天使の警告
その時、天界の異変を誰よりも早く察知し、狂乱のなかにいた者たちがいた。
主である神、メルに仕える使役獣たちだ。
白獣ルラーは、夜の帳が下りる空を切り裂くように舞っていた。
一見すると、白猫を数百倍に巨大化させたような優美な姿。
その本質は、空に足場があるかのように駆け、次元の隙間さえ走り抜ける、人智を超えた存在である。
ルラーは血眼になっていた。
風の中の残香をできるだけ吸い込む。
――いない。
どこを探しても、主の香りは残っていない。
ルラーは時折、何かにすがるように空中で静止した。
微かな吐息すら殺し、全神経を研ぎ澄ませ、メルの気配を感じようとする。
しかし、感じるのは、無機質な風の圧だけ――
完璧な断絶。
いつもそばで感じていた命の灯火が、まるで最初から存在していなかったかのように、完全に消し去られている。
ルラーの喉から、悲痛な鳴き声が漏れ出る。
どうかこの声が主に届いてほしいと細く長く、鳴き続けるのだった。
◇◇◇
天使たちは慎重だった。
封印は成功したが、万が一の綻びも許されない。
人間の女の姿を借り、しばらくの間、山の周辺を監視することにした。
この山に住む住人はあの爺さんだけ。
遠くの山道で彼女たちを見た瞬間、爺さんの背中に薄ら寒いものが走った。
こんな人里離れた場所に、余所者が迷い込むはずがない。また、そもそも、登山に来るようなところでもない。
一度は彼女たちから見つからないうちに通り道を離れようとした。
すぐ脇の茂みに隠れ、通り過ぎるのをじっと待つ――
気づいたのだろうか。片方の女がさっきまで爺さんが居た付近で立ち止まり、周囲を見渡す。
その女と目が合ったような気がした爺さん。覚悟を決め、山菜を探していたふりをしながら、彼女たちに話しかけた。
「お二人さん、こんなところで何をしていなさる」
爺さんは努めて穏やかに声をかけた。
返ってきたのは、毒にも薬にもならない世間話。
しかし、その声には感情の起伏が一切なく、目の前の人間と話していないような不気味さがあった。
爺さんがさらに踏み込もうとした、その時。
背の少し高い方の女が、氷のように冷たい視線を爺さんに向けた。
「お爺さん。このへんは危ないですから、あまり近づかない方が身のためですよ」
それは親切な助言ではなく、明確な拒絶であり、警告だった。
去っていく女たちの背中を見送りながら、爺さんは確信する。
(このへんのことは、あんたらよりもわかっておる。それにしても、ありゃあ、人間じゃねぇな)
◇◇◇
檻のなかで、メルは意識を取り戻していた。
目を開けたのか、閉じているのかさえ分からない。
上下左右も、距離感すらも存在しない、ただ濃密なだけの暗黒。
(……暗い……。どこ、ここ……)
体を動かそうとしても、指先一つ、瞼一つ、びくともしない。
体全体が重い――圧倒的な重圧感。
声を出そうとしても、口を開けず、喉から空気も出せない。
たとえ、ここで喉が裂けるほどの悲鳴を出せたとしても、この神殺しの檻の内側の声は、絶対外には届かない。
そこには静寂しかない。
メルはただ、止まってしまった時間の中で、ゆっくりと絶望に押しつぶされそうになっていた。
◇◇◇
一夜明けても、事態は変わっていなかった。
山肌を這う朝霧の向こうに、昨日と同じ女たちの姿がある。
彼女たちは何かを探すでもなく、ただそこに存在し、山をうろついている。
その足取りは疲れを知らない。周辺の地形でも把握しようとしているのだろうか。
その様子を遠く離れた小屋から見ていた爺さんは、確信を深める。
(間違いない……。何かを隠している……。)
それも、ただの落とし物や内緒事ではない。
あの強烈な光、そして空に消えた白い影。それらと密接に関わる「何か」が、あの山にあるのだ。
彼女たちにはこれ以上聞くことはできない。
せめて閃光が走った場所には行ってみたいが、自分は膝や腰を痛めた孤独な老人だ。
万が一のことを考えると、一人では無理をしたくない。
ただ、見守ることしかできない無力感。
平穏だったはずの山が、不穏な空間へと変わっていく。
爺さんは一見いつもと変わらない山肌を眺めながら、忌々しげに吐き捨てた。
(これ以上関わると、ろくな事にならんかもな……)
その直感が、間もなくこの山にさらなる異物を呼び寄せることになるとは、この時の爺さんはまだ知らない。




