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(3)ちょっと痛いけど

フロントの脇にある茶褐色の樫木のドアから入ると、長い廊下があり、しばらく行くと控え室のような部屋があった。木目の美しい磨かれた廊下にはゴミ一つなく、客が入室しない部分にも気を配っているホテルの指標が見えた。ドアを開けると、備品の棚が沢山並び、中央にテーブルとソファがあった。そこに、先ほどのホテルマンが座っていた。


「斉藤様?」


ホテルマンは驚いて立ち上がると、明来に向かって言った。若いホテルマンの顔を見ると、ああ、と合点がいったようだ。二三言話すと、若いホテルマンは丁寧におじきをして出ていった。


「こんなところで申し訳ありません。さあ、どうぞお座りください」


「すみません」


明来あきは頭を下げると椅子に座った。ホテルマンは棚から救急箱を出すと、明来の横に座る。胸元の名札がはっきりと見えた。高杉たかすぎと書いてあった。


「転ばれたのですか? 痛いところはございますか? 足は?」


「いえ。大丈夫です。顔だけこんなになってしまって。恥ずかしいです」


「少しみますが」


そう言うと、高杉は脱脂綿に湿らせた消毒薬を、明来の頬にぽんぽんとあてた。


「あっ、い」


思わずひっと声の出る明来に、高杉は、「申し訳ございません」と一瞬手を引っ込めた。


「いえ、すみません。全然痛くないです。もっとぎゃーってなるくらい、やってください」


その言い方が可笑しかったのか、高杉がくすくすと笑みを噛み殺した。明来はきょとんとなって、なんだかばつが悪いやら恥ずかしいやらで、下を向いた。


「福岡にはご観光ですか?」


「あ、いえ、人を探しに」


「人を?」


高杉の手が一瞬止まった。しばらく明来の顔を見つめると、何か言いたげにうっすらとと口を開けたが、それはゆっくりと閉じられた。


「申し訳ありません。そんなご事情があるとも知らず、軽々しいことをお尋ねしました」


「いえ、そんな。全然大丈夫です。友達のお母さんなんですけど」


「ご友人の? 斉藤様が?」


「はい。友達は会いたくないって言うんで、僕が無理矢理。ったく、俺様野郎なんです」


「そうなのですか」


高杉は微笑んだ。


「手がかりが福岡にあるのが判って、その人に会いに来たんです」


明来は意気揚揚と返事をした。東辞の顔が浮かぶ。「お前に見つけられるか?」 と生意気な顔が浮かんだ瞬間、一気に気が落ちた。先ほどの諏訪幸太の顔が浮かび、続けて母親の顔が浮かんだのだ。怪しい者でも見るような目つきだった。確かに近所には見かけない人間で、そんな知らない人間と自分の息子が手を繋いでいたのだから、怪しまれても仕方がない。住宅地では余所者は目立つものだ。


「どうかなさいましたか?」


「いえ、手がかりと言っても、その人に会って話を聞かないといけないんですが。初めて会う人だし、上手くいくかどうか。親戚との縁を切って、福岡の地に住んだ人らしいんです。目のかたきなのかもしれません。ちょっと気遅れしてしまって」


「そうなんですか。でも、斉藤様は大切なご友人のためなんですよね?」


「え?」


「わざわざお一人で福岡まで来られて、斉藤様がどんなに強いお気持ちで来られたのか、よく判ります」


明来は少し恥ずかしくなって、下を向いた。


「きっとその強いお気持ちと同じくらい、その方にも守るべきものがあるのでしょうね」


「守べきもの?」


「はい。親戚との縁を切って、縁もないこの土地に住まわれたのなら、どれほどの覚悟だったでしょう。それでも懸命に生きてこられたのは、何かを守りたかったからなのかもしれません」


「高杉さん……」


「済みません。出過ぎたことを申しまして。まずはそのお方のお気持ちを、判るところから始められたらどうでしょうか?」


「気持ちを?」


「はい。今は仲たがいした間柄かもしれませんが、その原因になったのは、お互い守りたいものがあったからなのだと思うのです。家族だったり、地位や名誉だったり、様々でしょうが、何かを守ろうとした気持ちは同じだと思うのです。その方が、家族を守るために親戚との縁を切って福岡に住まわれたのなら、斉藤様と同じではないでしょうか?」


「僕と、同じ?」


「はい。ご友人を思う斉藤様と同じだと思います。争いや憎しみも、元は愛から始まったものではないでしょうか。斉藤様のお気持ちと同じ。きっと判り合えると思います」


明来は高杉の顔を見つめた。自分は諏訪家から、東辞の母親の行方を聞くことだけを考えていた。

諏訪家のことも理解しようとせず、ただ自分の聞きたいことを聞き出そうと、どうやれば相手を怒らせずに上手く聞きだせるのかとそればかりを考えていた。


明来は高杉の目を見つめた。


口の端をやんわりと上げて、高杉は微笑み返した。


「斉藤様の笑顔の理由は、そこにあるのですね」


「え?」


「そんなにお優しいお顔ができるのは、その何倍もの悲しみを、経験していらっしゃるから」


明来は目を見開いた。亡くした母のことが、目の前に浮かぶ。


一瞬で引き戻される。


明来は自分の髪に手を忍ばせた。母と同じ茶色で猫っ毛で、柔らかな母と同じ。

目じりに涙がにじみそうになり、下唇を噛みしめた。綿菓子の世界で生きるより、こっちを選んだのは自分だ。


『明来。あき……』


東辞の声がした。我がままで、俺様で、笑うことなんて滅多になくて。


『一人で泣くな』


東辞が手を伸ばしてくる。細く長い指が、目の前に伸びてくる。黒い瞳が少し歪んで、笑っているつもりなのか。そんな顔をされると、自分はどうにも我慢できなくなって、涙がこみ上げてしまう。


明来はぐっと奥歯を噛みしめた。

今は自分のことより、東辞のことなのだ。見ず知らずの人に、これ以上は言えない。


顔を上げた。


「全然。辛いことなんて、なかったですよ」


明来はにっこり微笑んだ。ぴりぴりと、頬が少しだけ痛かった。


雰囲気を察したのか、高杉が言った。


「明来様のお名前は、明日が来ると書くのですね」


「え? あ、はい。母がつけてくれました。楽しみな明日が来るような、毎日が幸せであって欲しい、って意味らしいです」


「素敵なお名前ですね。私の娘も似たような名前だったので、なんだか嬉しくなりました」


「お嬢さんがいらっしゃるのですか? お若いからてっきり独身かと思っていました。どんなお名前なんですか?」


「今日を生きると書いて、今生、きおと言います」


「きおちゃんか。可愛いですね」


「娘からは男みたいだって怒られましたが」、そう言って笑った高杉の目じりはとても優しかった。

明来は少し見とれて、父親の顔になった高杉の話をもっと聞いてみたいと思った。


「ただ毎日が笑顔で、幸せであって欲しい。親の願いなんてどこでも一緒ですね」


明来はふと幸太の母親の顔が浮かんだ。息子を守る、子供を思う、その気持ちを思うと、誰だとて同じなのかもしれない。自分を怪しい人間だと警戒しても、それは子供ためなのだ。


諏訪家が東辞家を捨てたのは、並々ならぬ理由があったのだろう。それも子供守るためなのかもしれない。


母の顔が浮かぶ。母も自分を守るようにして、逝ってしまった。


明来はぐっと奥歯を噛み締めた。


「斉藤様?」


ぼんやりとしていた明来に、高杉が声をかけた。


「すみません。ぼうっとしちゃって」


「何事も一歩からですよ。誤解や争いがあっても、その気持ちの発端は、人を愛するが故なんだと思います。そのお方の幸せをまず考えてみてください。そうすればきっと伝わります。私がちゃんと見ておりますから、頑張って下さいね」


明来は頷いた。


そうだ。オレは東辞に笑って欲しくて、福岡に来た。諏訪家もきっと同じだ。


オレにできることって、そこだったはずだ。


幸せでいてくれるよう、どこまでも信じること。

信じて信じて、いつか笑える日が来ることを信じることだ。

それは東辞でも諏訪家でも同じことだ。


「ありがとうございます。こうしてお話ができて、気持ちが楽になりました。不安で不安で」


明来はがしがしと頭を掻くと、下を向いた。


「さあ、上を向いてください。消毒がまだですよ」


うへーと言って、明来はふっと顔を上げた。高杉の顔が目の前にあった。なんだかドキッとして明来は一瞬固まった。


高杉はふっくらとした丸みのある大きな手で、そっと明来の頬に脱脂綿をあてた。ふわふわとした柔らかいものが、ひんやりと頬に触れられる。高杉はただ傷をじっと見て、手当てを続けた。明来も黙って、座っていた。近づいた高杉の顔を見ることができずに、ただ肩のあたりをぼんやりと見つめた。


やはりこの人は、人を安心させる何かがあるようだ。高宮さんと一緒だ。明来はぼんやりと思い出していた。


「高杉さん?」


「はい?」


「あ、済みません。馴れ馴れしく」


「いえ。どうぞ」


「おいくつなんですか?」


「歳ですか? 三十六です」


ああ、高宮さんよりちょっと上くらいか。


「斉藤様は高校生ですか?」


「先週卒業しました。春からは大学生です」


「そうですか。それはおめでとうございます」


「いえ。ぎりぎりで」


「ふふ。どようなご専門に?」


「はい。児童教育です。福祉を専攻しようと思っています」


話しながらも、高杉は手を休めることは無い。傷を気遣いながら、明来の気が紛れるよう話しかけているようだ。


「それは大変ご立派な。すでに社会情勢も福祉が大きな分野になっていますから、とても大事なお勉強をされるのですね」


「はい。頑張らなきゃって思います」


「実は今生きおは、生まれつき耳が聞こえなくて。福祉施設には大変お世話になりました。今は普通の学校へ行っていますが、施設の生活がなかったら、どうなっていたかと思います」


「そうだったんですか?」


「私は四国の出身なんです」


「四国?」


「施設がなくて、ようやく思うところが見つかって、こちらに引越して来ました。仕事も変えて」


「そうだったんですか。そんなに施設ってないんですね」


「はい。娘の笑顔を取り戻したい。その一念でした。ひとりひとりに目をかけ、行き届いた学校生活を送らせるのは、やはり特別な施設が必要だと感じました。そしてその施設が少ないこと。理解が浅いこと。もっと多くの方に知って欲しいと思います」


明来は高杉のことを思った。相当な苦労があったと思える。この人の笑顔の裏にも、やはり苦労があったということなのだろう。


ばりっという音がしている。バンソーコーのシールをはがした。明来の顎に少し触れると、高杉はそっと傷に当たらないようにバンソーコーを貼った。普通より少し広めで、テープの部分が痛くない。


「傷が大きいところは貼っておきました。痛みませんか?」


「はい。大丈夫です。どうもありがとうございました」


「いいえ。私どもこそ、お節介を焼いて申し訳ありません。また何かありましたら、いつでもお尋ねください」


「はい。なんか甘えてしまって、済みません」


「いいえ。私も斉藤様とお話できて、大変幸せに思います。仕事を超えて、斉藤様の笑顔が好きになってしまいました」


高杉が目を細めて微笑んだ。明来はなんだか照れくさくなって、頭を掻いた。


「もうそろそろお時間ですね。お夕食は最上階となっております。どうぞごゆっくり、お楽しみ下さいませ」


明来は頭を下げてお礼を言うと、部屋をあとにした。


(続く)

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