(4)手を繋いで
一旦部屋に戻ると、明来は荷物を置いて部屋を出た。
エレベーターに乗り、最上階を押す。明来の部屋の上なので、すぐについた。
エレベーターのドアが開くと、一面ガラス張りで、暗くなり始めた空に、何とも言えない朱色の夕焼けが雲に反射して、濃淡の美しい空が広がっていた。三月の福岡は関東と違って、随分日暮れが遅いのだろう。まるでマーブル模様に広がる景色に、明来はうっとりと見つめてしまった。
見渡す限り、180度は明来の視界だ。まるで自分一人のために夜景のようで、明来は思わず感嘆の声を上げた。
「いらっしゃいませ」
ふいに掛けれた声に驚いて、振り返った。
黒いスーツ姿の案内人が立っていた。チャイニーズレストランは、モダンかつレトロな中国様式で、煌びやかな屏風や金箔の扉、提燈や竹林、春の花が咲き乱れていた。
「斉藤明来様でいらっしゃいますね?」
「は、はい」
「お待ちしておりました。さあ、どうぞ。こちらへ」
優しげな笑みを向ける案内人に、明来は思わず微笑むと、あとをついていった。
中央に沢山のテーブルがあり、大勢の着飾った客で溢れていた。ガラス張り壁面は個室の部屋用で、とある部屋の前で案内人がすっと扉を開けた。
壁の一面はモダンな竹林の水墨画で、中央に大きな丸テーブルがあり、一人の男性が座っていた。その姿に、息を飲んで声が出なかった。
「父さんっ?」
「おう、明来。元気だったか?」
なんと明来の父親が座っていたのだ。確か今週は山口のほうだと言っていたはず。
明来は思いもしない光景に、動けなかった。
「なんで? どうして?」
「さあ、どうぞお席に。お飲み物はなにに致しましょうか?」
案内人に促されて、明来はようやく席についた。メニューを渡されても、何も目に入らない。父はビールを頼んで、明来にはウーロン茶を頼んだ。
かしこまりましたと言うと、案内人はその場をあとにした。明来はばっとテーブルの上に身を乗り出した。
「父さんっ」
「昨日、急に九州で点検があってな。それでこっちにいたら、高宮さんから電話があったんだ。お前も福岡にいるってな」
「高宮さんが?」
「ああ、お前がいつも話していたから、ぴんときた。不躾なお電話をいきなりしてって恐縮がっていたよ。私こそ息子が随分お世話になっているのに、ご挨拶もせずに申し訳ありませんって。すごく感じのいい人だな」
「だろ? ほんと、優しい人なんだ。東辞の従兄弟なんだけど。オレなんかにもすごく親切で」
「ああ、まだ若そうなのに、できた人だな。卒業式の日にもご馳走してもらったって言ってたが。お礼を言いたかったから電話をもらって助かったよ。お前が一人でいるんじゃないかと心配だったから」
父は明来をまっすぐ見つめると、少し顔を緩めて、目を閉じた。何を電話で話したのか明来には不明だが、父の優しげな表情からなんだか気持が楽になっていく。父には話してないことの方が多い。仲がいいのは話しているが、東辞との出会い自体が、自分が後生大事にしていた母の爪によるものだから、隠していたのだ。
「高宮さんが、お前に福岡までお使いを頼んだって言ってたぞ」
「そうなんだ。いつもお世話になっているから、引きうけたんだ。旅費も全部だしてくれて、こんなすごいホテルまで予約してくれてさ。明日には用事も済んで帰る予定なんだけど」
「そうか。旅行にも連れていってやれなくて、まったく悪い父さんだな。……明来、元気だったか? いつも済まなかったな」
父がしみじみと明来を見つめて言った。明来は一瞬目を見開いた。そして頬を緩めると、黙ってただ首を横に振った。口の端をぎゅっと結ぶと、明来はまた首を振った。
言葉もなく、父も自分を見つめていた。なんだか気恥しくなって、明来は下を向いた。
その時、料理が運ばれてきた。前菜からして豪華だ。伊勢エビの和え物、玄海の幸の刺身、地元野菜のオイスターソース炒め、フカヒレの黄金スープ炒飯、ずらりと並べられる料理に、明来は舌鼓を打った。
「さあ、頂こう。高宮さんに感謝だな」
「うん」
明来は満面の笑みを作ると、「いただきます」と声をあげた。
歓談の輪は途切れることなく、美味しい料理に楽しい会話、父親とこんなに向かい合って話をするのはいつぶりだろう。
目の下にうっすらあるクマを見つけて、明来はふと思った。仕事仕事で自宅に帰る暇もない父の心配を、自分はしていただろうか?
「父さん。仕事忙しい?」
「いや。そんなことはない。大丈夫だ。いつも帰ってこれなくて済まないな」
「そんなことないよ。父さんこそ、あまり無理しないで。なんかあったら、オレに話してよ?」
父は驚いて、明来を見つめてきた。何か可笑しなことを言っただろか、と怪訝に思った。
父はふっと息をはくと、短めに切った髪をくしゃくしゃっと掻いた。
明来とは全然似ていない黒髪で、眉毛も太く凛々しい顔立ちだ。背も高く、技術屋らしい太い腕をして、浅黒い肌をしていた。若い頃は運動部に所属していたらしく、四十後半だが、全体的に引き締まった体格だ。
明来のふわふわした色素の薄い茶色い髪や大きな目は、母ゆずりだ。
向かいに座った父が身体を乗り出して、手を伸ばしてきた。明来の頭に手をかけると、くしゃくしゃと撫でた。
子供じゃないのに、と少し思ったが、なんだか懐かしい。明来は口の端を上げると、ふっと笑った。
「こんな風に笑える日が来るなんて、お前の笑顔が見れるなんて」
「え? オレそんなに変だった?」
「いや、そうじゃない。ただ、お前が無理をしていたことは判っていた。それをどうしてもやれない。父親として、情け無かった。仕事に没頭することで、見てみぬふりをしていたんだ。父親失格だ。辛い思いばかりさせてきた」
「父さん……」
「アパートじゃなかったら。そう思ってあんな家を買って、お前を閉じ込めて。それで何が出来たって言うんだろう」
「父さんっ?」
「済まない。本当に、どう詫びればいいのか。どうしてあの時、私が一緒じゃなかったのか。私のせいだっ」
「違うっ。駄目だ、そんな風に考えちゃ。父さんのせいじゃない。誰のせいでもないっ。お母さんはっ」
お母さんは……。
明来は言葉を飲み込んだ。ぎゅっと下唇を噛んで俯くと、握り締めた拳が目に入った。
自分は、一体何をしてきたのだろう。
心配かけまいと、元気にふるまってきた。
母の爪を大事に隠して、あれさえあれば、幸せに生きていけると思っていた。
東辞
とうじ……。
『そんなものに、いつまですがるつもりだ?』
『腐った鼠に喰われているのが判らないのか?』
『ひとりで泣くな』
東辞……。
明来は目を閉じた。すうっと大きく息を吸った。胸の中に空気が入ってきた。そして目を開けた。
「前に進もう。父さん」
「あき?」
「お母さんが喜んでくれるような。オレ頑張って生きていきたい。一人じゃないもの。だから父さんも、自分のせいだなんて考えないで。一緒に頑張ろうよ。辛い時は辛いでいいと思うんだ。だからオレに話して。一人で頑張らないで欲しい」
「明来……」
父の細くなった目から、光るものがにじんでいた。
すべてのことが、今の自分を作っている。東辞だけじゃない。高宮さんも父さんも。
明来は笑った。目じりに涙が浮かぶ。それでも、明来は笑った。
「父さん。ありがとう」
それから食事をつづけ、楽しい夜はもう十時を過ぎようとしていた。父はコーヒーを飲んで、明来は杏仁豆腐を食べた。
父はこれから最終の新幹線に乗って神奈川まで戻ると言った。
「お前のこれから先の未来が、幸せであるように。どんな人生を選ぼうと、私はお前を誇りに思うよ」
そう言って笑うと、明来の頭をくしゃくしゃと撫でて、父は帰って行った。
明来は胸がいっぱいだった。父の乗ったタクシーを見送ると、自分の部屋に戻った。
高宮さんにお礼を言おう。
東辞に電話しよう。
繋がるかな?
会いたいな。
明来はくすくすと笑うと、バスルームに消えていった。
(続く)