破咄~物体の眼~
――疚しい。
人混みの中で、彰彦は其う感じた。
彰彦は都会の街を俯きながら歩いていた。
――外になど出るべきではなかった。
街には、沢山の人間が居た。
幸せそうに歩く男女。難しい顔をしている会社員。寄り添い歩いている親子。路上に座り込んで譫言の様に何か呟いている浮浪者。
其れらの人間は当たり前の様に眼を持っていた。
彰彦は街は人ではなく、眼が溢れて居るように感じていた。其して、其の眼は総て彰彦を視ているように感じていた。
――疚しい。
矢張、其ういう感情が芽生えてくるのだ。
彰彦は下を向いて街を歩いた。其うでもしないと気が狂って仕舞いそうだった。
――そもそも、自分は食事をする為に外に出たのだろう。
兎に角、食事だけでも済まさねば、理不尽な視線に晒されながら外出した理由が無駄に成る。
其れだけは厭だった。こんな状況でも彰彦は眼先の損得勘定に踊らされるのだった。
しかし――今直ぐにでも食事を済ませ、家に帰りたかった。
彰彦は恐る恐る視線を上げ、周りを視回す。
沢山の眼の隙間に洋食屋を視付けた。
――彼処でいい。
彰彦は視線を下げ、眼から逃げるように其の洋食屋に向かった。――しかし、視線を下げようとも疚しさは消えなかった。眼も消えるはずが無かった。
半ば駆け込む様に店に入る。店は映画の西部劇の舞台のような雰囲気を醸し出していた。流木のような飾り付け、空き瓶の中に便箋を入れた装飾等。
彰彦はこの店の雰囲気が苦手だった。其れは視線の為では無く、単純に彰彦の気質に合わなかったというだけである。
「いらっしゃいませ! 一名様ですか」
直ぐに店員が駆け付け、彰彦に言う。当然、彰彦を視ている。
「.......一人です」
何故こんな視て判るような事を態態訊くのだ。彰彦は苛立ちを覚える。
阿呆である。
「此方へどうぞ」
店員が言うので、店員を追う為に無警戒で眼を上げた。
すると――眼が、店員の眼が、彰彦を視ていた。
「うわぁぁ!」
――疚しさが恐ろしい速さで肥大する。思わず声を上げてしまった。
「お客様?!」
「い、いや、大丈夫です......」
彰彦は其れだけ言うので精一杯だった。
其れから彰彦は店員の靴を視ながら歩いた。
席に案内され、品書きを渡される。其れは洋館の窓を象ったと思われる形をしていた。
彰彦は品書きを視て、ハンバーグステーキに目玉焼きを乗せたものを頼んだ。
其の間、彰彦は一度も店員の眼を視なかった。しかし、視線は感じていて、彰彦は罪を糾弾されるような厭な感じがした。
待っている間、周囲に人が居ないかの確認する為に眼を上げ、周囲を視回す。
人は居なかった。しかし、疚しかった。眼を感じていた。
――何故だ?
彰彦は、店の窓際に人形が置いて在る事に気付いた。亜米利加の先住民の姿をした人形だった。――其の眼が、彰彦を視ていた。
――疚しい。
其う思った。
同時に、恐ろしく成った。
あれは人形だ。人ではない。しかし、視線を感じる。――気のせいだ。其うでなければ、理屈が合わない。
彰彦は視線から逃げる為に、眼を閉じた。でも、視線は相変わらず彰彦を苛んだ。
ということは――
矢張――
あれも――
自分を視ているのか?
眼が在るのか?
厭だ。
叫びだしたい衝動を彰彦は寸での所で堪えた。
「――――く様?」
「――お客様?」
声が、聴こえた。
「お客様、大丈夫ですか? ご注文の品、お持ちしましたが――」
四方へ散りかけていた自己を必死にかき集めながら、彰彦は言う。
「......は、はい。大丈夫、です...」
料理が眼の前に置かれる。
其の間も、彰彦は店員の顔を――否、眼を視れなかった。
――店員は嗤って居るのではないか? こんな自分を視て、嗤って居るのではないか?
確認する勇気など、彰彦には無かった。
店員は去っていった。
眼の前に料理を置かれてから、暫くしてやっと彰彦は落ち着いてきた。
――料理が在る――ならば喰わねば。
とりあえず、飯を口に入れる。――味がしなかった。否、味がしない筈が無い。彰彦の精神状態は飯の味を感じる事が出来る状態では無かったというだけだ。
彰彦は又飯を口に入れた。機械的な行為だった。矢張、味はしなかった。
一息吐く。彰彦は箸を置いた。
視線は未だ彰彦を射していた。誰彼にじっと視られながら食事が出来る訳が無い。
その時、特異な視線を感じた。
今までとは種類が違う――視線に種類等在る筈が無いのだが――彰彦は其う思った。
――何処から視ているのだ?
彰彦は索敵するが如く、周囲を見回す。
視線は――下から来ていた。
――下?
視線を落とす。
ハンバーグステーキが眼に入った。そして――
眼玉焼きが、在った。
其の黄身が――視線の主だった。
――馬鹿な。
――此れは、物体だ。
――眼では無い。
しかし、疚しかった。
疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて疚しくて堪らなく成る。
眼玉焼きが彰彦の罪を糾弾していた。
彰彦は、嘔吐した。
鼻がつん、とする。
吐瀉物が眼玉と机を濡らし、其して彰彦の服を濡らした。
疚しさを吐き出すかの如く、彰彦は嘔吐し続けた。
しかし――疚しさは消えなかった。
吐瀉物にまみれた眼玉が、そんな彰彦をじっ、と視ていた。
彰彦は気が付くと外に居た。
何故か服は着替えて在った。
彰彦は記憶の糸を手繰る。ぼんやりとしているが、店で着替えを借り、着替えたような気がする。
其れから彰彦はふらふらと店から出て、放心状態で此処まで歩いてきたのだ。
彰彦はやっと気が付いた。彰彦は地獄に居た。
眼が――
視ていた――
周囲に居る人の眼――だけでない。広告のポスターにある俳優の眼。街灯の灯。木の木目。煉瓦。道端の石ころ。夜空の星。マネキンの眼。
彰彦の意識できる総ての物体が、視線を発していた。彰彦の世界はもう、視線を発していないものを視付ける方が困難であった。
其して、其の総てが彰彦を視ていた。じっ、と視ていた。
「あ......あ、あぁ」
彰彦の精神が瓦解する――
其の刹那――
「何をしているのだ」
声がした。
童の声がした。
厭な声。厭な姿。厭な嗤い。――厭な眼。
しかし、実体を視詰めようとすると、厭な感じだけを残してぼんやりとしてしまう。そんな童だった。
「面を線で囲めば、其れだけで眼に成るのだよ」
厭な童が言った。