ハヤと瑠歌
この世界には2種類の人がいる。
獣人と人間。
獣人はウサギやクマやライオンや。見た目は動物そのものだけど、人間と同じように二足歩行をし、人間と同じように学び、遊び、生活をしている。
昔々、愛を我慢することが出来なかった1匹の動物と1人の人間がいた。
それが獣人の始まりなのだと言う。
名前も顔も姿も知らない。
その誰かさんのことを俺は恨んでいる。
その時、我慢していてくれたなら、俺はこんな姿で生まれなかったのにと。
鳴川ハヤテ。16歳。
狼の獣人である父と人間の母の間に俺は生まれた。
母に似れば良かったのだが、人間よりも獣人の血の方が強いらしく、父そっくりの姿になった。
周囲の音がよく聞こえるピンと立った耳。
眼光鋭い青い瞳。
些細な匂いも感じる尖った鼻に口から覗く尖った牙。
身体は灰色の毛に覆われて、手は人間のものだけど、そこから生える爪は鋭く尖っている。
人間よりひとまわり大きい身体は力が強すぎて色んなものをすぐに壊してしまう。俺はこんな自分がとても嫌いだ。
それなのに──。
「ハヤくん、好きです! 付き合って下さい!」
高校のクラスメイト、遠藤 瑠歌。
黒髪のアップにされた編み込み。150㎝の小柄で細い身体。
通学途中。
俺を待ち構えていた彼女は制服の若草色のワンピースを翻して、今日も全力で愛を伝えてくる。
俺はチラリと彼女を見ると言った。
「無理……」
「なんでですか! こんなに一生懸命、愛を伝えているのに!」
歩きながら続く会話。
「何度も言うけど俺なんかじゃなくて、もっと君にふさわしい人を選びなよ」
「ふさわしい人って何ですか? 私にとってはハヤくんがこの世界で一番なんです!」
「そもそも俺なんかのどこがいいの」
「え、何を言ってるんですか。青色の瞳も通った鼻筋も綺麗で、灰色の毛並みは思わず触りたくなるんです。大きくてすらりとした手を握りたいと思うし、たくましい身体に抱きしめられたいと思うんです」
「……一回、眼科行った方がいいよ?」
「視力は両目2.0です! それになによりハヤくんは──」
そこで区切られる言葉。俺は「ん?」と彼女を見る。
彼女は愛しそうに微笑む。
「ハヤくんはとても優しい人です」
息を呑む。
顔が熱くなるのを堪えながら目を逸らす。
「君は何も分かってないよ」
俺は逃げるように校門に駆け込んでいく。
教室。
自分の机に辿り着いた俺は突っ伏す。
心の中で叫ぶ。
ああ、可愛い!
正直に言おう。
俺は遠藤 瑠歌が好きだ。
つまり俺たちは両思いということになる。
それなら、どうして告白を受け入れないかと言うと、さっきも言った通り彼女にふさわしくないからだ。
君のことは好きだけど、君を幸せにする自信が俺にはない。
ピクリと鼻が動く。
彼女の匂いが近付いてくる。
「ハヤくん、怒ってますか?」
しょんぼりとした声。
「…………」
俺は突っ伏したまま黙っている。
「私のこと、嫌いですか?」
「嫌い、ではない」
嫌いと言えたらどんなに楽だろう。
でも、そんなこと絶対に言えない。
チラリと彼女を見ると嬉しそうな顔をしていて。
「嫌いじゃないならいいです」
ほら、そんな風に笑うから。
俺は君を嫌いになんてなれないんだよ。
出会ったのは高校の入学式。
通学路の途中。道の端で座り込んでいる彼女を見つけた。
不思議なことにたくさんの人がいるのに、彼女に声を掛ける人は誰もいなかった。
俺は駆け寄ると声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
顔を上げた彼女は何かに耐えるように唇を噛んでいて。俺の姿を見て驚いた顔をした。
それもそうだろう。
今やこの世界に獣人がいるのが普通になったとは言え、怖いものは怖い。当たり前の反応だ。
「あ、ごめん。俺が怖いなら他の人を呼ぶから。伝えたいこと、教えてもらえますか?」
助けることが出来ないなら誰かに伝える役目を担おう。そう思った。
彼女はパチリと瞬きをするとふるふると横に首を振った。
「怖く、ないです。ごめんなさい。あの、転んだ時に足首を捻ったみたいで。痛くて歩けなくて……」
見ると彼女の膝からは血が出ていて、右足首を押さえていた。
痛そう……。
思わず顔をしかめてしまった。
彼女は何を勘違いしたのか慌て始めた。
「あ、大丈夫です。こんなこと言われても迷惑ですよね。自分で何とかするので行って下さい」
たぶん俺が声を掛けるまで、この子はたくさん悩んだんだろうなと思った。
痛いけど、助けて欲しいけど、迷惑かけたくなくて。自分の不幸に誰かを巻き込みたくなかったんだろう。
さて、どうするべきか。
考えた結果、出した結論。
「俺が運びましょうか?」
「え?」
「いや、考えたんですけど、とりあえず俺があなたを学校まで運ぶのが一番かなと」
「いや、でも、私、重いですし」
「重い? ちょっと失礼」
俺はスッと彼女の膝裏に手を入れるとヒョイッと持ち上げた。
「めちゃくちゃ軽いですけど」
正直な感想を言うと彼女の顔がまっ赤になった。
「すみません、持ち上げたついでに学校まで行きますね。あ、荷物、これですか?」
怪我の治療は早いほうがいいだろう。彼女がまた悩む前にとテキパキと勝手に話を進めて学校に向かうことにした。
彼女はぼんやりと俺を見つめていた。
その後、保健室に無事に送り届けると彼女に言われた。
「あの、お名前は?」
名乗るほどのものではございません──なんて言いたいところだけど、格好付けすぎなので素直に名乗っておいた。
「鳴川ハヤテです」
「鳴川ハヤテくん……。その名前、一生忘れません」
「また大げさな」と思ったが、これが全然大げさではなかった。
次の日から彼女の猛アタックが始まった。
一緒のクラスと知ったときの彼女の喜びようと言ったら。興奮で死ぬんじゃないかと思ったほどだ。
それからハヤくんハヤくんと近寄ってきて、何度も告白されて。
最初はただ困っているだけだったけど、段々と彼女に惹かれていった。
コロコロと変わる表情。ちょっとした俺の言動で喜んで落ち込んで。
気付くとそこに愛しさがあった。
ただひとつ問題があった。
彼女のことを大切だと思えば思うほど、触れることが怖くなった。
例えばその手を繋いだらどうなるだろうと考えて、その手を壊す映像が浮かぶ。
例えばその頬を撫でたらどうなるだろうと考えて、その頬を傷つける映像が浮かぶ。
例えばその身体を抱きしめたらどうなるだろうと考えて、その身体を潰す映像が浮かぶ。
最初はあんなにも簡単に抱き上げることが出来たのに。
好きになればなるほどに臆病になっていった。
「はい、お前ら、席につけ~」
ライオンの獣人である担任の先生が入ってきて、ニコニコしていた彼女は慌てて自分の席に行く。
少し寂しそうにこちらを見る。
あいうえお順の出席番号で決まっている席。
右端の前から3番目が彼女の席。真ん中の前から5番目が俺の席。
名字の「え」と「な」
なぜ私は「な」行の名前に生まれなかったのかと嘆いていたことを思い出す。
けど、今の俺にとってはこの距離が有り難い。
ほっとしていると、出席をとろうとした担任が言った。
「あ、そうだ。今日のロングホームルームは席替えするからな。楽しみにしておけよ」
え?
唖然としている俺を置いてけぼりにして教室は沸く。
彼女を見ると目をキラキラさせていた。
あ、祈り始めた。めちゃくちゃ祈り始めた。
俺は頭を抱え始めた。
嫌な予感がする。めちゃくちゃ嫌な予感がする。
そして、ロングホームルーム。
「ハヤくん……!」
机を持ちながら歓喜に震える彼女。
「はい……」
机を持ちながらうなだれる俺。
「神様に一生のお願いをしただけありました!」
「こんなことに一生のお願い使わない方がいいと思うよ……」
お互いに置く机。隣通しの席。左端の最後列。
彼女はニコニコしながらくじ引きを見つめる。
「このくじ引きは宝物にします」
「…………」
またそんな可愛いことを言う。
そっぽを向く。
唯一の救いは俺の席が窓側であること。
感情を誤魔化すように外を見る。
窓ガラスにはこちらを見る彼女がうっすら映っていて。
嬉しそうで幸せそうで。
何だか堪らない気持ちになった。
「ハヤくん、好きですよ」
「うるさいよ……」
どんなに感情を押さえつけようとこの耳は君の声の方を向く。
「今日は一緒に帰りましょうね」
「帰らないよ」
勝手な約束。いつものこと。
チャイムが鳴る。
ロングホームルームが終わる。
それから掃除が終わって、ショートホームルームが終わって。日誌を先生に送り届けて。先生の用事に付き合わされて。
教室に戻ると彼女が机で眠っていた。
他に誰もいない教室。
すやすやと気持ちよさそうに寝息をたてながら。
帰らないって言ってるのに……。
近寄るとその手に席替えのくじ引きが握られていた。
たぶん、これ、見つめながら待ってたんだろうな。
手が伸びる。
くじ引きに触れようとして、ふと寝顔に目がいく。
もしも、この頬を撫でたなら……。
伸びる指先。
もう少し。
「ハヤくん……?」
「!」
呼ばれて身体が跳ねた。
途端、
「痛っ」
彼女の声がした。
あ。
彼女の右頬。
一筋の赤い線が横に走った。
指先を見る。
右手の中指。
爪先に血が付いていた。
彼女の、血。
傷付けた。
今まで想像していた映像が、現実のものになってしまった。
「あ……」
血の気が引く。
「ハヤくん?」
自分の頬に触れながら、ぼんやりとこちらを見る彼女。
「ごめん!」
耐えられなくなって俺はその場から逃げ出した。
「ハヤくん!」
後ろから俺を呼ぶ声がした。
「おかえりなさ……」
家に帰った俺は母さんに「ただいま」も言わず自分の部屋に駆け込んだ。
荒い呼吸。
震える右手。
彼女の血が付いている中指の爪。
奥歯を噛みしめると机の上の爪切りを手に取る。
パチン。パチン。
爪を切る音が響く。
尖った爪が転がる。
丸くなった爪。
じっと見つめていると爪が小さく揺れて、また尖った爪が生えてくる。
「……くそっ」
呻く。
いつもそうだ。
何度切っても生えてくる。
どんなに嫌いでも捨てることなど出来やしない。
うなだれているとノックの音がした。
控えめに扉が開く。
「ハヤテ、どうした?」
気遣うような声。
俺は泣きそうになりながら振り返った。
抱えきることが出来なくて母さんに話をした。
母さんは黙って俺の話を聞いた。
「なるほどね……」
全ての話を聞き終えてポツリとそう言った。
「俺、もうこんな自分、嫌だ。好きな人を傷付けることしか出来ない」
「……その子は本当に傷付いたのかしら」
「え?」
母さんはまっすぐに俺の目を見て言った。
「その子に聞いてみたの? あなたのことが怖いか。あなたに傷付けられたか」
「そんなの聞いてみなくたって……」
「どうして聞いてもいないのに分かるの。あなたはその子じゃないのに」
「だって……」
「あなたのそれは優しいんじゃなくて、ただ臆病なだけよ。怪我をさせたならもう一度ちゃんと謝りなさい。そして、その子の気持ちを聞きなさい。勝手に推測されて距離をとられたらたまったもんじゃないわ」
「……何でそんなことが言えるの」
あまりに断定的な答えに尋ねると母さんは言った。
「分かるわよ。その子はかつての私だもの。あなたたち、昔の私とお父さんにそっくりよ」
そう言っておかしそうに笑った。
次の日。
俺は君の姿を探しながら通学路を歩いた。
鼻がピクリと鳴る。
君の匂いがする。
見ると遠くに彼女の姿が見えた。
「あ、」
こちらに気付いた彼女が小さく声をあげる。全力で走ってくる。
「ハヤくん!」
近寄ってくる彼女の右頬にはバンソウコウが貼られていた。
昨日の光景が思い浮かんで身体がすくむ。
謝らなきゃ。
目の前に来た彼女に言おうとする。
「ごめ、」
「これ見てください!」
でも、その声は彼女の声にかき消された。
「え、」
キョトンとする俺に彼女は頬のバンソウコウを指差す。
「このバンソウコウ、可愛くないですか!」
指先にある水玉模様のバンソウコウ。
驚く俺に彼女は笑う。
「お気に入りのバンソウコウなんです。ハヤくんのおかげで貼ることが出来ました。ありがとうございます」
ああ、君は本当に──
胸がいっぱいになりながら尋ねる。
「俺のこと、怖くないの?」
彼女はまっすぐに俺の目を見つめて言う。
「私を勝手に弱いものにしないでください。私、こんなことじゃちっとも傷付きません」
ああ、君は本当に──
ああ、俺は本当に──
「君のことが好きだよ」
耐えきれずこぼれる想い。
「え、」
彼女は大きく目を見開いて固まった。
そのまま何かに気付いたように両手で耳を塞ぐ。
「え、」
今度は俺が固まってしまう。
きょ、拒絶?
彼女は言う。
「こんなに大切な言葉、逃げていかないようにちゃんと捕まえておかないと」
まっ赤な顔で。今にも泣き出しそうな顔で。
今まで何があっても泣かなかったのにそんな顔をする。
俺は愛しくて笑ってしまう。
彼女はますます泣きそうな顔になった。
「ハヤくんが笑ってる。これはどうやって保存したらいいですか?」
俺は言う。
「保存なんてしなくていいよ。これからたくさんあふれると思うから」
昔々、愛を我慢することが出来なかった1匹の動物と1人の人間がいた。
それが獣人の始まりなのだと言う。
名前も顔も姿も知らない。
その誰かさんのことを俺は恨んでいた。
その時、我慢していてくれたなら、俺はこんな姿で生まれなかったのにと。
でも、手の繋ぎ方も撫で方も抱きしめ方も。
今はまだ分からないけれど、これから君と一緒に覚えていこう。
それはとても怖いことだけれど、初めても最後も君がいいと思うから。
今なら分かる気がするんだ。
愛を我慢できなかった1匹と1人の気持ちが。