序咄 ~家族の眼~
――疚しい。
心の底から其う思った。
加賀彰彦は疚しくて疚しくてたまならかった。否、其れ以上に賤しかった。賤しさが疚しさを生み、今の加賀が居た。
彰彦の眼の前には五百萬の札束が鎮座していた。
盗み獲ってきた物だった。
近所の老夫婦が旅行に出掛けた隙を付いて、家に忍び込み。其して金を盗んだ。――俗に云う空き巣である。
生活に苦しんでいた訳ではない。只金が欲しかったのだった。人並み以上に賤しかったのだ。その金の使い途も下らない賭博だった。
金を賭け、金を失い、金を借りては金を賭ける。其して、金を失い――最後には金を盗んだ。
又賭博に消える筈の五百萬は彰彦とっては疚しさの象徴であり、今や忌々しい物でしかなかった。
五百萬の前に正座し、彰彦は眼を擦った。――消えてしまえ。其う思っての行動だった。阿呆である。
彰彦は生来臆病者で在った。臆病者で在るにも関わらず、賤しさに呑まれ、疚しさに襲われて居る阿呆であった。
彰彦は盗人な成った瞬間を思い出していた。と云うより、否応無しに思い返されるのであった。
他人の家に入った時、既に彰彦は疚しさを感じていた。其れでも盗みを止めなかったのは其の時は未だ賤しさが勝っていたからであった。
家を物色し、遂に金を視付けて其れを手にした刹那――
――視線を感じた。
――誰彼の眼を感じた。
反射的に彰彦は周囲を見回したが、視線の正体は解らなかった。
否、視付けられ無かっただけかもしれなかった。
臆病風に吹かれた彰彦は一目散に逃げ出した。其れでも金を持って逃げたのは、やはり賤しさからだろう。
其れから何処をどう走ったか覚えていなかったが、彰彦は自宅に戻って居た。
あの視線は何だったのか。彰彦には解らなかった。あの眼の正体が警察に通報すれば、彰彦は簡単に捕まるだろう。其れを理解した彰彦は童の様に震えた。
其れに、あの視線を思い返すと何故だか益々疚しくなってくるのだ。
――視線。
彰彦は厭な事を思い出してしまった。
――そう。視線である。
彰彦がまだ高校三年生だった頃、彼は極度の虚無感に襲われていた。理由は解らない。彰彦自身も覚えていないのである。覚えていないのなら、大したことでもないのだろう。
只――其んな状況で勉学に励める筈も無く、彰彦は成績を下げていった。そして遂には――大学浪人と成ったのだ。
彰彦の家は勉学を見込まれ出世して行った者が殆どだった。――云わば彰彦は、加賀家の面汚しであった。
大学入試の結果を知った翌日、消沈していた彰彦を父が呼び出した。
其して、彰彦を罵倒した。
――貴様は加賀家の歴史の末代までの恥だッ!
――よくも、儂の顔に泥を塗ってくれたなッ!
――貴様をこんな屑に育てた覚えは無いッ!
――その腐りきった軟弱な精神は視ていて反吐が出るわ!!
終いには、日本刀を手に取り、彰彦に斬りかかってきた。何とか使用人に押さえられ、最悪の事態は免れたが父の逆鱗に触れてしまった彰彦に実家での居場所は皆無だった。使用人は父の言いなりなのだ。
しかし――彰彦にとっては其んな事どうでもよかった。彰彦が感じたのは純粋な父への恐怖だった。
――其して、視線だ。
父が彰彦を罵倒する時の眼――冷たく、無情で、彰彦を蔑む眼――其れが、とても厭だった。
其れだけでは無い。肉親で在る母や弟まで、彰彦を塵を視るような厭な眼で視るのだ。
暴力を受けるより遥かに痛かった。
其の厭な眼を彰彦は思い出してしまった。
すると、又疚しく成ってくるのだ。厭な気持ちに成るのだ。
彰彦は踞って、厭な眼の記憶から逃れようとしていた。
何れだけ然していたのか解らなかった。彰彦は自失して居た。そんな愚か者を我に返らせたのは腹の音だった。
腹が鳴った――腹が減っているのか――食欲など無い――しかし人間喰わねば死ぬ――死にたくはない――ならば喰わねば。
彰彦の思考は遠回りし、蛇行して一番平凡な結論に落ち着いたのだった。
食事を作る気力等無い。ならば外食だ。そう思い、彰彦は立ち上がる。使い古した財布を手に取る。流石に五百萬を使う気にはならなかった。
外に出た瞬間、彰彦の疚しさは膨れ上がった。さらに、悪寒を感じた。
誰彼の眼を感じたからだ。