1-2-B. 少し変わってきた日常
「……っていうか神流。お前、完全に手が止まってるじゃんか」
よく見れば、シャーペンすら持っていない。
神流の手はトーク中のジェスチャーにしか使われていなかった。
「だってさー……何かこうしっくりこないのよね」
「何が」
「スッと理解できないっていうかー」
神流はつんつんと自分のノートに書かれた数式を指す。
結局集中力はどこかへ消えていってしまったようだ。
でもこっちは、細い糸でギリギリ集中力を繋ぎ止めているところだ。
巻き添えを食って、そのままサヨナラなんてことは勘弁だった。
「だったら、あっちの方に行って訊いてくればいいじゃん」
「……あ、そっか」
「おー、ミズキくんナイスアイディア。私も行こ」
言うが早いか、神流とエリーは少し離れたところに作られた机の島――理系クラスへの進級を考えているヤツらの方へと、足早に向かっていった。
思い立ったらすぐ行動がモットーのようなふたりらしい、すばやい行動だった。
「ふぅ……」
嵐が過ぎ去っていったとしか思えないこの状況。思わずため息が漏れた。
「……ふふっ」「あはっ」
「ん?」
ため息からやや遅れて、今度はステレオで小さな笑い声が聞こえる。
和恵さんと平松さんだ。
「そのため息が本音ってこと?」
「……バレた?」
「ふたりにはヒミツにしておいてあげよう」
「ありがたき幸せ」
「ふふっ」
くだらないやりとりに聖歌も笑って、またしばらくの間シャーペンが紙の上を滑る音だけが奏でられた。
○
「それじゃあねー」
「また明日ね」
「帰り道気を付けて」
「ん? だったら、そういう瑞希くんが送ってくれても――――」
平松さんの言葉を文字通りに遮るように、地下鉄の扉が閉まった。
ホームドアが閉じていく警告音のおまけつき。
私のボケを潰すなとでも言いたそうな顔をしながらホームに取り残された平松さんを見て、さすがにボクも聖歌も笑いを我慢することはできなかった。
あれを最後まで我慢できるくらいに忍耐強い人がいたら、ぜひともボクらの前に名乗り出て欲しい。
「まったく……何なんだあの人は」
「あはは……」
あらかた笑い疲れた聖歌は呆れ気味だった。
勉強会後の帰路は、もはやこの三人――聖歌、平松さんとボク――といっしょになるのがパターン化されてきてしまっていた。
最初の内はボクが混ざっていいものかと思っていたが、ふたりは別に何とも思っていなかったようで、むしろ『何で先に行くの』と平松さんに窘められたくらいだった。
「タイミングわかっててやったのかな、美里」
「わかんないけど、たしかに絶妙だったね」
あんなに美味しい状況を一発で作るなんて、今までにどこかで試してみたりしないとうまく行かないような気がする。
「美里、最初からあんな感じの子だったもん」
最初というと、恐らく新入生・新入部員として合唱部で顔合わせをしたときのことだろう。
「うん、何かそんな感じはしてたかな」
「おかげであたしもすぐにみんなと馴染めたっていうか」
「……あー、なるほど」
同じクラスになった直後の聖歌の様子を思い浮かべる。
聖歌は小学校の頃から――いや、違う。小学校に入学する前から人見知りをしがちだった。
ボクやボクの母さんといるときくらいの声の大きさで話せばいいのにと思ったことは数知れず、絵に描いたような『おとなしい女の子』だった。
それでも小さい頃から歌うことが大好きだった聖歌は、音楽の授業では普段より少しだけ大きな声を出せていた。
しかも人より上手に歌えるものだから、周囲は黙っていない。
すごいね、上手だねなんて褒めてくれる良い子たちに恵まれていたけれど、やっぱり聖歌は恥ずかしがる。
そんなことを繰り返している内に徐々に――本当に少しずつ、人見知りレベルも下がっていった。
「あー……。そういえば、前にも平松さんみたいな感じの子がいたような」
「前って、中学の時とか?」
「そう」
記憶はおぼろげだが、きっとそのはずだ。
「だったら、みくちゃんのことかな? 長谷川美来」
名前まではさすがに覚えていなかったが、その人が持っていた雰囲気のようなものはわずかに記憶にあった。
「……たしか、そう」
「あんまり覚えてないでしょ」
探るような上目遣いで訊かれた。
上目遣いと言っても、背の高さ的に聖歌からこの距離感で目を合わせられるとこうなるのが自然だった。
地下鉄の車内、そこそこ近くならないと声はうまく通らない。
「そりゃ、ねえ。たぶん同じクラスになったことないはずだし」
「でも、覚えてるんだ?」
「んー、覚えている内に入るのかどうなのか……」
微妙なラインだと思う。
同学年の異性なんて、それこそ同じクラスになるか同じ部活じゃない限りあまり話すことなんて無かったタイプだったもので、他の子ならどうなのかよくわからないところだ。
「たしかに、キャラはちょっと濃いめかもね。……こんなこと美来ちゃんに言ったら怒られそうだけど」
「じゃあ、この辺にでもしておこうか。こっちに飛び火してきたら敵わないや」
「あはは、そんなこと無いと思うけどね」
そう言って笑う聖歌から、ほんの少しだけ視線を外す。
何かが見えるわけじゃ無いけど、ドアの窓越しの近いところを過ぎていく壁を見つめる。
少しだけ胸に何かが引っかかったが、地下鉄はそんなことなどお構いなし。
いつも通りにボクらの家の最寄り駅へと滑り込んだ。
わりと自然なふたり。