005.アクチェ・ヴァルカは笑う
長空という国がある。またの名を霧の都。
別に気象学的に霧が多いというわけではない。世界で初めて蒸気機関産業を立ち上げ、日夜その機関をフル活用しているため常に霧に覆われている。そのことを比喩しているのだ。
蒸気機関を使っているだけのことはあり、魔法を多く用いるティル・ナ・ノーグとは異なり機械文明に特化した国家である。精霊の手を借りずに人の力だけで進化した――東洋の優秀な脳細胞集積地のひとつが、そこにあった。
総人口は約4600万人。国土面積はアーガトラム大陸の国すべてをまとめても足りないくらいに広い。主な収入源はその広大な国土から採れる大量の希少金属――バナジウムやリチウム、そしてミスリルにオリハルコン――と、それを売り物とした貿易だ。そして蒸気機関。
女王を国家元首とした民主主義国家であり、4600万人もの国民をまとめるのはほんの一握りの種族――エルフだ。
もともと長空は複数の民族が『自分こそ王だ』と主張し、そのたびに混乱と戦争――そして滅亡を繰り返した歴史を持つ。
誰か止めろと願っても、実行できる者などそうはいない。――まとまりの無い我々がひとつになるなんて、夢でしかないじゃないか。
できる、と誰かが言った。
それは長空で耳長族と呼ばれていた人種――エルフの少女。
彼女の言葉を誰も信じなかった。笑われたりもした。
でも彼女は信念を曲げなかった。諦めなかった。
そう、
意志の強さを感じさせる青く大きい瞳は――決して曇ってなどいなかった。
長命で賢い頭脳を持つ彼女が国を統治し、戦乱ですさんだ街を整え、飢えた民に食料と毛布を与え、ひとつの国としてまとめ上げた。
あきらめの悪い彼女が成し遂げたこと。それはほんの些細なこと。夢を現実にしただけ。
それを人は奇跡と呼ぶ。神と呼ぶ。
たった一人で国を変えてみせたエルフの少女。神を目の当たりにした民はエルフを敬い崇拝した。
奇跡が生まれて3000年。世界有数の機械産業大国は、エルフの少女の血を分けた一族によって統治されている。戦争があったことなど歴史の教科書にしか記されていない。
それだけの時を重ねてなお――人々はあの青い瞳を忘れられない。
さて時代は変わって、現在の長空を統治しているのはエルフの血族。帝王学と法律と歴史を学び、近衛歩兵第一連隊にも籍を置いていた鉄の女王である。
女王には授かった娘がいる。のちのちの王位継承者となる第一皇女が。
彼女は大のティル・ナ・ノーグ心酔家で有名であり、この常若の国に行くためだけにわざわざここの言葉をマスターしたほどである。
そしてこの日も彼女はお忍びでアーガトラム大陸に訪問してきていた。ハーフエルフが多く暮らす街――エガリティアに身を隠し、うっとうしいボディガードを煙に巻いて。
そして一日たって、二日たって――彼女は戻ってこなかった。
それはアールとユリシーズがエッカルトに行こうと海竜亭で相談する数日前のお話。
彼らのいない、もうひとつの物語――
長空租界。
外国人が多く住むティル・ナ・ノーグには、数多くの外国人居留地が存在する。それぞれの国・人種のものにつき、決められた街を与えているのだ。長空の人間にはこれだけの土地を。アーラエにはこれだけ。それからゴブリンには……エトセトラ。エトセトラ。
王都サフィールに併設されたエガリティアも、そういう意味ではエルフのための租界であると言えるだろう。
長空に与えられた租界は南西の商業エリアの一部。
使い古されて間もない馬車がまばらに並び、そのそばには身なりの整っていない男たち――ぞんざいに言うならホームレスたちが馬車の下に自分の身を滑り込ませている。暖でも取っているつもりなのだろうか。
港には貸倉庫がずらりと並び、海の向こうからやってきた木箱が積み木のように敷き詰められている。香ってくるのはつんとする磯臭い塩か。
その香りを吸いこみながら、ある少年が歩いていた。
深緑のマントに身を包み、かつりこつりと靴音を鳴らしながら。その音も、夜の闇の中に溶けて消えていく。
月も無い、真っ暗な闇空に浮かぶ港はひどく不気味だ。
そんな中を〝彼ら〟はまっすぐに進む。四人の、マントを羽織った謎の集団。
明かりが無いために顔は見えない。かすかに見える口元から若いとだけは判別できた。
彼らが歩いている先は、やたらと老朽化の目立つ倉庫だった。長いこと潮風にさらされているせいでところどころが錆びているし、壁の隙間はすすや汚れでびっしりと埋め尽くされている。
それでも窓ガラスはしっかりとはめ込まれているし、明かりもついているし、ドアの前には人も立っていた。
遠くから見れば、それはどこにでもいる警備員の男に見えたかもしれない。
しかし、刺すような瞳と剣呑な空気を撒き散らすそのさまは、どこからどう見ても堅気の人間ではない。
そしてこんな夜中に人が集まることを考えれば――それは世間に話せるような内容でないことは明らかだ。
秘密。あるいは犯罪。
男の前で、彼らは足を止める。そして、彼らのうちの一人だけが前に出て、フードをめくってほんの少しだけ顔をさらした。本当に、ほんの少しだけ。
赤褐色の髪。紫水晶のような瞳。マント越しでも分かる、華奢な体つき。
彼を知っているものならば、この少年がノエル・フライハイトという名前であることに思い至っただろう。
けれど男はノエルの名前を知らないし、ノエルにとっても素性は知られたくない。
だから挨拶を省略して、ノエルは言った。
「取引をしにきた」
マントを羽織った四人が倉庫に入るや否や表戸が閉められ、明かりも最小限に絞られる。
「暗くないか?」
ノエルがつぶやく。
「天馬騎士団にバレるよりはマシだろう?」
相手の男が質素なテーブルに座る。歳のせいか頭は禿げ上がりつつあったが、鍛え上げた肉体と手垢にまみれたナイフが、彼が暗い家業に手を染めている人間であることを如実に語っていた。
「…………」
ノエルは黙って、別のマントを羽織った者に席を譲る。その人は安っぽいテーブルに肘をついて指を絡め、相手の男を値踏みするかのように見つめていた。
「……。BK-35。スミルノフだ」
粘っこい視線を払いつつ、男はボウガンをテーブルに置いた。板が軋むかと思ったが、大きさのわりに軽く出来ているらしい。
「フレームに木を使って軽量化してある。肉抜きもいくつかしてあるからさらに軽いな。弾は全部で――」
「14発」
男の声をさえぎって、マントの男が声を重ねる。テーブルに座っている者ではない。ノエルでもない。マントの男はフードをめくって顔をさらした。ノエルと違い、全部。
艶やかな紅の髪に大柄な蝶の髪飾り。その飾りが奇妙だと思わせないのは、ファッションモデルもかくやと言わんばかりの甘いマスクのせいだろう。それでいてどこか愛嬌がある。
「カートリッジ装填式で。単発と三点バーストと連射が選択可能。矢の羽根を無くしたせいで命中率は死ぬほど低いですが、それでも至近距離で撃てばグリフィスキアだって殺せる。――でしょう?」
すらすらと商品の情報を言い放ち、彼は長い足を優雅に進めて男に手を差し伸べる。
「ヨハン・ペタルデスといいます。以後お見知りおきを」
「あ、ああ……」
戸惑いつつも、男は差し伸べられた手を握る。と、ここで男はヨハンという男の手の違和感に気付いた。
硬いのだ。まるで、鉄か何かのような。
あ、失礼。とわざとらしく言いながらヨハンは手を引っ込めた。
「ちょっとした事情で義手にしているんです。付き合っていた女性に手を切られまして」
冗談めかして――だけどどこか他人行儀に――笑いながらヨハンは引き下がった。
代わりに、四人目のフードの者が歩み寄る。マントのシルエットからして女性であることは間違いなかった。それも背の高い。
彼女はボウガンを手に取ると、弦の張りはどれくらいか、どんな弓を使っているのかを検分し始める。買い取った商品なのだから、調べるのは当たり前だろう。
だが、早い。
初めて手にする武器であるはずのスミルノフを、彼女は長年使い親しんだ相棒であるかのように滑らかに振り回し始めている。まだ五分とたっていないのに、だ。
狙いを定めるべく腰だめに構えるその姿はサマになっているし、動きは一分の隙も見当たらない。
このわずかな間だけで、彼女はスミルノフを己自身に完全に同化させたと言っても過言ではないだろう。
さっきのヨハンといい今回の取引相手は化け物か、とさえ男は思う。
「ところで――」
変声期前の声――この場には似つかわしくない声が響く。
少しして、この声が自分の目の前から聞こえたのだと気付く。さっきからこちらをずっと見ている、テーブルの前で肘をついて指を絡めているフードの――たぶん少年。
「このスミルノフを、〝我々〟東レムリア貿易会社はいくつ買い取ったんですか?」
我々、の部分を特に強調して少年はつぶやいた。
東レムリア貿易会社。
ティル・ナ・ノーグの主な産業といえる食品、技術加工、貿易といった事業を一手に引き受ける大企業。
実力至上主義のスタイルをとっており、結果がすべてと言い切る現実的な複合企業体である。
「3000挺だ」
その会社の人間が、何ゆえにこのような後ろ暗い取引にかかわっているのか。ましてや3000挺のボウガンなど。
「後任の僕にも詳しく教えていただけないでしょうか? ボウガンの次に、我々はどのような取引を行うおつもりだったんですか? 商品は?」
歳若い、だけどどこか蛇のような陰湿さを含んで少年は尋ねてくる。それが少し不気味だ。
「…………。コンテナが見えるか?」
若干の嫌悪感を抱きつつも、男は答えた。
「あなたの後ろに見えますけど?」
怪訝そうな顔でヨハンが答える。
男が指をパチンと弾くと、部下の男がコンテナの扉を開いてみせた。
「――っ!?」
その中――商品を見せられて、表情を変えたのはノエルだった。アメジストの瞳が殊更に見開かれる。
「エルフじゃないか!」
声を張り上げてノエルが叫ぶ。
コンテナの中に押しこめられていたのはエルフだった。それもまだ若い、未成年の子供ばかり。
皆一同におびえた顔をしているが泣き出そうとするものはいなかった。涙を流さないのはすでに泣き果てたからか、それとも――泣くと〝何か〟をされるからか。
「この子達をどうするつもりだ! どこから連れて来た!?」
ノエルは怒りを隠そうともしない。
「エガリティアから攫ってきた」
しれっとした顔で男が言ってのける。何をそんなに怒っているんだとでも言いたげに。
「こいつらは内臓でも取られるのか、変態の慰み者になるのかは知らないが、長命で若いままでいるエルフは高く売れる。それに、エガリティアは身寄りの無いエルフを飼うための養護施設だ。一人や二人いなくなっても誰も困らない」
「この子たちがどうなってもいいって言うのか!?」
張り詰めた声でノエルが問う。男の答えは簡単だった。
「興味がない」
その言葉で完全にノエルはキレた。声にならない怒りが、若いハーフエルフを突き動かす。
腰の剣を抜かず、代わりに拳を握ってノエルは男に切迫した。
それでも男が動かなかったのは、先に別の人間が動いていたからだ。
マントの女性――ノエルの仲間であるはずの彼女が、
ノエルに裏拳を食らわせる。
横っ面を殴り飛ばされ、勢い良くノエルの体が宙に舞う。そのまま床を転がって、その拍子にフードが頭から剥がれてしまい、顔がむき出しになってしまった。
髪の隙間から見える、少し長い耳までもが。
「驚いたな。……お前、ハーフエルフか」
男に嘲るように言われて、ノエルは男を睨みつける。視線だけで殺せそうなくらいの焼け付く殺意。
そんな剣呑な空気が流れる中、マントの少年はじっとコンテナのほうを見つめていた。こんな事態にもかかわらず、肘をついた姿勢を崩さないあたり、彼の肝の据わり方もハンパではない。
少年の視線に気付いておびえるエルフの子供たち。
だけど、その子達の中で唯一押し黙っている少女がいた。前髪からのぞく大きな瞳が、じっとマントの少年を見つめ返している。
恐怖ではない。度胸とかそういうのでもない。ただはっきりとした意志を持っている。それはまるで――王の威厳のような、そんな瞳。
意志の強さを感じさせる青く大きい瞳は――決して曇ってなどいなかった。
「…………」
少年の口元が、かすかにほころぶ。
「ノエル」
名前を呼ばれて、ノエルは口元でにじむ血を袖でぬぐいながら少年のほうを見る。
少年は言った。
「〝商品〟を確認してきてくれない?」
場の空気を読んでいない、おつかいでも頼むような気楽な口調だった。ゆえにノエルは乗り気になれない。
「だけど――」
「ノエル」
再び少年は名前を呼んだ。さっきよりもトーンを落とした声で。
ノエルはその声を知っていた。ノエルにとって少年はボスであり雇用主だ。そして雇用者はその声で話しかけられたときに異議を唱えてはならない。そういう声なのだ。
「…………分かったよ」
しぶしぶノエルは立ち上がる。殴られた横顔をさすりながらコンテナに向かって歩き出した。
すれ違いざま、男がノエルにつぶやく。
「けっして商品に触るなよ? 指一本でも動かしたら――その時はオマエを売り物にしてやる」
嫌悪感を含んだ双瞳で睨み返してやってから、そのままノエルはコンテナの中に入った。扉が閉められる。
「厄介な部下を持ってるな?」
からかうように男は笑う。
「有能な部下もいるよ」
少年はつぶやく。そしてその声に応えるかのように、マントの女はフードをめくり上げた。
フードからあふれる蜜色の髪。癖の無いロングストレートはまるで絹のようにこぼれ出てきて、その隙間から見える顔の目鼻立ちが、改めてこの人は女性なのだと再認識させられる。そして美人だ。
付け加えるならその耳は、ノエルのものと同じ――
「ハーフエルフ。…………お前、ソーニャ・フェルデンか。天馬騎士団の」
天馬騎士団、という名に部下たちがざわざわと騒ぎ出す。当然だろう。裏取引のド真ん中に騎士がいるのだから。
「元・天馬騎士団だ。第一師団第二小隊のな」
錆び付いた声が響く。ソーニャ自身の、感情を押し殺したような声。
男がソーニャの名前を言い当てたのには理由がある。彼女はこの業界ではちょっとした有名人なのだ。彼女が得た二つ名も――
「〝上官殺しのソーニャ〟か。裏の世界にようこそ、と言っておこうか」
皮肉な笑みを浮かべて男は笑った。彼女――ソーニャはいわゆる〝騎士崩れ〟という人種である。罪の意識に耐えられずに日陰に身を堕とした女。
「好きに言え」
軍人めいた口調とともに、彼女は一歩下がる。けっしてノエルのように激昂するような真似はしなかった。
彼女はノエルと決定的に違う部分がある。彼女は、大人なのだ。
「……あんたはこういうのを何も思わないのかい?」
男はヨハンのほうに振り向く。
いきなり話題を吹っかけられた形になるヨハンは、コンテナのほうをしばらく見つめた。たくさんの命が詰まった箱を。これから売り物にされるエルフの子供たちを。
ヨハンは人の命の重さを知っている。彼自身の人生がそれを教えてくれた。
彼にとって命の重さというのは――飴玉を入れる包み紙と同じ程度でしかない。
だから余裕の笑みを浮かべて肩をすくめる。
「さあ? おかげで儲かる」
ヨハンもまた、大人という人種の一人だった。しかしソーニャよりも現実的で、そして利己的だ。人はそれを冷酷と呼ぶ。
薄情とも取れるヨハンの物言いに、男は楽しそうに口端を歪めて言った。
「エゴイストだな」
「エゴイストで結構」
答えたのはヨハンではなく、少年だった。まるで蜘蛛の糸のように、その声は男の耳に絡み付いてきた。
「僕もエゴイストだ」
フードをめくって素顔をさらす。
ソーニャのときと同様に、癖のない長い髪がこぼれ出てくる。だけどこちらは、雪のように白い。
髪だけではない。肌も白く、瞳も灰に近しい白で、雪のようだとも病のようだともとれる。
ただ唇だけが、冗談のように赤い。
少年は腰まで伸びた髪をふるふると揺らして薄く笑う。口の端だけを演技的に歪ませただけのその笑みはひどく不気味で、人間としての印象を感じられなかった。
否。そもそも人間ですらなかった。
頭から生えている羊のように捩れた二本の角。少女と見まがう顔の横半分を、蝶の羽根を模したような仮面が覆っているように見えたが、どうやらそれはプラスティックではなく、自分自身の体の一部らしい。ツメのようなものなのだろう。
そしてその――男が抱いた印象の中で特に異質だったのが――本来なら右目があるべき部分に石がはめ込まれていることだった。蝋燭の炎に照らされて真紅に輝くそれは――宝石か?
聞いたことがある。半人半竜の生命体。片目に宝石眼と呼ばれる魔力を込めた石を宿した――化け物と人間の混血児。
この世あらざるもの――ヴィーヴル。
石の目と人としての眼の両方が、男を見つめてくる。
たったそれだけのことなのに、寿命を削り取られるような圧迫感が男の心臓を握りしめてきた。
寒気がする。まるで悪質な風邪にかかったかのように気分が悪い。
「……気持ち悪ィよ。あんた」
たったそれだけ言い返す。心臓が脈打っているのに、指先だけが冗談のように冷たかった。
くつくつと少年は笑う。まるで男の反応を楽しんでいるかのように。
「そうかなぁ。そうかもね」
言って少年――アクチェ・ヴァルカは無邪気に、そして悪意をこめて微笑んだ。
「さあ、取引の続きをしましょうか」
Special Thanks
ノエル・フライハイト (Noel Freiheit)
考案・デザイン――緋花李さん
ヨハン・ペタルデス(Johan Petaroudes)
考案・デザイン――ヤスヒロさん
皆々様のお子様を貸していただけたことに感謝します。
本当にありがとうございました。