楽園
見渡す限り空と海だった窓…やがてはるかかなたに小さな島が見えてきた。
グアムから週に一便しかない飛行機で、恵理はこの島にやって来たのだった。
遠くに見えていた島がどんどん近づいてきて、やがて着陸した
小さな滑走路がひとつだけの空港
建物も空港とは思えないほど質素な造りになっている
でも…博久が待っていてくれる
博久が奥さんと子供を捨てて、突然この南の島に行ってしまったのが3ヶ月前。
太陽の匂いのするような手紙が毎週のように私書箱に届いた。
島で知り合った人に、小さな丘の上に建っている家を借り
ひとつだけあるホテルのガイドとしてアルバイト程度の仕事をしていると言う
『海に行けばいくらでも魚は釣れる、それとビールがあれば充分です』
便箋に葉書に、彼はそんな様子を書いて送って来た。
必ず最後に早く恵理に逢いたい、島で二人で暮らそうと書いてあった。
そう…これは駆け落ちだった…
博久にも恵理にも配偶者がいて子供もいる。でも二人は出会ってしまったのだった。
すべてを捨てて誰も知ってる人がいない所で二人で暮らそう…
そして、二人で決めた島に博久が先に飛んだのだった。
『二人で暮らす準備をして待っている』
そう言う約束だった…そしてその約束通り恵理もすべてを捨て島に飛び立った
後悔するかもしれない…でも彼の元に走らない方がもっと後悔するかもしれない
恵理は悩んだ末にそう決めた
3ヶ月ぶりの再会に二人は思いきり抱き合いそして笑った
「ここは何て暑いの?もう汗が噴き出して来てるわ」
「焼けるような日差しと嫌になるくらいの雨の繰り返しだよ」
それでもここは楽園だよ、博久はそう言って恵理の小さなボストンバッグを持った。
「荷物は…これだけ?」
頷いた恵理を、信じられないと言う顔で見ている。
「数枚の着替えとお気に入りの歯ブラシだけ。ドライヤーもないわ」
あってもドライヤーなんて必要ないさ、博久はそう言うとにやっと笑った。
その笑顔の意味が判らなかったけれど、それでも恵理もつられて笑った。
「これは鉄の塊?」
と聞きたくなるようなボロボロの車の助手席のドアをこじ開けるようにして
恵理をそこへ座らせた。車内は更に暑かった
「言っても仕方ないけど…本当に暑い…」
恵理は長い髪を襟足からかきあげるようにして言った。首筋にも汗が光っている。
「本当に来てくれたんだね…」
「何もかも捨ててきたわ…もう失うものは何もない」
ただひとつ失いたくないもの…それはあなただけ。恵理はそう言って博久の口付けを受けた。
「君を試す訳じゃないけど…この島で暮らしていく覚悟は出来ている?」
博久のそんな言葉に恵理はただ大きく頷くだけだった。
「あなたさえいれば何もいらない」
「よし、決まりだ!」
博久はエンジンをふかし車をスタートさせた。
二人の家となる丘の上の家に向かうのだとばかり思っていた恵理が
連れてこられた先は、店が数軒建ち並ぶメインストリートだった
と言っても日本の地方の商店街よりも更に更に小さな規模と言った感じだった。
「とりあえず身の回りのモノはココで何とかなるから」
車を降りて商店街の中に歩いて行った。
食料品を扱うスーパー、日用品が並ぶ雑貨屋、洋服屋、郵便局らしい建物
そしてあれは薬局だろうか、後は…
恵理は物珍しそうにその店を見ていた。
「一番向こうに酒場があるよ、俺ももう常連の一人だ」
博久がそう言って指差した先には、昼間なのにネオンがチカチカと点滅している店があった
恵理はいきなり何も言わずにまた歩き出した博久の後を追って歩いた。
「ココだよ、入ろう」
看板もどこにあるのか判らないような店の前で立ち止まり、
博久はドアを開け恵理をその店の中に押し込んだ。
中に入るとそこが床屋だと言う事はすぐに判った。
古ぼけてはいたが、大きな散髪用のイスが2台、その前には鏡がある
そしてやはり古ぼけたソファーで店主らしい男が居眠りをいていた。
「ハイ、ジョージ!」
顔に掛かっている新聞を取るとジョージと呼ばれた店主がようやく目を開けた。
寝ぼけまなこからすぐに人懐っこい笑顔になると
「ハイ、ヒロ!」
と挨拶をしてきた。そして隣に立っている恵理を見てまたにこっと笑った。
博久は恵理とジョージをお互いに紹介すると、ジョージと話し始めた。
英語なんだろうが、多少訛りもあるし恵理には何を言ってるか判らない
ただ博久が何か言うと、その度にジョージが恵理の方を向いては驚いたような顔をする
ホントに?と言うようなゼスチュアでジョージは博久に確認する
その度に博久は「OKOK!」とか承諾の言葉を並べ立てていた。
何の事だか判らないまま、恵理は二人の顔をただ見比べていた。
やがてその古ぼけたイスに博久が腰を下ろした。
ジョージがすかさず白いカットクロスを巻き付けさかんに
「いいのか?」
と確認するような言葉を投げ掛けていた。博久は親指を立ててGOサインを出す。
ジョージが棚の中からバリカンを取り出してくるのが
手持ち無沙汰にちょっと離れた所に立っている恵理にも見えた。
「見ててくれよ、男前になるからな」
ちょっと照れたような笑顔で、鏡越しに博久が笑い掛けてくる。そして…
ジョージが大きい手で博久の後頭部をがっちりとホールドすると、
前髪、額の真ん中へそのバリカンを滑り込ませた。
「えっ…」
多少は予想してたものの、まさかあの博久が坊主になるなんて…
つむじの方まで刈ってしまうと、また額に戻し、あっという間に
博久のかなり伸びていた髪が落とされて行く。
二人は陽気な笑い声を立てながら楽しんでいる様子だった。
博久の頭の上をバリカンが動き回り、そしてすべての髪が刈り落とされていった。
かなり短い坊主頭になった博久は別人のようにも見えるが
笑った顔はもちろん前の博久のままだった。
「どうよ?」
カットクロスを外してもらい、立ちあがりながら自分の頭を撫ぜまわしている。
「どうって…驚いたわ…」
日本にいる時はいつも髪型に気を使っていた…さっき久しぶりに逢った時は
さすがにだいぶ伸びているな、とは思ったけど、でもまさか坊主にするなんて…
「ここは暑いからさ、これなら洗いたい時にその辺の水道でもOKだしね、
ただ、直射日光が痛いかな?」
確かにそれほど短く刈られてしまっていた。
恵理はそんな博久を見ながら、まだ驚きのあまり言葉が出なかった…
「さて…」
博久が恵理の方を向いて何か言い掛けた。「さて…帰ろうか?」
当然そんな言葉が続くものだと思っていた恵理に聞こえてきた言葉は、信じられないものだった
「さて…次は君の番だよ、恵理」
何を言われたのか判らなかった。勿論聞こえてはいたけれど、自分の耳が信じられない
戸惑っている様子の恵理の手首を掴むと、そのままイスの方へ軽く引っ張った。
「さ、座って…覚悟して…」
恵理は拒否する事も出来なかった…状況がのみこめていなかったからだ。
呆然としたまま座らされた恵理の首に、さっき博久が使っていたカットクロスが巻かれる。
それはちょっとキツイくらいで、恵理はより一層身体が動かなくなっていた。
「ちょっと…ウソでしょ…?」
日本を発つ前に今までのように手入れが行き届かないだろうと
少しだけ短めにカットして来た髪…それでも肩に付くくらいはある。
(こんな床屋でカットされるの?)
口には出せないまま、恵理はジョージをそっと見上げた。
早くしないと断るチャンスがなくなる…そう思っていた時だった…
博久が自分の時と同じように指を立ててGOサインを出した。
「えっ?」
恵理が二人を振り返ろうとした時、背後でさっきと同じ音が響いた。
「ウソでしょ…?」
でももう振りかえる事は出来なかった…ジョージの大きな手が、
恵理の後頭部を博久の時と同じようにがっちりとホールドしている。
「どう言う事?まさか私も…」
私も坊主に…と言おうと思ったが、怖くて口に出せない。まさか…
「この島で暮らしていく覚悟が出来たって言っただろ?だからその印だよ」
博久が満足そうに楽しそうに鏡の中の恵理に話しかける。
「いや…嫌よ…」
蚊の鳴くような声で囁いたものの、口から出た瞬間にはバリカンの音にかき消されていた。
ジョージのグローブみたいな手にがっちりと後頭部をホールドされたまま
額にバリカンが迫ってくる…
逃げようとしても、逆にジョージの手によって前に押し出されるようになってしまった。
『ジジジ…』
バリカンが額に触れたと同時に髪を刈る音、そして
バサバサとすごい勢いで髪が落ちる音がした。
額の真ん中からつむじまで一直線にあぜ道のように髪が刈り落とされてしまい
そこだけす~っと涼しくなったような気がした。
「いやあああああ…」
思わず叫び声のような悲鳴にも似た声を出してしまった。
でもそんな恵理の様子を見てもバリカンは止まらなかったし、
ジョージは更に口笛でも吹きそうなくらい楽しげに次のバリカンを入れていった。
また髪を刈る音と落ちる音…カットクロスの上を長い髪がバサバサと滑っていく。
「いいよ、すごく…」
博久も満足そうに恵理の髪が刈られる様子を見ていた。
ジョージの持ったバリカンはあっという間にトップの髪を刈ってしまうと
耳の周りにもバリカンを入れた。丁寧に、でも素早く髪が刈られていく。反対側も…
そして最後は後だった。
すっかり刈られたトップの地肌にジョージの大きな手がぺたんと置かれ、
その感触に驚き、頭を動かそうとした恵理は、今度はぐいっと下を向かされてしまった。
「あ…」
恵理の後ろの髪の下にバリカンが潜り込むように入り、そして地肌に沿って動いた…
また驚くほど髪が落ちていく音がした。
バリカンは襟足から後頭部を通りそのまま一気に上まで上がっていく。
そしてさっき刈ったトップと繋がると、また襟足に戻って繰り返される動き。
首から上に向けて地肌がどんどん広げられていく。
下を向かされ、博久の目の前で髪を刈られている…そして間違いなくあと数分後には
自分は丸坊主にされてしまう…勿論生まれて初めての体験に
恵理は妙な感覚を覚えていた。恥ずかしいとか、嫌だとか、それとはまた違う何かも…。
やがてすべての髪を刈り終えると、ジョージはバリカンを置いてカットクロスを外した。
恵理の顔も服もさっきまでと同じなのにやっぱり別人のようだった。
「信じられない…」
イスから立ち上がるのも忘れ、ようやく鏡の中の自分を直視した。
その後ろにはニコニコ笑っている博久の顔…しかも同じ頭で…
「これでとりあえずしばらくは日本へは帰れないしね」
その言葉に反応して何か言い返そうとした恵理に、冗談だよと博久がウインクした。
「誰も知らない所に来たんだから、今まで絶対にした事のない経験を恵理にさせたかったんだ」
ジョージにお金を払い、店の外に出た。
確かに今は日差しが焼けるように頭にあたる。でも風が吹けば涼しいだろう
「熱いけど涼しい、って変な感覚ね」
恵理はまだ自分の坊主頭を1度も触れないでいる。その頭を博久がくりくりと撫ぜまわした。
「今までの恵理は全部捨てて、新しい君と始めたかった。だから…」
その手の感触に恵理は思わず声を上げてしまいそうだった。
そして自分も手を伸ばし、そして大胆に自分の頭に触れ、撫ぜまわした。
「いいわ…これすごく気持ちイイから…」
END