急咄~怪異の眼~
「面を線で囲めば、それだけで眼になるのだよ」
厭な童は其う言った。
「どういう意味だ?」
「其のままだ。あらゆる面を何かしらの線で囲んだ物が在れば、其れは眼に成りうるという事だ」
彰彦は眼の前が暗く成るようだった。
「ならば、俺を視ている眼は実在するのか?」
彰彦は質問する。いつの間にか厭な童と会話が成立していた。彰彦の事情を厭な童は何も知らない筈なのに――
厭な童はニタリ、と嗤って、
「在るが、実在はしていない」
と言った。
――ならば。
「ならば、俺が視ているのは幻覚なのか?」
「幻覚ならば、どうなるのだ?」
「は?」
「幻覚と判った所で貴様は眼を感じ続ける。其して疚しさを感じ続ける。何も変わりはしない」
泥寧に呑まれる様な感覚から逃れる為、彰彦は厭な童の言葉に喰らい付く。
「しかし、幻覚と判れば実在しないと割り切る事が出来るだろう」
厭な童は相変わらず厭な口調で話し始めた。
「そもそも幻覚だ、幻聴だと言うのは客観的な視点だ。其れを感じている主観は客観に気付かされるまで真実だと思い続ける。つまり其処まで真実な事象だという事だ。――現に貴様は視線を感じ、嘔吐しているだろう。何度理屈が合わない、気のせいだと思おうとしても視線は貴様を苛んだ。という事は割り切る事等出来やせん」
「ならば俺は一生事視線を感じ続けるのか?」
――肯定しないでくれ。
彰彦は思わず口から出た問いに後悔した。
しかし、厭な童は口を開く。
「貴様が眼を感じるのは、貴様が疚しさを抱えているからだ。貴様が感じる眼は貴様の眼だ」
だから――と厭な童は続ける。
「貴様の悪行が消えん限り、眼は消えん」
其して、厭な童は今までで一番厭な笑みを浮かべて、言った。
「だがな―――――、――――――」
彰彦は駆け出していた。厭な言葉をこれ以上聴いていたら、いよいよ精神が崩壊してしまう。
彰彦は自分の部屋の前にいた。
頭が痛い。目眩がする。吐き気も。
どんな風に此処まで来たのか、全く思い出せなかった。
彰彦は厭な童の言葉を間違いなく聴いていた。
しかし、其の言葉をどうしても思い出す事が出来なかった。言葉が耳の神経で詰まってしまって脳まで届いていないような――厭な感じがした。
――もう、寝よう。
彰彦は早くこの現実から逃げたかった。彰彦は扉を開けて部屋に入る。
今ではもう、部屋中から視線を感じていた。
何時もは孤独を紛らす為につけるテレビもつける気がしなかった。――眼を増やすだけだった。
彰彦は部屋の一角に在る布団に潜り込んだ。顔も布団の中に入れる。
無音だった。しかし、眼は在った。
布団の周りに沢山の人間が立って、彰彦をじっ、と視ているような感じがするのだ。
否――布団の中にも、
眼が、
在った。
――嗚呼、此処にも、視線が。
しかし、
視線では無かった。
眼
眼が
在った。
布団の柄の一部が、
眼球に成っていた。
其れがばちり、と眼を開いたのだ。
「うああああぁぁぁぁぁ!!!」
堪らず布団から飛び出す。
今までは視線だけだったのが、本当の眼に視えてきているのだった。
布団の柄の眼は、逃げた彰彦を追っていた。
じっ、と視ていた。
「やめろぉ! 俺を視るなぁ!!」
しかし、眼は増えていく。
ばちり、と布団の柄総てが、眼に成った。
何十もの眼が、視ている。――視ている。
ばちりばちりばちりばちり。
部屋中に眼が増えていく。
「あ、あぁ...あ......」
ばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちりばちり。
部屋中が幾つもの眼に成った。
眼は――総て三白眼だった。
――あれが俺の眼なのか?
彰彦は狂気の中、厭な童の言葉を思い出していた。
――違う。あれは、あれは
あの眼は、彰彦が眼元がよく似ていると言われた――
――親父の眼だ。
彰彦に斬りかかって来た時の、父の眼だった。
「やめろぉぉ!! 俺を、俺をぉ、其んな眼で視るなぁぁぁ!!」
彰彦の正気は崩壊した。怒号が其の声帯から響く。獣の叫び。
其の刹那――不意に厭な童の最後の言葉を思い出した。
《だがな、眼を潰せば、眼は消えるぞ》
――そうか、潰せばいい。
彰彦は近くに在った鋏を手にして、机の木眼の眼を斬りつけた。厭な粘液が飛び散る――ように彰彦には視えていた。
眼は消えた。しかし直後、眼は二つに増えた。
木眼の面を二つに分ける傷跡を彰彦がつけたので、面が二つに成り――眼が増えた。
「うおおおぉぉぉぉ!!!」
彰彦はひたすらに眼を斬り裂き続けた。しかし、眼は増えていく一方だった。
「やめろぉ! やめろぉぉぉ!!」
部屋中をズタズタにしながら、彰彦は其う叫んでいた。
ふと、彰彦の動きが止まる。
彰彦の眼は――鏡を視ていた。
――あれは俺の眼だ。
――そうか。そうかそうか!!
彰彦は狂ったように嗤い出した。――否、最早狂っていた。
――俺の眼が、この沢山の眼を感じているんだ。
――ならば、この眼が無ければ。
――俺は楽に成れるんだ。
彰彦は手にしていた鋏に力を込めた。
◇ ◇ ◇
片眼が繰り貫かれ、もう片眼に銀の鋏が深々と刺さっている加賀彰彦の死体が視付かったのは、それから二週間後の事だった。
其の顔は視た者を戦慄させるほどの狂気に満ちた笑顔を浮かべていたという。