3-6(完) 劉琨
今は遙けき北の地でついに劉様がはかなくなられたと聞いて、僕は一枚の皿を思い出した。
劉様には二十年あまり前にお会いしたことがあった。そのときの劉様はまだ三十にも届かない、白皙の青年だった。育ちの良さに由来する人の好さで、文学を好む鷹揚とした貴公子だった。劉様は初対面の緊張をほぐそうというご配慮だったのか、僕の仕事について軽く質問されたが、決して猜疑心もあからさまに無理に問いただしたり、好奇心も丸出しにあれこれ探りをいれるようなことはされなかった。僕は好感を持ったものの、他にこれといって特別な印象は抱かなかった。当時洛陽にたくさんいられた良家のご子息の一人としか、僕は劉様のことを覚えていなかった。
だからそれから十年ののち、劉様が北の最前線で陣頭に立ち孤軍も顧みず戦っていると聞いて、僕はいたく驚いた。僕が見た劉様というのは、書物のたくさん乗った牀に座り、書を繰り参照しながら書き物をしているお姿だった。くつろいで両足を牀に上げ、持ち上がった裳裾からわずかにのぞく足首と、絹張りの沓に縁取られた足の甲は白魚のように白く細く、鞾の革の堅さや荒さに耐えられるとは思えなかった。「もうすぐ石公の宴に呼ばれるんだよ。何とか見れるものを作らなくちゃ」と楽しそうに筆を執る手は白く傷もなく豆もないきれいな手で、とても旌旗が持ち上がるとは思えなかった。
しかし北で戦い続けていたのは、紛れもなく僕がお会いしたあの劉様だった。洛陽が落ち長安が落ち、二人の天子が凶刃にかかって崩ぜられ、劉様は北に残った最後の一人になっていた。
その劉様も、ついに斃れられた。人々が涙したのは、北へ帰る最後の望みが絶たれたからだけではなかった。それまでの生活を奪われ、戦乱のなかで七転八倒し、父母や伴侶や親戚を亡くし、思いもかけない異郷の地で、帰ることもできず理不尽に死ななければならない。劉様の身に起こったことは、程度の差はあれ、僕たちに起こり、そしてこれから起こることだった。人々は劉様に自分自身やすでに亡き人の影を見て、もうとうに枯れてしまったと思っていた涙を流さずにはいられなかったのだ。
そうして、思い出したことがある。劉様の肖像画を描こうとした矢先、絵の具を溶くのに使っている僕の豆皿が真っ二つに割れた。どう見ても凶事の前触れとしか見れない割れ方で、劉様のお屋敷の方達は大騒ぎだった。劉様は騒ぐ人々を下がらせて、豆皿の代わりにと、大体同じ大きさの、ただし価値は幾倍もしそうな皿を出してくだすった。僕がとんでもないと恐縮すると「いいから、いいから」とおっしゃって、帰りに「さしあげますよ」とそのまま持たせてくれたのだった。その皿も洛陽から命からがら逃げだしたときにか、あるいは道中で物盗りにあったときにか随分前にどこかへいってしまって、色や柄はもうよく思い出せなかった。
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劉琨(二七一~三一八)
西晋から東晋にかけての文人、武人。漢の中山靖王の末裔を称する。
青年期には賈謐をパトロンとする文学集団「二十四友」に属し石崇の金谷の詩宴にも参加したが、三〇〇年に賈謐・賈南風がクーデターによって殺害され八王の乱が本格化すると諸王のもと各地を転戦。
三〇七年に并州刺史に任じられると匈奴の劉淵らを相手に鮮卑の拓跋猗盧、段匹磾と結んで抗戦を続けるも、疑心に駆られた段匹磾に幽閉され、絞殺された。




