3-1 阮咸
阮様は窓際で秦琵琶を弾いておられた。僕のほうはちらりとも見られなかったが、僕はほっと胸をなで下ろした。阮様は第一に奇行の人として知られる。そして権威が大嫌いである。そういう方のもとへ勅書を携えて、「顔を描かせてください。なお、これはお上のご命令である」と言いに行くなんて、一体どんな想像の埒外にある応対をされるかと、気が気でなかったのだ。僕は安心して阮様へ一言断りを入れてから仕事道具を並べた。改めて見ると、阮様が背にする窓の外に、なにか白く動くものがあった。ふんどしだった。
ふんどしだった。真っ白なふんどしが一丁、長い竿のさきにぶらさげられて、阮様のお宅の中庭で風にたなびいていた。「なぜ……」と説明を乞うあえぐような声が僕の口から漏れたが、当然と言うべきか、阮様は僕などに構わず、変わらず秦琵琶をつま弾いておられた。
ジャン、とひときわ強く秦琵琶がかき鳴らされた。秦琵琶に応えるように、ビュウと強い風が吹いた。風に吹かれて、ふんどしが竿から飛ばされ空高く舞い上がった。
一瞬だった。阮様は「喝っ」と気合いを発せられると、秦琵琶を置いて窓枠を乗り越え、猛然と中庭へ駆け出された。僕が呆気にとられているうちに、ふんどしと、ふんどしを追いかけて走る阮様は小さくなり見えなくなった。
逃げられた、と気づいたのは日が傾いて「まだ帰りませんか」と下男に皮肉を言われてからだった。僕はそれまでずっと、そのまま部屋で阮様が帰ってくるのを待っていたのだ。若かった僕は、それぐらいの野暮天だったのである。
※
阮咸(?~?)
三国時代の魏から西晋にかけての文人。
俗世から超越した態度や奇矯な言動を用いて権力者に抵抗したとして、後世に並び賞賛された「竹林の七賢」の一人。
同じく竹林の七賢の筆頭にあげられ、「白眼視」の由来となった阮籍の甥。
リュート型の弦楽器・秦琵琶に精通し、秦琵琶はのち唐の時代に阮咸と呼ばれるようになり、月琴の前身になったともされる。




