第48話 突然の訪問
本日は校内選抜戦だけの日で、午前中に行われる授業はない。そのため生徒は出場選手以外は、任意での登校となっている。
歩は日頃の疲れを癒すために今日は一日を自宅で過ごすつもりであった。
そして、いつも通り早朝ランニングをするのだが、生憎の雨で早く帰宅せざるを得なかった。
「うわぁ・・・ 今日は雨って知ってたけど、こんなに降るなんて思ってなかったよ・・・ すぐにシャワー浴びなきゃ」
濡れた服を洗濯機の中に入れ、すぐさま着替えを持ってシャワールームに向かう。
ちなみに椿は昨日すでに帰っており、現在はこの家には歩一人である。
そんな時にある人物がやってくるとは、この時点では予想していないのであった。
「ふぅ・・・ もうこんな時間かぁ。そろそろ寝る準備でもしようかな」
あれから約12時間が経過し、現在は20時ちょうど。規則正しい生活を送るためにも、今日は早めに休もうと思い、寝る準備を始めるのだが・・・
ちょうどその時、インターホンが鳴った。
歩は嫌な予感がした。こんな時間に、しかも今日のような悪天候の日に人がやってくるとは思えない。用事がある人物ならば、事前に連絡をするはずだ。
そう、そういうことを考慮するとやって来るのに心当たりがあるのは一人しかいない。
デバイスのモニターを展開し、インターホンに応じるとそこに映っていたのはびしょ濡れの葵だった。手には何やら食材が入った袋を持っており、料理でもしに来たのだろうかと思う。
しかしその約束はすでに以前果たしている。彼女は何をしに来たのか。かなりの不信感があったが、歩は扉を開ける。
彼にはまだ彼女に対する罪悪感があった。確かに椿が言った通りにすれば、問題はない。だがやはり、彼女は何か引っかかるのだ。
だからこそ、扉を開けるのだった。この先どんなことになると分かっていても、彼はその覚悟を持って彼女と対峙する。
「葵・・・ どうしたの? こんな時間に。それも食材も持っているようだし」
「歩・・・ その料理を作りに来たの。先日、約束したでしょ・・・?」
「その約束はもう・・・ とりあえず入りなよ。そんなに濡れてると風邪ひくよ」
「うん、ありがとう。やっぱり歩は優しいね」
そう微笑む彼女の笑顔は、病的というより病人そのもの。覇気がなく、声にも力がない。目には大きな隈があり、彼女は健康的と言える様子ではなかった。
本来ならば、ここは家に招き入れるべきではないだろう。しかし、彼女とは改めて話し合うべきだと思い、歩は彼女を家に入れてしまうのだった。
「濡れた服は洗濯して、自動乾燥させておくから。着替えは俺のジャージだけどこれ使って。シャワールームは使い方わかるよね? ドライヤーもここにあるの使って」
「うん・・・ 大丈夫・・・」
「そう・・・ じゃあ俺はリビングで待ってるから」
歩のジャージを自分が着れるなんて、なんて幸せなのだろうとは葵は思わなかった。まるで抜け殻のようにただ淡々と返事をするのみ。
その様子は明らかに異常だったが、歩はそのままリビングへ向かい彼女との対話を待つのだった。
「歩、シャワーありがとう・・・ だいぶ暖まったわ・・・」
「それならよかった。それで今日は何しに来たの?」
間髪を容れずに本題に入る。葵は力のない声でそれに答える。
「料理を・・・ 料理を作りに来たの・・・」
「それはこないだしたよね? 覚えてないの?」
「・・・・・・覚えてる。二人で仲良く食べた。歩は美味しいって言ってくれた」
「そうだね、美味しかったよ。あの時はありがとう。でも本当は違うでしょ? ここに来たのは」
「わ、私は・・・ その・・・」
思わずうつむいてしまう。これから先は現実に向き合わなければならない。あの苦しい現実に。そう思うと葵は、緊張感が増してくる。心臓の鼓動がさらに速くなり、皮膚からは汗が滲んでくる。
しかし進まなければならない。葵は歩に依存していたことに以前のやり取りで気がついてしまったのだ。だが、彼女は止められない。どうしようもないのだ。
だからこそ今日もこの家に来てしまった。また拒否されるかもしれない。また苦しい思いをしなければならないかもしれない。それでも彼女は歩しか頼れる人間がいなかったのだ。
「その・・・ 歩は私の過去を知ってるの・・・?」
「いや詳しくは知らないよ。俺が知ってるのは、今の葵だけだ。過去は知らない。知ってるのは、研究をしてたことだけかな」
「そう・・・ 歩はやっぱり私を助けてはくれないの・・・?」
再び同じ言葉を歩に言うが、返事はやはり同じであった。
「今俺が君に手を差し伸べても、きっとそれはさらなる依存になるだけだよ。葵も気がついてるんでしょ? その依存症に」
「それは・・・ でも、確かにそうだとしても・・・ この気持ちは・・・ 歩に対するこの気持ちはなんなの!!? 好きって気持ちじゃないの!?」
思わず声を上げてしまうが、それには冷静に返答する。
「それは葵にしかわからないよ。でもそこまで苦しんで、憔悴して、悲しみを生んでいるのはその気持ちが原因だ。それは本物じゃないかもしれない」
「本物って何!! 何なの!!? 私は人並みの幸せが欲しかっただけ!! 誰かに認めて欲しかっただけなの!! あなたが私を褒めなければ、あなたが私に優しくしなければ、あなたが私に喜びをくれなければこんな風にはなってなかった・・・ もう、どうしたらいいか分からないの・・・ どうしたら・・・」
「葵・・・」
歩は今までのやり取りから彼女の状態を察した。
恋愛にはハネムーン期というものが存在する。これは自分の考えることが全てバラ色で、相手のことが愛おしくて愛おしくて仕方ない状態である。この時は相手のことを思うだけで幸せになれるし、相手のそばにいるだけで満足なのだ。恋は盲目というのはまさにこの時期である。
しかし、ハネムーン期には終わりが来る。それを乗り越えたものが本当に良きパートナーとして長年連れ添うのだ。恋愛をし始めた人々が、将来を誓い合うも破局するのはハネムーン期の終わりをうまく乗り越えられないためである。
そして、恋愛は素晴らしいものという認識が多いが、やはり悪い面もある。恋愛依存症という言葉がある。これには、共依存、回避依存、ロマンス依存、セックス依存などが存在する。葵の場合は典型的な共依存のパターンである。
そしてそれは家庭環境が原因となっている。彼女にとって歩は親の代わりなのだ。親に愛されることなく、褒められることなく育った彼女は親の代わりを無意識的に探していたのだ。共に依存しあえる相手を求めていたのだ。そうすれば自分は救われると信じて。
その複雑な想いが恋愛と絡むことで、彼女はさらに苦しんでいる。歩も、本当に純粋に葵が自分のことが好きならば、真剣に向き合うだろう。しかし彼は気がついてる。彼女の恋が歪なものだと。だからこそ、あの時彼は拒んだのだ。
また、彼女は現在、認知システムが歪んでいる状態である。認知システムとはものに対する見方、考え方、捉え方のこと。それが、より妄想的かつ非現実的になることで恋で周りが見えないどころの問題ではなくなっている。
彼女は恋で自分すら見失っているのだ。
それに拍車をかけて、彼女をさらに苦しめるのはある物質である。
それはPEA――フェニールエチルアミン――と呼ばれる、恋をすると体内に生じる物質。別名「愛のホルモン」
このPEAは覚せい剤と非常によく似ている。PEAが大量に分泌されていれば、気分はかなり高揚するし、元気も出る。しかしその分泌がなくなれば、クスリが切れた時と同様に激しい脱力感や疲労感に襲われる。
PEAは人が作り出す天然の覚せい剤。それをうまくコントロールできないからこそ、葵は今こんなにも苦しんでいる。
そして歩はこれらのことを知識として知っているからこそ、彼女の気持ちには答えないのだ。その先には、明るい未来など待っていないのは明白。
彼女は自分自身で自分を救わなければならない。今もその気持ちに変わりはない。だが、何か引っかかるのは未だに感じる。しかしそのことは今は尋ねずに、会話を続けていく。
「葵はどうしたいの・・・? 俺にどうしてほしいの・・・?」
「分からない・・・ 分からないの。初めは歩が一緒にいてくれれば、いいと思ってた。でも、私は自分のことを自分で救うべきと言われて何も分からなくなっちゃった・・・ 本当は気づいてた。逃げてたって・・・ この気持ちも辛い現実逃避から生じたものだって、薄々気づいてた・・・ でも止まらないの!! 愛が、この気持ちが歩への愛と言わずに何というの!!!?? 私はやっぱり歩が欲しい。いつまでも、ずっと笑顔で褒めてくれるあなたが欲しいの・・・ ねぇ、お願い・・・ 私を求めて・・・?」
「・・・なるほど。わかったよ、ある条件をクリアしたら葵の望みを何でも聞くよ」
「本当に? 何でも? 何でもいいの?」
「あぁ。その条件は、次の試合で俺に勝つこと。わかった?」
「歩に勝てば、勝てばいいの・・・?」
「そうだよ、勝てば君は全てを手に入れられるんだ」
「本当!!!? やったぁ!!! それなら私頑張るね!!!」
「うん。それじゃあ今日は遅いから、もう帰ったほうがいいよ。送っていこうか?」
「いや、大丈夫!! 今日は一人で帰れる!! またね、歩! 試合の日に会いましょう?」
「うん、またね」
そういうと、葵は家を出て行った。もちろんこれは何の解決にもなっていない。歩が行ったのは再び彼女に覚せい剤を打ったのと同じことである。
今の葵の体内には、PEAが大量に分泌されている。だからこそ、急激に調子が良くなったのである。
これは賭けだ。彼女の症状は恋愛依存症そのもの。しかし、ある可能性を捨てきれないために、こうしてその場つなぎをするのであった。
「これは・・・ いよいよ本気で負けられないな」
それからデバイスで葵との戦闘の準備をしようとするが、その時ちょうどテキストメッセージが通知される。
「ん? これは・・・ 紗季から・・・?」
それからしばらくすると、紗季は遅い時間にもかかわらずに歩の家にやってくるのだった。
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「すまないね。こんな時間に」
「いや、それはいいんだけど・・・ どうして直接うちに?」
「デバイス経由だと盗聴の可能性もあるからね。念には念を入れて、ね」
「それで、何がわかったの?」
「以前、僕の論文を漁ってる奴がいると言っただろ? それが誰かわかってね」
紗季はデバイスのモニターを歩に見せるが、そこには意外な人物のパーソナルデータが表示されていた。
「長谷川小夜? これってまさか・・・」
「そう、あの長谷川葵さんの従姉妹だね。これは何か関連性がある気がしてね」
「そうか・・・ そういうことか・・・ 大体分かったぞ。なぜ彼女があそこまで取り乱しているのか、そしてその長谷川小夜が何をしているのか」
「なるほど、歩はもう気が付いたか。ちょっと非合法な手段だけど、長谷川家を調べてよかったよ。そのデータも見るかい?」
「あぁ、頼むよ」
そして、二人はさらに会話を続けていくのだった
「で、最終的にはどうするつもりなんだい?」
「彼女との試合であれを使うよ。CVAを少し調べてたいし」
「なるほど。でも使用条件が厳しくないかい?」
「そこは試合中だからね。なんとかするよ。最悪、手荒な手段も使わないといけないかも」
「うーん。君はそう手でいくんだね。これは僕も久しぶりに手伝うかな」
「紗季・・・ 大丈夫なの? まさかCVAを使う気じゃ・・・」
「じっとしてはいられないだろ? それに僕も一応被害者なんだ。どうも向こうはハッキングを仕掛けてきたみたいだけど、僕のセキュリティを甘く見ていたようだね。大体、欲しいデータはカウンターで取れたから大丈夫さ」
「ならいいけど・・・ 無茶はしないでよ?」
「君は僕の気持ちを考えたことがあるのかい? 今の歩の思いをいつも僕はしてるんだよ?」
「あぁ・・・ なるほど、これは失礼したね。でも、試合が終わるまでは待っていて欲しい。欲しい情報が手に入ったら紗季にも連絡するよ」
「あぁ、そうしてくれると助かる。でも、彼女の気持ちはどうするんだい? そっちの問題もあるだろ?」
紗季は話題を変える。もちろん、それは歩を心配してのことだったが個人的な事情もあるのは今は言わないでおくのだった。
「葵は・・・ 試合が終わって、それでも彼女の想いが変わらないなら今度こそはっきりと告げるよ。可哀想だけど、それから先は彼女の問題だ。俺が介入することじゃないよ」
歩は彼女の気持ちが本物か偽物かなど、実際はどうでもいいのである。なぜなら、彼の答えはただ一つだからだ。
友達程度ならば、彼は歓迎するだろう。しかし、恋人ならば話は違う。恋人として、誰かと付き合うならばかなりの時間を相手に与えなければならない。それは金銭的な意味でも同様である。また、精神的にも負担が増えるのは間違いない。それがたとえ、心を満たすものであってしても。
確かに、恋をすることで幸せになれるのは間違いないだろう。恋は、葵のように人を狂わせててしまうほど、甘美で快楽的なものであるのだから。しかしそれは、刹那的なものだ。彼は、恋は今の自分には全く必要ないと考えている。そんな時間があるならば、自分を高めることに時間を使った方が有意義であると、無意識のうちに思い込んでいる。
心にあるのは三校祭を征すること、そしてある人を助けることのみ。
選手として、三校祭を制覇したい気持ちは彼の心をかなり占めている。しかし、それ以上に大切なのが、優勝後に得られる数々の情報である。
三校祭の覇者となれば、紗季と同等かそれ以上にこの世界の情報をより多く得ることができる。そうすればあの人を救えるかもしれない。
そのためには、正直言って葵の存在は邪魔なのである。もちろん、彼はそこまで無慈悲ではないため、ある程度の情はある。
しかし、それは感情的な話だ。彼の心は、そして意志は、あの頂きしか見えていない。
その異常性に気がついているのは、紗季と椿のみだが彼女たちもどうしていいのか分からないのだ。
彼の努力を邪魔することはしたくない。しかし、その先に彼はどこまで行ってしまうのか。そのような葛藤が二人にはあるのだ。
「そうか・・・ 歩はやはり割り切っているんだね。感情というものを・・・」
「確かに、感情は大事さ。人間だからね。彼女に対する罪悪感もある。でも、俺が思うのはそこまでだよ。人には理性がある。俺は理性で感情を抑えるよ。それがこの先大事になってくると思うからね」
「僕もその考えには一理あると思う。でも、どうか無茶はしないでくれよ? 君を見ていると本当にどこか遠くに行ってしまうんじゃないかと、時折考えるよ」
「それはこっちのセリフだよ。紗季はもう世界的に権威のあるクリエイターじゃないか。俺なんてまだまださ」
遠くを見つめる彼の瞳には何が映っているのか。それは紗季にも、そして彼自身にも分からないのであった。




