届かない互いの想い
暗黒の中で、メルは音を探していた。
それは耳で聴く音ではない。魂の奥底で感じる、懐かしくも猛々しい鼓動。
(ルラー? そこに、いるの?)
微かな、本当に微かな震え。自分を探して狂ったように空を駆ける、愛獣の気配だった。
メルは必死に近づこうとする。けれど、体は一指だに動かず、想いは暗黒の中に消えていく。
遥か上空を旋回するルラーもまた、一瞬だけ、風の中にメルの残り香を感じていた。
「――ッ!」
急停止し、空気を引き裂くような鋭い視線で地上を射抜く。今、確かに主の香りが漂っていた。
だが、その微弱な波動は、捉えようとした瞬間に蜃気楼のように霧散してしまう。
場所が特定できない。
あまりにも緻密に、何かが主の存在を遮断しているように感じた。
◇◇◇
ルラーの様子を、山肌に立つ彼女たちは冷ややかに見上げていた。
「しぶとい獣ね。もう、これほど近くまで来ている」
「獣を相手にするのは骨が折れるわ。万が一にも見つかれば、ここで戦うしかないけど……」
背の少し高い方の女が忌々しげに言う。神を封印したとはいえ、その使役獣を真っ向から相手にするのは、彼女たちにとっても相応のリスク。
「獣がいなくなるまで結界を張り続けるしかないわね」
女たちは、美しい指先を地に向けた。
山全体を包み込むように、目に見えない銀の糸が張り巡らされていく。
そして、山全体が薄く白い膜で覆われた。
神の力の残滓、その最後の一粒さえも外に漏らさないための結界。
結界が完成した瞬間、ルラーが感じていた微かな繋がりは、無残にも断ち切られた。
主の香りは届かず、獣の呼び声は山に弾かれる。
その山は神の墓場として、世界から完全に切り離された。
◇◇◇
「おい、何ニヤついておる。大丈夫か?」
谷底で血塗れになりながら、恍惚とした表情を浮かべるレヌンを見つけ、爺さんは声をかけた。
「あんなに激しい愛を、突然ぶつけられるとは……。痛い、痛いけど……最高だ……」
「馬鹿を言うな。あの女たちは人間じゃねぇぞ。バケモンだぞ」
「だよな……。やっぱり……」
レヌンはそこで力尽き、意識を失った。
爺さんはその体を引きずって袋の中に移動させ、悲鳴を上げる自分の腰を叱咤しながら、一歩一歩、山小屋への歩みを進めた。
道中、レヌンは時折、意識の混濁した悲痛な声を漏らしたが、爺さんは構わず傷だらけの男を引きずった。
もうあたりはすっかり真っ暗になっていた。
それでも灯りも付けず、小屋に着くやいなや、爺さんは手の感覚だけでレヌンの服を剥ぎ取る。
そして、古くから伝わる濃い緑色の秘薬を全身に塗りたくった。
乾いたら体に付いた秘薬をキレイに拭き取って、また塗り直す。
それを何日も何日も、爺さんは節々の痛みに顔をしかめながら、その過酷な作業を繰り返した。
◇◇◇
ようやく、レヌンの目に生気が戻った。
「……ありがとう。助かったよ、爺さん」
「礼なら自分の命に言え。……で、お前さんは何をしにこの山へ来たんだ?」
爺さんの問いに、レヌンの脳裏にあの夜の光が鮮明に蘇った。
「そうか、光だ……。あの男が言っていた、空を裂く閃光。爺さん、あんた何か知ってるか?」
爺さんは静かに頷き、その光がどこで、どのあたりで発生したのかを正確に指し示した。だが、同時に首を振る。
「場所はわかってる。だが、この体じゃあ辿り着けねえ。……お前さんなら行けるだろうがな」
当然、レヌンはすぐにでも飛び出すだろう。爺さんはそう踏んでいた。
しかし、返ってきたのは意外な言葉だった。
「いや……今はまだ、下手に手を出すべきじゃない」
レヌンの瞳からは、軽薄さが消えていた。
「彼女たちが何者で、何を隠しているのか。それが分からないうちは動けない」
レヌンは覚悟を決めたように言葉を続ける。
「もし彼女たちを倒して、隠された『何か』を見つけたとしても、彼女たちの代わりが今度は明確に俺達を狙ってくるだけだ」
組織、あるいは背景。その正体が見えない以上、今の自分たちが下手に動いても警戒を強めるだけ。
これまでの魔法使いとしての経験が、レヌンの足を止めていた。
「最近、彼女たちを見ていて気になったのは、しきりに空を見ていたことだ」
爺さんの言葉に、レヌンは窓の外の虚空を見上げた。
二人の目には、そこを狂ったように旋回する神の使役獣が見えていない。
「空、か……。迎えでも来るのか……」
レヌンは独りごちる。
迎えが来るということは、彼女たちがこの山を去るということだ。
「……もう一度、彼女に会いたい」
それは不純な下心か、それとも魔法使いとしての執着か。
レヌンは少しだけ、本気でそう願った。




