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プロローグ

 王都の外れに佇む大貴族エドウィン家の屋敷は、朝から賑やかな喧騒に包まれていた。広大な庭園では、使用人たちが色とりどりの花を運び込み、噴水の周りにリボンを巻きつける。空は澄み渡り、柔らかな陽光が石畳のテラスを照らし出していた。今日、エドウィン公爵の娘、アリスが七歳の誕生日を迎えるのだ。

 アリスは自室の鏡台の前に座り、侍女のエマに囲まれていた。彼女の小さな手は、膝の上でそわそわと動いていた。金色の巻き毛が肩まで流れ、大きな青い瞳は期待に輝いている。エマが持ってきたドレスは、淡いピンクのシルクで刺繍されたバラの模様が可愛らしいものだった。

 

「どうかしら、アリス様? このドレスなら、きっとお父様もお母様も喜ばれますわよ」

 

 エマの言葉に、アリスは頰を赤らめて頷いた。ドレスを着せてもらい、鏡に映る自分を見つめる。ふわっと広がるスカートが、まるで妖精の羽のようだ。

 

「きれい……私、魔法使いさんみたい!」

 

 アリスはくるりと回り、笑顔を弾けさせた。魔法の才能が発覚して一ヶ月。公爵家に代々受け継がれる血筋が、ようやく花開いたのだ。

 魔法学園への入学が決まり、アリスは毎晩のように夢を見ていた。空を飛ぶ魔法、火を操る呪文……そんな未来が、今日から始まる気がした。

 廊下を駆け下りると、母のイザベラが待っていた。美しい金髪をアップにまとめ、深紅のドレスを纏った公爵夫人。彼女はアリスを抱き上げ、額に優しいキスを落とす。

 

「私の可愛いアリス。今日からお姫様よ。魔法学園で、きっとみんなを驚かせるわね」

 

 イザベラの声は、蜂蜜のように甘く温かかった。アリスは母の胸に顔を埋め、くすくすと笑う。母の香り――ラベンダーとバニラの混ざった匂い――が、心を満たした。

 父、エドウィン公爵は書斎で待っていた。

 厳格な顔立ちの男だが、アリスの前ではいつも柔らかくなる。机の上には、入学祝いの贈り物が置かれていた。小さな銀のペンダントで、中に魔法の結晶が輝いている。

 

「アリス、これをお前のお守りにする。学園で困ったことがあれば、これが助けてくれる」

 

 公爵は誇らしげに言った。アリスは目を丸くし、ペンダントを首にかける。

 

「ありがとう、お父様! 私、がんばるよ!」

 

 公爵は娘の頭を撫で、珍しく笑みを浮かべた。

 

「お前の才能は、この家系の誇りだ。今日のパーティーで、皆にそれを披露してくれ」

 

 パーティーの準備は着々と進んだ。厨房では、巨体のパティシエが三層のケーキを仕上げていた。クリームは新鮮なミルクから絞られ、苺とピスタチオが宝石のように散りばめられている。アリスはこっそり厨房を覗き、試食をねだった。

 

「おいしい! ふわふわだよ!」

 

 小さなスプーンで一口食べ、目を細める。

 パティシエは大笑いし、「お嬢様の笑顔が、一番のデザートですよ」と応じた。

 午後になると、貴族たちが次々と到着した。馬車が門前に並び、華やかなドレスとタキシードが庭を彩る。叔父のローランド卿は、髭を撫でながらアリスに小さな人形を渡した。

 

「これで魔法の練習をしろよ、アリス」

 

 叔母のマーガレットは、宝石のブローチを胸に付け、優雅に微笑む。従兄弟の少年たちは、庭で木剣を振り回し、アリスをからかう。

 

「魔法使いの姫様、僕たちを飛ばしてみせろよ!」

 

 アリスは頰を膨らませ、でも嬉しそうに手を振った。

 日が傾き、パーティーが始まった。テラスに並ぶテーブルには、ローストビーフやエビのグラタン、色鮮やかなサラダが並ぶ。弦楽四重奏が優しいメロディを奏で、子供たちは花火を模した魔法の光で遊ぶ。公爵がグラスを掲げ、スピーチを始めた。

 

「本日、我が娘アリスが七歳を迎え、魔法学園への入学が決まりました。この才能は、エドウィン家の未来を照らす光です。皆さん、乾杯を!」

 

 拍手が沸き、貴族たちがグラスを合わせる。アリスは父の隣で立ち、胸を張った。

 家族の愛情が、周りを温かく包む。母がそっと手を握り、「愛してるわ、アリス」と囁く。この瞬間が、永遠に続けばいいのに――アリスはそう思った。

 

 宴の盛り上がりは、突然の異変で引き裂かれた。夕暮れの空が、急に暗くなった。最初は誰かが冗談を言ったと思った。雲が急に湧き、黒い霧が庭園を覆い始める。

 

「雨か?」

 

 誰かが呟く。だが、それは雨ではなかった。霧の中から、地面が震え、屋敷の壁に異様な音が響いた。ずるり、ずるり――粘つくような、生き物の這う音。

 

「何だ、あれは!?」

 

 叔父のローランドが叫んだ。霧が晴れた瞬間、巨大な触手が現れた。太さは大人の胴体ほど、黒くぬめぬめとした表面に、脈打つ血管のようなものが浮かぶ。触手は黒い霧を纏い、まるで影そのものが実体化したかのようだった。一本、二本……十本以上が、屋敷の壁を突き破り、庭に侵入してきた。

 悲鳴が上がった。最初に狙われたのは、テーブルの端で談笑していた貴族の夫人だった。触手が鞭のようにしなり、彼女の腰に巻きつく。

 

「きゃあっ!」

 

 夫人が叫ぶが、声はすぐに途切れる。触手の表面から、透明な粘液が噴き出し、夫人の肌に染み込む。

 彼女の体が、ゆっくりと萎んでいく。頰の血色が失せ、目が虚ろになり、皮膚が紙のように薄くなる。

 

「生気……吸っている!」

 

 誰かが叫んだ。触手は生気を吸い取り、獲物の命を根こそぎ奪うのだ。夫人は最後に、夫の名を呟き、ぐったりと倒れた。体は干からびた枯れ木のようだった。

 パニックが広がった。貴族たちは逃げ惑い、侍従たちが剣を抜くが、無駄だった。

 触手は次々と標的を選び、巻きつける。従兄弟の一人が、木剣を振り上げて抵抗した。

 

「やめろ、化け物!」

 

 だが、触手は少年の腕を絡め取り、引き裂くように持ち上げる。少年の絶叫が響き、生気が吸い出される。体がしぼみ、目から光が消える。叔母のマーガレットは、ドレスを引きずりながら逃げようとしたが、触手に足を捕らえられた。

 

「助けて……!」

 

 彼女の声は、霧に飲み込まれる。

 アリスの母、イザベラは娘を抱きかかえ、屋敷の中へ逃げようとした。

 

「アリス、こっちよ! お父様が守ってくださるわ!」

 

 だが、公爵のエドウィンが剣を構え、触手を迎え撃つ。

 

「下がれ、イザベラ! 騎士たちを呼べ!」

 

 公爵の剣が触手を斬りつけるが、刃は滑るように弾かれ、傷一つ付かない。触手は公爵の肩に巻きつき、粘液を注入する。

 

「ぐあっ!」

 

 公爵の体が震え、膝をつく。生気が吸われ、威厳ある顔が老人のように皺だらけになる。

 

「父様!」

 

 アリスが叫ぶが、母は必死に娘を庇う。

 イザベラの番が来た。触手が彼女の背後から忍び寄り、優雅なドレスを汚すように巻きつく。

 

「いやっ……アリス、逃げて!」

 

 母の絶叫が、アリスの耳に突き刺さる。触手はイザベラの体を締め上げ、粘液を全身に塗りたくる。彼女の金髪が乱れ、肌が白く透けていく。

 生気が吸い出される音が、かすかに聞こえる――ずずず、という湿った響き。イザベラの瞳がアリスを捉え、最後の力を振り絞って微笑む。

 

「愛してる……私の宝物……」

 

 体がしぼみ、母は地面に崩れ落ちた。美しいドレスは、ただの布切れになった。

 アリスは呆然と立ち尽くしていた。

 周囲は地獄絵図だ。叔父のローランドが剣を振り回すが、触手に絡まれ、抵抗虚しく生気を奪われる。

 

「くそっ……こんな……!」

 

 彼の体が干からび、髭が白く変色する。貴族たちは次々と倒れ、庭は死体の山。霧が血の匂いを濃くし、弦楽の音は悲鳴に掻き消される。アリスは動けない。足が鉛のように重い。心の中で、声が渦巻く。

 

「お母さん……なぜ動けないの? お父様、起きてよ……みんな、笑ってたのに……」

 

 恐怖が体を凍りつかせ、涙が頰を伝う。家族の死を、目の前で目撃する。

 公爵の体は、触手の残骸の下に埋もれ、動かない。母の瞳は空を仰ぎ、永遠の眠りについている。アリスの世界が、崩れ落ちる。なぜ? どうして? 七歳の誕生日が、こんな悪夢になるなんて。

 

 触手たちは宴の残骸を貪り尽くすと、ゆっくりとアリスに視線を向けた。黒い霧が彼女の周りを囲み、逃げ場を塞ぐ。一本の触手が、蛇のように這い寄る。太く、ぬめぬめとしたそれは、アリスの小さな足元に届いた。

 

「……いや……」

 

 アリスは後ずさるが、背中がテーブルの端に当たる。触手は容赦なく、彼女の足首に巻きついた。

 冷たい感触が、足を這い上がる。だが、すぐにそれは変わった。触手の表面から、温かな粘液が分泌される。痛みはない。むしろ、心地よい。まるで温かいお風呂に浸かるような、柔らかな包み込み。

 

「あ……」

 

 アリスは小さく息を漏らす。粘液は肌に染み込み、恐怖を溶かすように広がる。

 体が軽くなり、頭がぼんやりする。触手はゆっくりとアリスの胴体に巻きつき、腕を固定する。生気が、じわじわと吸い出されていく。

 感覚は奇妙だった。温かく、心地よい。母の抱擁のように優しく、でもどこか甘い誘惑がある。

 粘液の匂いが、甘酸っぱく鼻をくすぐる。体内の力が、触手に流れ込む感覚――それは、疲れが取れるような、心地よい眠りへと誘う。

 

「ふわ……気持ちいい……」

 

 アリスの心の声が、かすれる。恐怖が混じるのに、体は抵抗しない。むしろ、寄りかかりたくなる。触手の脈動が、心臓の鼓動と同期するように感じる。生気が失われていくのに、痛みはない。ただ、ゆっくりと、深く、沈んでいく。

 視界がぼやけ、周囲の惨状が遠くなる。母の亡骸、父の剣、散らばるグラス……すべてが霧の中。触手はアリスの首筋に這い上がり、頰を撫でる。粘液が唇に触れ、甘い味が広がる。

 

「お母さん……これ、夢……?」

 

 アリスの意識が薄れ、快楽の波に飲み込まれる。体が浮くような、夢見心地。だが、心の奥底で、鋭い棘が刺さる。

 

 ――これで、終わるの? みんなみたいに?

 

 時間は止まったように感じた。触手は急がず、デザートの最後のひと口を味わうように、アリスの生気を吸い続ける。彼女の金色の髪が、徐々に色を失っていく。陽光のような輝きが、月の光を思わせる白銀に変わる。

 瞳の青が、淡く曇る。体温が下がり、息が浅くなる。もう少しで、アリスも家族の元へ行ける――そんな安堵が、かすかに芽生える。

 だが、突然の轟音が闇を裂いた。屋敷の門が破られ、騎士団の馬蹄が響く。

 

「ここだ! 触手を討て!」

 

 隊長のメイトリクスの声が、霧を切り裂く。銀色の甲冑に身を包んだ騎士たちが、魔法の矢と剣を放つ。触手は悲鳴のような音を上げ、身をよじる。炎の魔法が霧を焼き、雷撃が触手を引き裂く。戦いの喧騒が、アリスの耳に届く。

 触手は最後の抵抗をし、アリスから離れた。粘液が滴り落ち、彼女の体が地面に崩れる。騎士の一人が駆け寄り、アリスを抱き上げる。

 

「生きている! 少女だ、急げ!」

 

 メイトリクスが触手の残党を斬り伏せ、霧を払う。数時間に及ぶ襲撃は、ようやく終わりを告げた。

 アリスは朦朧とした意識の中で、周りを見回した。庭は血と死体の海。母の体は冷たく、父の目は閉じられている。叔父、叔母、従兄弟、貴族たち――誰も動かない。侍女のエマさえ、触手の犠牲者だ。

 

「みんな……死んじゃった……」

 

 絶望が、胸を抉る。白銀の髪が風に揺れ、涙が落ちる。

 七歳の少女は、家族を失い、世界を失った。心の底から、暗い炎が灯る。――この恨み、絶対に忘れない。

 メイトリクスがアリスを抱き上げ、優しく囁く。

 

「もう大丈夫だ、少女。お前は生き延びた」

 

 だが、アリスの瞳は空虚だった。惨劇の夜は、彼女の人生を永遠に変えた。白銀の髪は、復讐の証として輝き始める。

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