そして、空谷の跫音
<そして、空谷の跫音>
ばたばたと空谷に響き渡る足音。
90度回転した世界、谷底にばたばたと人間が落下している音だ。
手足をばたつかせ、ぽそりぽそりと剥がれ落ちて行く人影、空事のような転置。
紺青の腕、合い間に覗く青白い皮膚、生命の潤沢さを失った白骨、私の神経の先に繋がる論決。
多量の体液に塗れたそれは、どぷりと塗料を被ったような、べろりと泥雨に埋もれたような。
爪と指の境が知れない、手の平の皺や節が皆無くなって、研磨された石灰のような単質さ。
冷たく硬く、そして重い、それに絡み付くような粘度と生臭さ、沈殿した生物の遺体は、化学的な白さと露骨な生体を無駄に広げ、空々しい天上を見仰いでいた。
それは皆、私だ。
急激に疲れを感じ、1つ大きく息を吸ったら、胸の辺りから液体がせり上がって来て酷く咽せた、引き攣る身体を捩って苦しい息を吐く。
口の端から漏れる不快感、縋った頬の下は、凍えた頑なな地面。
遠目に、鉄色の銃の直線が見えた、重厚で鈍い色光り、大丈夫だよ、と背筋を擦り、習慣化されたその声音は、誰の谷底も振り返らなかった。
「・・・ねえ、」
沈黙を私は聞き、そして空谷に声を発した。
「私の言葉が見える?」
冷たく硬く、そして重い、空谷には、無数の足音だけが響いている。
「言ってくれなきゃ、分からないよ」
「ねぇ。聴こえてる?」
「返事、出来るでしょ?」
「ねぇ・・・!!!」
谷底にばたばたと人間が落下している音、空事のような転置。
「・・・・・・私、愛というものが分かったんだ、」
「こんな私の、こんな感情だって、愛と呼べるものだった」
無機質な愛の感銘に照らされながら、私はそんな空谷を見仰いでいた。
「でも、それを君に伝える事は出来ない、・・・此処に、デジタルの穴とアナログの壁があるからだ、それによって、世界が限定されているからだ、ねえ、君は、」
経験しても、一種の状態を感得しても、それを言葉で囲わなければ、私達は何を共有する事も出来ない。
アナログ要素のほんの一部をその手に握り、簡素な数文字のデジタル記号を付け、限定し、本質は全く別物に変形し。
私の名付けた愛というものがこの男の思うそれと一致しているのか否か、私には解りようがない。
私には、この愛の感銘を、今生まれて初めて知ったこの芳醇な光とたおやかな温度を、伝える術が無い。
そんな世界に絶望したのは。
「あのね・・・」
多分、最大の手段でさえ、この男に見合わないと思ったからだ。
「あのね、色々と、あー・・・、ごめんね、・・・それから、ありがとう」
私にはあと、この男に対する謝罪と、感謝する義務だけが残されていた。
それから。
「ほんとうは、だいすき、だったよ。いまだって・・・」
彼には見合わないと思いながらも、決して伝わらないことを分かっていながらも。
どうしても伝えたかった。
きっとこの男でさえ理解できないような私の歪な感情を。
奇跡を。
信じていた。
遠くで、ばたばたと複数の人間が走り寄って来る跫音が響いている。
青白い空谷が、ワントーンずつ独自の色彩を伴い、沢山の生命が目を開こうとしている。
正しい関係達が手を伸ばす、今日も強く前へ進み行こうとする命宿すものの不思議。
生物の熱が起こす尊い光、朝もやを照らし、この地上に真新しい「今日」をもたらす。
言語が励行する、認知が始まる、構成が組まれ、思い出さなければならない事は沢山あった。
「君は何も悪くない」
塗料と泥雨に膝まで濡れて、男は微笑む。
「君はただ少し、きっと僕を好き過ぎたんだ」
そんな事は何でも無いと言うような、男の寛容な口元。
私も少し笑おうと思って息を吐いたら、血圧が一気に20くらい下がったような感じがした。
重力が増し、私の身体はずんと、冷たく硬い地中に埋まる。
冷たく硬い土の音が、きんと耳の奥に響く。
神経が白骨を見捨て、生体が投げ出され、体温が流出する。
様々な条件と統制が、ワントーンずつ暗転する、頭の内側が低圧に押し潰される。
つまり、現実と自分を繋ぐあの糸が、ぷつんぷつんと5・6本切れたような感じだ。
「何故」と思う事が確かにあった筈なのに、それが何であったか思い出せない、
ただ、私は安堵に涙した自分に、ひどく満足した。
この感情こそが「幸福」というものなのかと、薄れ行く思考の中で考えた。
それは愛と似て、私を簡単に充たしてしまうようなものだった。
それらを私に教えたのは、すべて彼だった。
奇跡は、そこに存在した。
イデオローグの異図はただ明け暮れの嘆きを経て、結局無様なマッチポンプ 。
限り無い愛をはらんだ静謐な空谷、夜霧を蹴散らす場違いな跫音。
それだけを、始まる世界の中で聞いていた。
<了>




