ワンコインの誘惑
「どろぼう!」
話しかけた途端に叫ばれたのはこれが初めてのことだった。
濃い化粧の女が睨む。
三十代後半だろうか、ちゃちなブランド品で全身を固めて、今もキャンキャンと吠えている。
「えっ? ち、違う! 俺はただ拾っただけで」
俺の持っていた財布が奪われる。
確かに俺は貧乏で明日の我が身もわからぬ生活を送っているが、他人の財布を盗むほど落ちぶれちゃいない。
「やっぱり、お金抜かれてるわ! 誰か!? 警察!」
財布の中身を確認することなく叫ぶ。ここまで分かりやすい冤罪もなかなかない。
「全く、話になんねぇな……」
こういう奴は何が何でもこっちのせいにしてくる。俺は耳障りな音を発する女を置いてその場を後にした。頭のおかしいブルジョア気取りは無視するに限る。
本当の金持ちというのは、こんなことでいちいち目くじらを立てたりしない。これは持論に過ぎないのだが、素直に感謝を伝えられることがほとんどだと思う。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
立ち去ろうとした俺の腕が掴まれる。
「痛っ」
女のネイルが腕に食い込む。無駄に尖がったネイル。ネコでもこんな伸ばさないぞ。
「逃げようったってそうはいかないわよ。ほら、早く返しなさいよ! 慰謝料! 慰謝料よ!」
無精髭を弄りながら辺りを見回す。幸いここは廃れた商店街。閉じたシャッターと防犯シール以外に、俺達を見ているものはない。
「おい、いい加減にしろよ」
女の胸ぐらをつかむ。前髪をかき上げて睨むと、怯えた顔で見上げてくる。仏は三度まで許してくれるかもしれないが、俺はそこまで温厚じゃない。こういうのは一度痛い目にあわないと治らないものだ。
「俺は盗んでない。むしろ拾ってやったんだ。感謝があってもいいんじゃないか? なのに、これ」
最大級に低い声で凄む。俺の腕に付いた赤い痕。痛みはないが、理由には十分だ。
「慰謝料貰うべきはこっちだよなぁ」
「な、なによ、盗んだのは」
「あぁ?」
「ひっ」
女を宙に持ち上げる。足をどうにか地面に着けようとパタパタと動かすが、足が着くことはない。この現場を見られたら完全に俺が悪者だ。
「わ、わかったわ、ほ、ほら!」
女は財布から五百円玉を取り出して地面に放り投げた。
「慰謝料よ! 渡したんだからさっさと下ろしなさいよ!」
つくづく腹の立つ女だ。
俺は女を投げるようにして下ろす。女は芋虫のようにその場から這いずって逃げ出した。
アスファルトで輝く現代の小判。あの女はクソだが、金に貴賤はない。
俺は五百円玉を拾うと、ボロボロのアパートへ足早に帰った。
翌朝九時に家を出て地方競馬場に向かう。電車を使えばすぐだが、俺の所持金じゃその出費も惜しい。歩いて一時間で着くなら、そちらのほうが良いだろう。
開場と共に中に入る。地方競馬場では珍しく入場料が無料なのがここの良いところだ、軍資金は昨日拾った五百円だけ。これを元手に増やしていく。
「今日の馬は?」
壁に設置された電光掲示板を見る。十二頭の個性的な馬の名前がずらりと並んでいた。
「ふむ、粒揃いだな」
俺は馬に関しては一切詳しくない。チクリと手に刺さる髭を撫でながら頷く。早朝からこうやって呟いてる奴は強そうだろう。俺は形から入るタイプなのだ。
「今日は流石にこいつで決まるだろうな」
横に並んだ大学生くらいの二人組。彼らは掲示板を見ながら話す。俺はスッと彼らの後ろに陣取って盗み聞きをする。
「へぇ、この馬はどうなんだ? 倍率高いけど」
「ヒマラヤンか? そいつは駄目だ駄目。もう光を失った馬だよ。買うならこいつだ」
もう一人が指さした馬の名前はメービルス。腕からちらりと見える金色の腕時計は、大学生が買うのは到底不可能なブランド品。どうやらその観察眼は本物らしい。
「へぇ……じゃあ俺もお前と同じの買おうかな」
大学生たちが居なくなったのを確認して券売機の前に立ち、昨日拾った五百円を取り出す。
先人の、それも実績のありそうな知恵には従うべきだ。べきだが……大学生の言葉がちらつく。
結局、俺が買ったのはメービルスではなく、ヒマラヤン。決してその高倍率に目がくらんだのではない。いうなれば類似性バイアス。似た者同士なその境遇に自身を重ねてしまったからだ。
観客もまばらなレース場。馬券片手にぼーっと、馬の居ないレーンを眺める。
「あんちゃんヒマラヤン買ったんかい? ギャンブラーだねぇ」
俺の馬券を覗く知らないおっちゃん。隣からすえた臭いが漂う。髪も服もボロボロで、相当に凄惨な人生を歩んできたのだろう。
「いーや、今日はこいつが来る」
俺はあえて自信満々に言い切った。無論、根拠などない。
「あんちゃんそりゃねぇよ。他の日なら百歩譲ってもいいが、今日は中央上がりのメービルスが居るんだ。勝ち目ねぇって」
またメービウスだ。この短時間で二度目の往来、やはり相当に強い馬なのが窺える。
「俺が来るってんだから、来るんだよ」
自信満々に言い切ると、おっちゃんはガハハと笑って俺の背中を叩く。
「そりゃいい。終わったら競馬のやり方っつーのを教えてやるよ」
「どうもおはようございます」
逆側からやって来たおっさん。この時間帯には不自然なスーツ姿で、手には焼き鳥を三本抱えている。当然、このおっさんも他人だ。
「今日はどれがきますかね?」
「断然メービルス一択よ」
「やはりそうですか」
俺を挟んで会話を始める。食べ物と汗の臭い。混ざり合った異臭に吐き気がする。
「そうだ、このあんちゃんヒマラヤンに賭けたんだとよ」
「えぇ!? あのヒマラヤンですか? あぁ、推しというやつですか?」
勝手に納得して頷くおっさん。
「んだよ、俺はこいつを信じてんだ」
若干不貞腐れて呟く。ヒマラヤンを批評されるたび、俺が否定されている気分になる。
「いやいや、確かに昔は名馬だったがよぉ」
おっちゃんはため息を吐く。
「怪我をしたんですよ。全盛期に」
おっちゃんの言葉に補足するおっさん。焼き鳥を一口食べて、話を続けた。
「幸い怪我は治ったのですが、本気で走れなくなってしまいましてね。なのにプライドだけは高いもんですから……」
「それでも今日はこいつがくるって分かるんだ。つーことだから、当たったら奢ってやるから焼き鳥一本くれ」
俺は返事を聞かずに焼き鳥を一本取る。残った一本もおっちゃんに奪われていた。
「うん。うまい」
「まったく……私が当たらなかったら、奢ってもらいますからね」
『もう間もなく、第一レース始まります』
アナウンスが鳴った。串をおっさんの皿に放って、コースに視線を戻す。出場馬はすでに待機しており、まばらだった客席も満員だ。
「ヒマラヤンはどれだ?」
「一番手前の白毛だな」
スラリとした白馬。堂々と前を向いており、高嶺の花を思わせる立ち居振る舞い。とても弱いとは思えない。
「へぇ、あれが? 強そうだが」
「態度だけはな」
「裸の女王ともいわれてますね」
この場の誰もが、あの高飛車な馬の負けを確信している。
「こりゃ、今日こそは勝ってもらわねぇとだな」
あれはもう十年以上前の事。今でも鮮明に思い出せる。
俺が大手企業の営業でバリバリに働いていたころ。得意先を怒らせて、大口の契約を一方的に切られた。
『なんだその態度は! こんな態度の奴の会社などと契約はもうごめんだ!』
下っ腹の肥えたハゲおやじが、唾を撒き散らしながら俺に言った。たった一言で商談がお釈迦となった。
その日を境に俺の人生は転落の一途を辿った。出世街道から一転。呆気なくクビを切られた。
転職しようにも就職氷河期真っ只中。大手企業の営業で数多の社長相手に渡り歩いてきた過去が捨てられず、無駄に高いプライドが邪魔をして会社を選り好みし、今ではこの体たらくだ。
プライドだけは一丁前。似たもの同士なヒマラヤンに、俺は完全に入れ込んでいた。
「行けー!」
レースが始まった。隣でおっちゃんが叫ぶ。動く度におっさんの悪臭が漂う。
レース場が一気に喧騒に包まれた。老若男女問わず入り混じった歓声があがる。
「っしゃそのままぶっちぎれ! メービルス!」
先頭に躍り出たのは、吸い込まれるほどに艶やかな黒馬。
あれがメービルスか。確かに勝ちそうな雰囲気を出している。一方、俺の全財産をぶち込んだヒマラヤンは…………。
「ヒマラヤン! 頑張れ!」
後ろで一人、優雅に走っていた。明らかに手を抜いている。もう先頭との距離がだいぶ開いてしまった。
それは未来を諦め、怯えた者の防衛本能。最初から諦めてしまえば、これ以上傷つくことはないのだから。
甘美な破滅の道、決して正しい選択ではない。
「おい! 諦めるなよ! お前が本気出せばいけるって! 馬鹿にされたままで終わるなよ!」
俺はヒマラヤンに叫ぶ。
気付けばレースに勝ってほしい気持ちより、もう諦めてしまった自身を写し、立ち上がれ、俺達を馬鹿にするな。まだ返り咲けるという気持ちに変わっていた。
「いけ! 頑張れ! ヒマラヤン!」
先頭集団が前を通り、突風が吹き荒ぶ。
ヒマラヤンが前を通るころには、他の馬はとうに過ぎ去っていた、
他の観客は先頭のメービルスに釘付けだ。もう誰もヒマラヤンのことなど、一度消えた奴のことなど見ていない。
ヒマラヤンを見ているのは俺だけだ。
「行け! ヒマラヤン!」
チラリとヒマラヤンが俺を見た気がした。
ヒマラヤンの速度が上がっていく。少しずつ、踏み締めて、確かめるみたいにスピードが上がっていく。気付けば凄まじい速度で駆け始めていた。
「そうだ! 行け行け行け行け! 魅せてやれ!」
ヒマラヤンはグングンと速度を上げていく。一頭、二頭と追い抜き、ついに先頭集団に躍り出た。
「え、ヒマラヤン!?」
「嘘だろ!?」
先頭に頭一つ飛び出したのは、メービルスとヒマラヤンの二頭。
ヒマラヤンのスピードはまだまだ落ちない。
「行け行け行け! 勝て!」
レースは終盤。騒がしかった辺りの音が耳から遠ざかる。残すは長い一直線のみ。
メービルスとヒマラヤンの一騎打ち。ヒマラヤンはただ我武者羅に、カッコよさも優雅さも、何もかもをかなぐり捨てて本能のまま走る。それに感化されてかメービルスも速くなる。
ゴールが近付く。二頭は完全に拮抗し真横に並んだ。
『ゴーーーール!』
大音量でアナウンスが流れる。
周りの音が濁流となって耳に流れ込んできた。俺は呼吸も忘れ、ただじっと事の結末を祈る。
二頭のゴールは同時。ここからではどちらが勝ったか分からない。
『一着は……ヒマラヤン! ヒマラヤンです!』
「っしゃあああああ!!!!」
俺は思い切り腕を振り上げて叫んだ。
決して俺が何かを成したわけではない。それでもどうしようもなく、無性に叫びたくなるくらいにただただ嬉しいのだ。
「嘘だろ……メービルスがヒマラヤンに、負けた?」
隣でおっちゃんが力なく崩れ落ちる。会場のあちこちで絶叫と怒号が響く。
「流石にこれは……開いた口が塞がらないですね」
焼き鳥を持ったおっさんが乾いた笑いを浮かべる。その目は見開かれ、虚空を見ていた。
「な、言っただろ? 今日はこいつが勝つってな!」
俺は高らかに笑った。これぞ大逆転。何が下馬評だ。実力を出せばこんなもんよ!
「くっそーこんのビギナーズラックがぁ」
「ありがとなー! ヒマラヤン! お前が最強だ!」
ゴールしたヒマラヤンが悠々と歩いて戻ってくる。その顔は満足感と達成感に満ちていた。
「お、おぉ、俺の十六万……」
「ドンマイ。約束通り奢ってやるから一緒に換金行くぞ」
俺は浮かれ気分のまま二人の腕を掴んで、いまだ阿鼻叫喚の場内を縫うようにして進んだ。
「おいおい、最高だなぁ」
六万五千円。凄まじい高倍率の配当に、思わず口角が上がってしまう。
「こんな万馬券。初めて見ましたよ」
「おいおいおい、奢ってくれるんだったよなぁ」
おっちゃんの腕がガッと首に回される。顔を汗の臭いが襲う。本当にやめてほしい。
「分かった分かった。ただ一回銭湯行くぞ。隅々まで洗ったる」
向かったのは近場の銭湯。昔ながらの番台に座るおばちゃんに金を渡して入る。平日の昼というのもあり、他に人はいない。
「おっちゃん前に風呂入ったのいつだよ」
タオルにボディソープをたっぷり出しておっちゃんを洗う。タオルは一瞬で黒ずみ、床がドロドロになる度にシャワーで流す。平日で誰も居なくて良かった。場合によっては追い出されてただろう。
「ふぅ、ざっとこんなもんか?」
二人掛かりで髪と身体を何度も洗ってようやく元の、黒ずんでない肌の色に戻った。
湯船に三人、横並びになって浸かる。洗い終えた達成感で、温かい湯が一入身に染みる。
綺麗に洗ったお陰で、ぼさぼさと脂ぎっていた髪は艶やかに、砂と埃で汚れた肌も本来の血色を取り戻していた。
「ありがとな二人とも。なんか逆に落ちつかねぇが」
「いいんだよ。これでうまい飯が食えるってもんだ」
「えぇ、人間助け合いが大事ですよ」
「お前ら……」
おっちゃんは感極まって、静かに泣き出した。
「おいおい、どうしたんだよ」
「俺の人生。クソだクソだと思ってたが、お前らみたいないい奴らに会えるなんて……まだ捨てたもんじゃねぇなと思ったら自然によ」
「大袈裟だなぁ。この位普通だろ」
大人の号泣はどうにもむず痒い。俺は普段より気持ち早く湯を上がった。
「ふぅ、さっぱりしたな……って、クサッ」
着替えに出ると、隣からまたあの臭いがする。おっちゃんはまだ湯船の中。
籠だ、籠に入った服から臭いが出ている。これを着たら頑張って洗った意味が泡となる。
「別に大丈夫じゃないか? そんな臭わんだろ」
出てきたおっちゃんが服を着ようとする。
「あー着るな着るな! もう! ここ服売って……る訳無いよな! ちょ、おい、おっさん! 隣服屋だったよな! これで服買ってきてくれ!」
俺は裸のままで、服を着ようとするおっちゃんを止めると、先にスーツに着替えたおっさんに数万握らせた。
「えぇ、私も無駄骨はごめんですからね」
せっかく温まった体を、心から冷やしていくのは本当にやめてほしい。
「こんなので良いでしょうか? こちらおつりとレシートです」
買ってきたのは、おっさんらしいセンスの灰色のジャージとトランクス。
「おぉ、新品の服だ」
「良いじゃねぇか、やっと一般人に昇格だな」
待ってる間に着替え終えた俺は、自分の髭を剃るついでにおっちゃんの髭を剃っていた。髭のなくなったおっちゃんは、ジャージを着れば、もうどこにでも居る普通のおじさんだ。
「こんな、変わるんだな……なんか、懐かしいな」
鏡の前でじっと自分を眺めるおっさん。
「なんだ、おっさんにも小綺麗だった時期があったのか?」
瓶に入った牛乳を自販機で購入して二人に渡し、自分の分の蓋を開けて飲む。
「おう、こう見えて昔は妻も娘も居たんだぜ」
「グフッゲホッま、マジかよ」
思わず牛乳を吹き出す。おっさんは懐かしそうに牛乳を飲み干す。その眼は鏡を通して過去を見ているようだった。
「二人とも可愛くてなぁ、娘なんかお父さんお父さんって後ろを着いて来てな……ま、離婚して、今はこんなだが」
「……俺ら、どこで間違えたんだろうかね」
三人とも黙る。しんみりとした空気に耐えきれず、俺は手を叩いて静寂を飛ばす。
「とりあえず飯行こうぜ! 今日は俺の奢りだ!」
「おう!」
「行きましょうか」
あからさまな空元気。それでも二人は何も言わずに賛同してくれた。その優しさが今はとてもありがたかった。
「いらっしゃっせー!」
個室の席に通された俺達は、メニューから酒とつまみを片っ端から注文していく。枝豆、から揚げ、つくねにぼんじりビール。どれも久々に食べる。
「そんじゃ、ヒマラヤンの勝利に、乾杯!」
「乾杯!」
俺たちはビールを一気に飲み干す。きゅっと締め付ける喉越しが最高だ。
「にしても、今日のレースは凄まじかったですねぇ」
「あぁ、あんなレース十年に一度あるかどうかだな」
「俺は信じてたがな」
届いた側から食べて呑んでいく。会計なんて気にしない。今日の俺は太っ腹なのだ。
「そういや、おっちゃんはなんで離婚したんだ?」
「痴漢だよ」
唐揚げを口に放り込むおっちゃん。酒でそれを流し込むとぽつりと呟いた。
「痴漢? 犯罪じゃねぇか」
「冤罪だ冤罪。痴漢冤罪ってやつだよ。聞いたことあんだろ?」
「なんだよ。冤罪なら問題ないじゃねぇか、なんで別れたんだ?」
「最悪の冤罪だったのさ。突然、女子高校生に手を掴まれて痴漢です! ってな」
ジョッキがダンッと机に叩かれる。
「容疑の時点で実名報道。家にマスコミは来るわ、仕事はクビになるわで。その時にそのまま離婚。まったく、反吐が出る」
呂律が回らないおっちゃん。だが、そのやるせない怒りは俺の共感を揺さぶるには十分だった。
「分かる。分かるぜ。この世はクソだよな」
俺はおっちゃんと肩を組む。気付けば年来の友人のように意気投合していた。
「俺もクソみたな理由で会社クビになったからよ」
俺達は二人揃って酒を一気飲みする。
「おい! おまえは、なんかねぇのかよ!」
酔いが完全に回り、呂律も回らない口でおっさんを指差す。
「私ですか。黒歴史と呼べるものは、一つしか思い当たらないのですが、あ、ワイン一つ」
おっさんはまだ酔いが回ってないのか、店員に注文する。
「あんじゃねぇか! 言ってみろよ!」
おっさんはスーツのポケットから名刺を取り出した。
「んぅ?」
簡素な作りの名刺。おっさんの名前と、職業だけが書いてある。
「べ、弁護士?」
「えぇ、お二人とも、もし、どうしようもなくなりましたら、是非ご連絡下さい」
おっさんは微笑んで酒を飲む。それは強者の風格。余裕がある者の態度だ。
「おいおい、一人だけ逃げようったってそうはいけねぇ、それとは別に、過去のお話しようぜ?」
顔が真っ赤に染まったおっちゃんがだる絡みする。
「そうだそうだ、弁護士様の黒歴史聞きてえなぁ」
「……これは誰にも話してないんですがね」
おっさんはちょうど届いたワインを一口飲むと、ぽつりと話し出した。
「私、高校生の頃イジメられてたんですよ。無視や暴力は当然。カツアゲとか、身ぐるみ剥がされた写真が全校に張り出されたりもしましたね。あれは辛かったです」
俺もおっちゃんも思わず黙る。店員の声だけが個室の外から聞こえる。騒がしいはずの居酒屋で、ここだけが静寂に包まれていた。
「その時に私を救ってくれたのがとある弁護士だったんですよ。私の代わりにいじめっ子を相手に猛奮闘してくれましてね」
俺達は勘違いしていた。弁護士なんて職に就いてる奴の過去なんて、どうせ順風満帆でなんの問題もない人生なんだと。
そんな訳ないんだ。羨むだけで理解しようとしていなかった。人それぞれ大なり小なり辛い事があって、それでも皆、馬鹿みたいに本気で頑張ってるんだ。
「それで私は弁護士に、単純ですけどね」
小恥ずかしそうに笑うおっさん。そんな辛いことがあってもそれを糧に頑張れるのは、すこし羨ましい。
「ラストオーダーでーす」
やる気のなさげな店員が扉を開ける。俺たちはふっと緩んだ空気に笑って、最後に全員で一杯ずつ頼んだ。
「この出会いと、ヒマラヤンに乾杯!」
「乾杯!」
一気に飲み干す。嫌な思い出も、この複雑な気持ちも全て酒で流すのだ。
「それでは、私は彼を送っていくので」
居酒屋の前で別れる。おっちゃんは完全に酔い潰れて眠ってしまって、おっさんの背中で眠っている。
俺は二人の背中が見えなくなるまでその場で見送ると、ふらつく足をどうにか進めて帰る。火照った頬に当たる風が冷たくて気持ちいい。
眉間が痺れる感覚と、全身の倦怠感。チカチカと光る街灯の下。俺の手元がキラリと光った。
手の中には五百円。銭湯に服、悪銭身に付かず。居酒屋の会計で綺麗になくなってしまった。
明日も競馬をすれば当たるかと言えば、そんな保証はない。仮に当たったとしても、そんな人生はこりごりだ。これが俺にとって最後のプライド。俺自身の手で金を稼ぐのだ。
「……履歴書。買うか」
俺は踵を返す。カンカンと鳴る踏切を横切って、駅前のコンビニへと向かった。この時間でも明るい店内。俺は履歴書とボールペンを籠に詰めてレジに向かった。