日本語の性格
連載の更新がすっかり遅れていてお恥ずかしい限りですが、連載を差し置いて投稿しちゃいます。
実を言うと、あるゲームにすっかりはまってしまっています。
PS4のオープンワールド。さすが最新ハード、さすがソニー。さすがコジプロ。没入感ハンパない。
没入感が凄すぎて、長時間やると酔ってしまう。その酔いたるや、小学校の遠足のバス酔いレベルの深刻さ(お手洗いに駆け込むほどではないにせよ)ですが、そんな状態になっても止められない。時間さえあれば続行してしまう。思考が全部そのゲームに関連することにいってしまう。そのぐらいはまっています。
一体何のゲームにそんなにはまっているのか。
それは……
「メタルギアソリッドⅤ ファントムペイン」。
これまで二次創作などしたことのなかった私が、生まれて初めて二次創作してみたくなるほど。ただ、このゲームが如何に面白いかはまた別の機会で語らせていただくとして。
今回語りたいのは「日本語」についてです。このゲームの中で、ルーマニアの思想家のエミール・シオランの言葉「 人は国に住むのではない 国語に住むのだ 」という言葉が紹介されています。
それに触発されて、前々から考えていたことを書き残しておく良い機会だと思い連載そっちのけで書きました。
さて。
突然ですがこれを読んでいる方はほとんど皆さま、日本人であることと思います。私もそう。そこでお訊きしたいのですが、皆さまは国歌「君が代」についてどう思われますか?
国歌として相応しい歌だと思われますか?
ああいや。天皇陛下がどうとか戦争を想起させるだとか。そんな話がしたいのではありません。
ご存知のとおり、君が代は元は短歌です。三十一文字。
海外の文学について詳しいわけではありませんが、こんなに少ない文字数で立派に文学の一ジャンルとして成立しているのは世界であまり類を見ないと思うのです。もっと短い十七文字の俳句なんてものもあって。
挙句、国歌になってる。三十一文字の、国歌。
ワールドカップなどで他の国の国歌に触れるたびウィキペディアなどで歌詞をチェックするのですが、こんなに短い国歌はたぶん、日本だけです。
私が今まで見てきた他の国の国歌は、大抵ものすごい量の言葉を尽くして語っている。
改行一切せずに書いても原稿用紙一枚ではとても足らなそうな量で、発する側と寸分違わぬイメージを受け手に送ろうとしている。
けれど君が代は、たった三十一文字です。
短い言葉。発する側と受ける側で、イメージが違っちゃうかもしれないのに。
国歌のパターンとしてよくあるのは、その国の誇る具体的な物を並べて讃えるパターンです。
強く勇敢な立国の祖とか、美しい自然とか、文化とか。
しかし君が代が讃えるのは「 君(が誰かはともかくとして)の有る、あるいは君に連なるこの代(時代とでも言えばいいでしょうか) 」という、なんともほわんとした物です。
私はここに、日本語と言う言語がもつ性格がよく表れていると思うのです。
具体性や結論を追求しすぎない、言い換えれば受け手に想像の余地がある。何となくの共感で成り立つ。だから主語が曖昧になっちゃうこともある。
ビジネスなんかだと致命的な欠点かもしれないけれど、この追求しすぎない感じが私は好きです。
いつか、君が代が国歌でなくなる日がくるかもしれません。
もしそうなるのなら、代わりになる国歌も「 日本語の性格 」が伺えるものであることを祈って止みません。
ルーマニアの思想家が言ったように、どこに住んでいるかではなく、使う言語がアイデンティティとなるのなら。
言語の性格というものは、もっと尊重されるべきものだと思うのです。