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シリーズ 長い3世紀のルポルタージュ  作者: 久志木梓
Vol.3 記憶のなかの肖像画
23/26

3-5 僕の記憶のなかに残されたもの――どうしてこれを書いたのか

 僕が「当代の重要人物の肖像画を描くように」という奇妙な密勅(みっちょく)(たまわ)ったのは、今から五十年も昔の話だ。


 肖像画はすべて皇太子殿下に捧げられると、突然僕の家にやって来た勅使(ちょくし)は告げた。目鼻立ちを正確に描写した、殿下の公務の用に供するものを描くように、とのことだった。これは後で知ることだが、肖像画は殿下が人物の顔を覚えるために使われたそうである。


 僕は狼狽(ろうばい)し目を白黒させびっしょり汗をかきながらひれ伏して、ともかく「ハハア」と(かしこ)まった。玄関の三和土(たたき)に額をつけて恐懼(きょうく)する僕の視界の隅に、勅書(ちょくしょ)の紙の()が光って見えた。


 そういうわけで、僕は肖像画を描くために当時名を馳せた方々にお会いし、いろんなご厚意と貴重な時間とを頂戴した。起こった出来事と受けた印象とが、観察したそのお顔立ちとともに僕の頭に刻まれた。忙しい方ばかりだったので通常の肖像画を描くように何度もご本人のもとをうかがうことはできず、短い時間だけで勝負しなければならない厳しい仕事だった。


 僕はその短い時間で描いた素描(そびょう)をもとに、頭にある印象と顔立ちとを絵筆で混ぜ合わせ紙面に表せるよう努めながら、せっせと肖像画を描いては献上した。


 自分のもとにこれほど大きな仕事が舞いこむとは、夢にも思っていなかった。この仕事が約三十年間、殿下が皇帝に即位してからも続くことも、知る由もなかった。


 どうして僕の人生にこのようなことが起こったのかはわからない。確かに僕の師匠は当時高名な画工で宮中にも出入りしていた。特に肖像画の名手として知られ、宮女が陛下に贈る肖像画を手がけることもあった。僕は弟子の頃から、そして独り立ちしてからも(当然独立してすぐ独力で飯が食えるわけではない)師匠の宮中での仕事を手伝っていたから、僕自身も宮中とまったく面識がないわけではなかった。


 でもだからといって、陛下直々の依頼が来るのは望外というか不自然である。いくら師匠が高名なお抱えの画工であっても、その頃の僕は洛陽(らくよう)の片隅に工房兼住居を構える、独り立ちしたばかりの一介の画工に過ぎなかった。僕より名も技術も優れた兄弟子も、宮中と取引のある画工も、当時ほかにたくさんいた。


 それなのにどうしてと、しかし問いかけたことはない。依頼人様には依頼人様のご都合があるのだ、どうしてなぜと深入りしてはいけないと、貴族名族を相手に長年仕事をしていた師匠はよく言っていた。僕は師匠の箴言(しんげん)に従った。そして関係者の全員が逝去した今、謎は永遠の謎となった。


 このささやかな謎の答えばかりではない。僕の描いた肖像画を知る人も、もう誰もいないだろう。肖像画を描く密勅を起草した人々、僕が肖像画を描くのを監督し、納品した肖像画を確かめた人々は、とうの昔に亡くなった。肖像画を献上した陛下も崩御(ほうぎょ)されて久しい。


 肖像画自体も、さてどこへ行ったか、僕は知らない。恐らくは宮中書庫にしまいこまれ、洛陽陥落の際に多くの蔵書ともども燃えたか、困窮(こんきゅう)の際に薪代わりに燃やされたかしただろう。


 そうだろうと思っても、だが悲しむことは許されていないと感じた。あまりに多くの生活と、人命と、それらに紐付いている文物とが失われた。その想像もつかないほど大きな喪失を前にすれば、僕ひとりの画業と人生が(「画業」は「人生」とほとんど同義だった。僕にとっては)むなしくなったのを嘆き悲しむことなんて、できるはずもなかった。


 洛陽は完全に灰燼(かいじん)に帰した。洛陽だけでなく、数百年栄えた主だった都市も同様だ。焼かれた村々の数を把握することは膨大すぎて誰にもできない。劫掠(ごうりゃく)されたもの、犯し殺された者が、どれほどになるのかも。長江(ちょうこう)の南、僕らがかつて暮らした故郷は、すべて破壊された。廃墟になったその土地へ戻りその土を踏み、瓦礫(がれき)を拾い上げることすらも、亡命者たる僕たちには叶わない。


 すべて失われ、絶えた。その感が、僕を絵から遠ざけた。貧しい生活状況よりも荒んだ文化環境よりも、喪失感と虚無感とが僕に絵筆を折らせた。


 絵を捨てて二十年、先日、僕は屋台を見て驚いた。僕の故郷の郷土料理が売られていた。聞けば、屋台の青年はやはり僕と同郷だった。作り方は頭に入っている、あとは舌が忘れない打ちに売り出したのだと青年は語った。それにしても同郷人に会えるとは思ってもみなかった、好きなだけ食べていってくださいと言う青年の厚意で、僕はいつ以来かその郷土料理に箸を付けた。


 青年が大盛りに盛ってくれた料理を一口食べて、しかしもうあとは食べられなかった。僕はさめざめと泣き出していた。料理からは故郷の味がした。破壊し尽くされてしまったと思っていた故郷は、まだそこにあった。泣く僕を見ているうちに青年もわんわんと泣き始め、僕たちは往来で衆目(しゅうもく)もはばからず、互いの肩を抱きながら泣きじゃくった。


 すべてが途絶(とぜつ)してしまったわけではないのだと、愚鈍(ぐどん)な僕はそのときにようやく気がついた。残ったものもあるのだ。そして残ったものの中には、僕も含まれていた。期せずして長寿を授けられ、荒廃した華北(かほく)を脱し、今も建康(けんこう)で生きている、もったいないほどの幸運に恵まれた僕。その僕の中には、かつて肖像画を描くためにほんの一時お会いした、かつて生きていた人々の記憶が残っている。そしてその記憶は、刻一刻と薄れていっている。


 このまま、失われるがままさせてはいけない。僕は一念発起し老骨に鞭打って、この小文を書く決意をした。本当は、あの肖像画の幾枚かでも復元したかった。しかし老いさばらえた体と、何より二十年の怠慢が、それを許さなかった。悔やんでも悔やみきれないが、今残っているものを最大限生かすしか僕にできることはない。


 肖像画には受けた印象と観察した顔立ちとを描いたが、そのときに起こった出来事について書くことはできなかった。それで、起こった出来事と受けた印象を文章で書くことで、かの人々の肖像を改めて描き出すことにしたのである。







皇太子殿下、皇帝陛下

西晋(せいしん)の二代皇帝・恵帝(けいてい)(位二九〇~三〇七)のことか。暗君(あんくん)として知られ、詔勅(しょうちょく)は全て皇后の賈南風(かなんぷう)らが書いたものを書き写したなど、暗愚(あんぐ)さを示す話が多い。治世全体が外戚(がいせき)・皇族の内紛である八王(はちおう)(らん)のただ中であり、前半は外戚である賈南風らの傀儡(かいらい)、後半は皇族である諸王の傀儡であった。


この時代は当時の王朝の名前をとって西(せい)(しん)(二六五~三一六)と呼ばれる。

二六五年、三国時代の()(そう)())から禅譲を受け、司馬炎(しばえん)曹魏(そうぎ)の重臣・司馬懿(しばい)の孫。司馬昭(しばしょう)の子)を皇帝として建国。

二八〇年に()孫呉(そんご))を征服し、後漢(ごかん)末以来一〇〇年ぶりに中華を統一する。

しかし二代皇帝・恵帝(けいてい)の時代(二九〇~三〇七)には外戚(がいせき)(皇太后・皇后の一族)の専横が常態化。

三〇〇年、外戚(がいせき)賈南風(かなんぷう)の打倒を大義名分として皇族がクーデターを起こし、皇族同士の内乱へと発展する(八王の乱)。

内乱で王朝が疲弊するのと並行し、国内で圧政を受けていた被支配民の非漢民族(五胡(ごこ))が挙兵。

都の洛陽(らくよう)をはじめ主要な都市が陥落し、三代皇帝・懐帝(かいてい)、四代皇帝・愍帝(びんてい)が殺害され、西晋(せいしん)は滅亡した(三一六)。

北方では五胡(ごこ)による短命政権が乱立し(五胡十六国(ごこじゅうろっこく)時代)、南では北から逃れた貴族を中核とする亡命政権・東晋(とうしん)が建国された。



今から五十年も昔……三十年間、殿下が皇帝に即位してからも続く……絵を捨てて二十年

本書に収録された記事から密勅(みっちょく)を受けたのは二七〇年頃と推測される。恵帝(けいてい)の皇太子時代から賈氏(かし)政権にかけて肖像画を作成し、三〇〇年のクーデターに前後して絵を止め、東晋(とうしん)成立後の三一八年以降の建康(けんこう)で本書を書き始めたか。

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