4-2 陸機
僕は独り立ちしてすぐに畏れ多くも陛下から肖像画作成の勅命を受け、以降休むことなく肖像画を描いた。僕の画工人生は、ほぼ肖像画一色だった。肖像画を描かなければいけない大人物はたくさんいらっしゃって、いくら描いても描き終わるということはなかった。国とは政治とは、こんなに多くの人物が関わっているのだなと僕はそのとき実感した。
けれど肖像画の仕事というのは描かれる人の都合に左右される。常にそう都合よく、僕がお邪魔できる大人物がいらっしゃるわけではなかった。だから僕には大人物のもとへ素描を描きに行っているでもなく、かといって自分の工房で仕上げにかかっているわけでもない空白の間というものが、たびたびできた。もちろん働かなければ食べていけないので、糊口を凌ぐための小品の仕事を、僕は肖像画の仕事の合間にいくつも受けた。
陸様の詩「猛虎行」の画幅は、そんな小品の仕事の一つだった。「猛虎行」の冒頭と虎をいっしょに書いた掛け軸を作ってほしいと、さるお方に依頼されたのだった。題名から、また冒頭の文章から連想される猛々しい虎を描いてほしいと指示があった。冒頭の文章というのは、こうだ。
「どんなに喉が渇いても、盗泉という犯罪の名前がついた泉の水は飲まない。どんなに熱くても、悪木という邪悪な名前の木の下には休まない。悪木にも枝がないわけではない。だが志ある人はそこで休息することはできず、だから苦心することが多い」
つまり志ある人は何よりも悪を憎むから、接するものの名前に罪悪を見るのも耐えがたい。ほかの人にはどうということもないだろうが、耐えられないのだ。だから苦心が多い。そして私もそうである。大体こういう意味らしい。
依頼人からこう解釈を聞いて、これはすごく猛々しい虎にしないとなあと当時の僕は思った。近年まれに見るというべきか、まるで四書五経の古い時代から飛び出してきたような、威風堂々たる志の高さと潔癖具合だった。今の世に詩のはじめでこんなに高々と正義を宣言するなんてと、僕は時代錯誤の感を覚えた。そしてこんな詩を書く陸様はどういう人なのか、またその風貌はどうなのだろうと想像した。
そのときの僕は、想像力と知識と技術をつくしてその仕事をやり遂げたわけではなかった。納期と予算を僕は最重要視した。そして納期と予算が許す限り猛々しい虎の絵を描いて「猛虎行」の画幅を納品した。真っ正直に告白すると、「猛虎行」につづきがあることは知っていたが調べることはしなかった。このたいした依頼料ではない小品は、そこまでする価値のない仕事だと考えていた。はたして、当時の僕は画幅のできにまあまあ納得し、依頼人もそこそこ喜んで報酬を払ってくれた。しかし後年、肖像画を描きに陸様にお目にかかったとき、僕が描いたあの虎はなんとまずかったかを悟った。そしてお目にかかった後「猛虎行」のつづきを調べ、僕は飯を食うためだけのやっつけ仕事をしたことをとても後悔し反省した。
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陸機(二六一~三〇三)
西晋の政治家、文人。呉の出身であり、祖父の陸遜、父の陸抗は呉の重鎮中の重鎮だった。二十歳で西晋による呉征服にあい、祖国を失う。以降十年の間郷里で学問に専念したあと西晋に出仕。この時代きっての文豪で出仕する以前から文名が知られていたが、亡国出身であることから軽んじられる場面も多かったことが史料からうかがえる。作品には亡国となった故郷への慕情と名門出身のプライド、そして己が軽んじられる現実との激しい衝突をうかがわせるものが多い。作品では権力者に接近した動機を儒家的な経国済民の志と述べるが、最期は八王の乱の権力闘争で敗れ処刑された。高い体躯と鐘のような声の持ち主だったと『晋書』「陸機伝」に記される。
「陸機の「猛虎行」 」
陸機が執筆した楽府詩。当時の楽府詩は漢や魏の古曲に、替え歌の要領で独自の詩(歌詞)を付すものを指す。大別して元歌の内容に沿って独自の詩を付す場合と、まったく異なった内容の詩を付す場合の二通りある。「猛虎行」のもとの詩は旅の苦しみを歌ったものであり、陸機もその内容に沿って新たな詩を執筆している。
「陸機の「猛虎行」の冒頭」
原文は以下の通り。
渇不飲盗泉水 熱不息悪木陰
悪木豈無枝 志士多苦心
渇すれども盗泉の水は飲まず 熱けれど悪木の陰に息わず
悪木には豈に枝無からんや 志士は苦心多し
「陸機の「猛虎行」のつづき」
陸機は「猛虎行」の冒頭で潔癖な志を歌い、志を遂げるため出仕の旅路につく。しかし旅は過酷であり、ときには節を曲げてまで励むが、むなしく月日は過ぎる。「人生は誠にたやすくはいかない(人生誠未易、人生は誠に未だ易からず)」と嘆息し、何ら功績をあげられない自分を「うつむいたり仰いだりして、古い時代や今の時代の立派な人々を前に恥じ入っている(俯仰愧古今、俯き仰ぎて古今に愧ず)」と述べ終わる。




