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紅葉に咲く。

作者: シュレディンガーの羊。




「綺麗ね」

 ふいに零された言葉は、秋風とともに病室に舞い込んだひとひらと床に沈んだ。

腰を折って拾い上げれば、深い赤に染まった葉は確かに美しかった。

寝台に身を起こした君はゆるりと笑う。

「知ってるかしら。ムラのない綺麗な紅葉は、急激な気温の変化によって生まれるのよ」

「ふうん?」

「人に例えるのなら、それって息ができなくなることに等しいんですって。寒くって寒くって溺死していく色なのよ」

 くすくすと声を漏らす彼女が口元を隠す。指先の間から覗く紅を引いたような唇が艶やかに弧を描く。

指先でつまみ上げたそれは、そう表現されてしまえばひどく憐れに思えた。テーブルの上に静かにそれを置きながら、そっと君を伺い見る。窓の外に目を向ける彼女の穏やかな横顔が、こういう時はひどく苦手だ。

綺麗だと呟きながらも、彼女はこの美しさが何の上に成立しているか知っている。

「残酷だね、君は」

「そうかしら」

「そうだよ」

「でも、今日は少し優しくなろうと思っているのよ」

 脈絡なく伸ばされた白魚のような手が、氷の冷たさをもって僕の手を引く。折れそうな手首が病院着の袖から露わになる。

 そこに這う虫のような傷痕に、一瞬だけ意識が持っていかれる。

『どこにも、行かないで』

 雪原を汚すように、雫の音で赤がいくつもいくつも床を穿っていった。どこにも居場所がないと笑っていた君がその日初めて見せた甘えは、もう手遅れなほど壊れていた。

 どうして気づかなかったのだろう。もっと早く、もっと前に、あんな風に君が僕を引き留めるより早くその手を掴んで抱きしめられていたらよかったのに。

『私から逃げていかないで』

 泣きも笑いもしないその瞳は暗く深くゆらゆらゆらゆら揺れていた。

 逃げるつもりなんてなかった。それでも、君の耳にはそんな言葉は届かなくて。

「一生、逃がしてなんかあげないつもりだったのよ」

 はっとしたときには、君の瞳がまっすぐと僕を捉えていた。あれから、どれだけの季節が廻ったか。生き埋めにされるようなあの監獄じみた教室から、透明人間を強いられる家庭から逃げた君の傍に僕はずっと囚われて。

「でも、もういいの」

 もう十分よ――――秋風が君の髪を揺らす。カーテンがはためいて、赤く染まった木々が騒めく。

「もう、解放してあげる。ちゃんと逃げてね。私が今度いくら縋っても、それを振り払ってちゃんと逃げてね」

 ゆっくりと解かれた手は決して氷ではなくて、血の通った人間のもので、微かなぬくもりを失って指先が震えた。

さよなら、と瞬きがひとつ。ごめんね、と硝子のような瞳から涙が一粒。

君が小さく息を吸う。

「幸せになってね」

 ありふれた一言で僕と君をつなぐ糸が、ぷつりと切られる音がした。



後ろ手に閉めたドアに背中を預けて、しばし動きを止める。気づけば、息も止めていた。

そのことに気づいて、大きく息を吐き出した。

「馬鹿だなぁ……」

 ポケットに入れた指先が、先の紅葉に触れる。机の上に置いていくのが忍びなくてついポケットに忍ばせたそれを、眼前に掲げる。

 エラ呼吸ができなくなった魚は、きっと溺れるときに首を傾げるに違いない。叫び声のひとつも上げられずに、赤く染まる紅葉は、まるで君の様だ。

 ずるずるとドアを背にそこにしゃがみ込む。

「馬鹿、だよ」

 君は勘違いをしている。誰が解放なんて望んだ。本当は囚われているつもりすらなかった。

 僕は自分で選んで君の傍にいて、選んで君の隣に立っていたのに。

 そんな僕を、僕のためを思って突き放すなんて、君は本当に大馬鹿だ。

 綺麗だと思った。例えそれが声にならない叫びでも。君の生き様が自分を傷つけて、それでも生きようと足掻くものでも、遠くから人が指さすあの紅葉の森のようにいつかそれさえ、君の命になる。

 あぁ、だから、初めから間違いだった。

 君に囚われたふりなんてしていなくてもよかった。

 手の中にある赤にそっと微笑む。やっぱり、憐れでも、寂しくても、悲しくても、辛くても、僕はそれを愛しいと思う。

「そう簡単に逃がしてなんかやらない」

 君が手を振りほどくと言うのなら、僕は何度だって君の手を取ろう。

 紅葉を手に、僕はもう一度、君に会うためにドアを開けた。






お題「そう簡単に逃がしてやらない」

秋風味で。

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