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001.ジークヴァルトの哲学

 それが死体であると気づくのに、ジークヴァルト・アンスヘルムは一分と三十四秒を必要とした。

 かくれんぼの途中。いなくなってしまった妹を探している最中のこと。

 最初はそれが人間だなんて考えもしなかった。赤黒く泥にまみれた肉の塊は小さく、犬か何かの死骸だとさえ思っていた。

 誰かに忘れ去られたかのようにぽつんと転がっている『それ』が妙に気になって、幼いジークは歩を進める。


 心臓が高鳴っているのは、気分が高揚しているからなのかもしれない。子供は善悪の概念モラルが薄い。好奇心のためなら蟻だって平気で潰せる。

 歩む足が砂利を踏み鳴らす。耳を執拗しつように舐めてくる、自分の吐息。

 炭の匂い。火薬の香り。それはここが炭鉱都市であるゆえんだ。今も遠くから、ダイナマイトで発破をかける大人たちの掛け声が聞こえてくる。

 大人たちはモグラのように一心不乱に掘り続け、子供たちはその背中をいて自分たちもモグラになる運命を受け入れる。それがこのエッカルトのルール。トンネルの中で続く輪廻だ。

 それまでの暇つぶしに妹とかくれんぼにいそしみ、こうして死体とめぐり合っている。どうせ父と同じ炭鉱夫になるんだ。その前に未知との遭遇を体験するのも悪くない。いつか酒を飲めるようになったとき、友達に話してみるにはいい話題になるだろう。


 死体に近づくにつれ、それが犬なんかじゃないと分かった。

 肉片は泥や小石やその他のもので汚れていたけれど、確かに人間の肌をしていた。

 細切れた布を全身に張り付かせていて、それは人が着ている服だったのだと分かる。

 眼球が抉られていて、虚ろな穴をさらしていたけれど、それは確かに人の形をしていた。

 手足はかじられ、抉られ、引き千切られていたけれど、ちゃんと二本ずつあった。 


 人の死体を見るのは初めてだ。ましてや、こんな凄惨なものは。

 素手で触る勇気がなくて、ジークは靴のつま先でほんの少しだけこつんと蹴ってみる。――反応はなかった。ジークが蹴った分だけ、わずかに揺れただけ。

 ジークはもう少しだけ近づいて、その死体を調べてみる。

 大きさから見てまだ幼い、年端もいかぬ子供のものだろう。7歳のジークよりも小さい、幼子の。


 泥にまみれて色を失っている粗末な布切れ。肌にも命の色はない。それなのに、裂けた腹からはみ出たはらわたは驚くくらい鮮やかな赤で濡れている。

 気持ち悪い、とジークは思った。何度も死体を蹴りつけながら、思う。

 いったい誰の死体だろう。探鉱都市エッカルトに子供はそういない。いるのは働き者の男ばかりだ。

 知っている限りの友達を頭の中で思い描くが、今見ている死体とは似ても似つかないように思えた。



 と、ここで気づく。


 布切れがジークの記憶の中で知り合いの女の子がはいていたスカートと重なる。そして頭にこびりついている髪も、三つ編みの形に見えなくもない。


 ――女の子?


 頭の中で声がする。うるさい。

 ガラスを引っかくような耳障りな音がする。黙れ。


 よく見ると、頭に髪飾りがはさまれていた。やめろ。

 血とあぶらにまみれているけれど、金色をしていたのだと分かる。それも、わりと高級なものだ。やめて。


 まるで、大人の女性がつけるべきもののような。

 あるいはまるで、ジークの母親が好んでつけていたもののような。


 あるいは、

 あるいは――




 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ



 ――あるいはまるで、ジークの妹が真似をしてつけていたもののような。


 嗚呼。

 ジークは気づく。気づいてしまう。

 これは妹だ。妹なんだ。

 ――妹の死体を、彼は見ている。



 そう気づいてしまった刹那。ジークヴァルトの思考は活動を停止する。

 口をパクパクとさせたまま、その場を後ずさる。

 呼吸が荒い。やがて荒くなり、そして荒くなった。酸素が足りない。

 自分のしたことを思い出して、ジークヴァルトは腰を抜かしてその場に倒れこんだ。


 妹を蹴った。

 何度も蹴った。

 死体を、蹴った。


 脳味噌に何かを突っ込まれているような音が止まらない。まるで虫に脳を食われているような、あるいは指でぐちょぐちょにかき回されているような、そんな感覚がジークヴァルトを狂わせる。

 それは罪悪感のせいかもしれない。恐怖でパニックになっているのかもしれない。


 あるいは――興奮を感じているのかもしれない。




 気持ち悪いと思った。


 いなくなればいいのにと願った。


 それが叶った。



 望んでもないのに!





 ――それは、炭鉱都市エッカルトに魔獣がはびこる20時間前のこと。

 ティル・ナ・ノーグ天馬騎士団長となる男の、人生の転機が訪れる日の話だ。


 この日、ジークヴァルトはある哲学を学んだ。

 人生は暗いトンネルのようで、延々と輪廻が続くものだと思っていたが、それは間違いだ。人生いつどんな形で――望まない形も含んで――変化が起こるか分からない。

 闇しか見えないトンネルの先には、必ず出口がある。 


 そしてその先に見えるのは――もっともっと深い闇なのだ。


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