、もうこのスーツは捨ててしまうからね。こんな汚い奴の身体に触れたスーツは洗濯しても汚れが落ちなそうだ」
何がおかしいのか、デブ社長は天を仰ぎながら大口開けて笑い出した。
周りの奴らも、面白くもないくせに無理して笑顔を作っている。
俺の最初のこのデブ社長に対する印象はあながち間違ってなかったみたいだ。自分が神様にでもなっている気分なんだろう。
馬鹿馬鹿しい、放っておいて早く拾わなければ。
「おい、何無視してんだ、まだ私にしてないことがあるだろうが」
歯を強く擦り合わせる音が頭蓋骨にまで響いてきた。
――――お前からわざとぶつかってきたんだろうが! 変ないちゃもん付けてきてるんじゃねえよ! 他人を貶めて笑いものにして満足かよ? そんなお前に金魚の糞みたいに付いてきてるお前ら売女とクソリーマンもバカだよ。こんな人間の出来そこないに一生媚びへつらうだけの人生なんて可哀そうだ。まあ、どっちもバカなんだからバカ同士せいぜい仲良くつまらない人生送って死ねよ!
「…………すんません、俺の前方不注意で……」
「違うだろ? 『こんな薄汚い私の身体で社長のお召しものを汚してしまい申し訳ありませんでした』だろ?」
「………………」
「なんだよ、その目は」
「いえ……」
「それにお前、謝る時の作法も知らないんだな、こういう時は土下座するんだよ土下座。そんなことも知らないからお前は社会の底辺なんだよ」
口の中がもはや鉄の味が広がってきた感覚すらある。目頭が急に熱を帯びてきて、そのまま決壊してしまいそうだ。
それを隠すように俺は静かに頭を地面に伏せる。
「こんな薄汚い私の身体で社長のお召しものを汚してしまい申し訳ありませんでした……」
死にそうなくらいか細い声で言うと、デブ社長は雨のような唾液を飛ばしながら盛大に笑った。
「ほらほら社長、もう行きましょう?」
「私たちと遊ぶ時間、無くなっちゃいますよ」
「ああ、すまんすまん」
今までの執着が嘘のようにデブ社長は俺に対する興味を失い、売女どもに促されて繁華街の奥に消えた。遅れて部下らしきリーマンも手を蠅のように擦り合せながら小走りで背中を追っていく。
その背中をしばらく睨みつけた後、俺は冷静になって、辺りを見回した。
まるで俺がいる場所に大きな落とし穴でも出来たように、道行く人は俺の近くを避けて歩いていく。
誰も、大丈夫ですか? なんていうような労りの言葉を掛けてくれる人などいない。それどころか懲りずに冷笑を向ける人間すらいる。
クソッ! と心の中で吐き捨てながらも、俺は地面に散らばった空き缶を黙々と拾っていく。
この世界は平等だと断固として確立しようとしている節があるが、その実、ピラミッド型をした実力主義の資本主義社会だということを俺は知っている。
学歴は関係ないと表では綺麗事のように言うが、学歴で将来の選択の幅があるのは事実だし、仕事が出来れば出世、出来なければ最悪クビ。
それは学業や仕事に留まらない。
恋愛でも、イケメン美女ならモテる、恋人が居る居ないで力の格差を感じる。
それらが、生まれついた先天的なものでも後天的なものでも、実力のある者は優遇され、無い者は虐げられる……そんな残酷なシステムなんだこの世界は。
俺は生まれついての才能なんてもんはないし、今まで生きてきて何かに本気で打ち込もうとも思わなかった。それでこんな身分になるのは自業自得だと周りは言うのかもしれないが。
しかし、それを考える度にいつも思う。
なんで俺は、この時代でこの惑星で、この生物に生まれたのだろうかと。
この時代、この惑星、この生物、どれか1つでも違っていたら、俺はもっと華々しい生活を送れていたんじゃないだろうか……この時代、惑星、生物で俺という存在が生まれてきた意味、理由が何かしらあるんじゃないか……そう言い訳がましく、惨めに、足掻くように考えてしまう。
ただの神様の気まぐれだと言われてしまえばそれまでなんだろうが――――。