5.幕間-1
――私が地獄を自覚したのは、いつの頃だっただろうか。
知らない子供たちから虐められているのを、母親から無視された時でしょうか?
可愛がっていた猫を、兄妹たちに蹴り殺された時でしょうか?
それとも家族が笑いながら食卓を囲んでいる間、物置小屋の中で固いパンを齧っている時?
いいえ、いいえ。……いいえ。
多分私は、物心のつく前から、私は、私の人生がどうしようもないものであると既に悟っていました。
それはまるで、翼を持たずに生まれた鳥のようなもの。
醜い醜い、不恰好な翼のない子。
他の皆がやっているように、自分も羽ばたいて飛んでいきたいのに、羽ばたくための翼が無いから地面を這うしかないのです。
翼を持たない鳥は不幸なのでしょう。笑われて、馬鹿にされて、たった一つの引き算で生まれてから死ぬまでの間、当たり前の幸せを味わえないまま終わるのです。
鳥はこう思うのでしょう。なぜ自分には翼が無いのだろう? なぜ自分は仲間と違っているのだろう? どうして自分は、他と違って生まれてしまったのだろう?
鳥は思うのです。仲間たちのように、自分も思いっきり翼を広げて風に乗って、あの大空を飛んでみたいと。
自分にも翼があれば、きっとそれができるのにと思うのです。
いいえ、いいえ。いいえ。
鳥はそれでも幸せでしょう。まだ諦めがつくのです。
これが無いから、あれが無いから、あれがあったら、あれがあれば自分だって。自分は欠けて生まれたから仕方ないんだって、理由を付けて大空を眺めることができるのです。
……ねえ、どうして私はこんななの?
私とあなたたちの、何が違っていると言うの?
兄妹たちに殴られながら、私は自分と彼らを見比べる。
けれど、いくら見比べても体の造形は何も変わりません。何も変わらないのです。私の体には異形なんてありません、欠損なんてありません。
同じです、みんなと同じなんです。お願い、やめて。蹴らないで。
痛いの。蹴られたところがすごくいたいの。死んじゃいそうなくらい、痛くてしかたないの。
私たちは兄妹でしょう。同じ血が通っているはずです。なのにどうして、どうしてこんなことをするの。
「気持ち悪いんだよ!」
「こいつ、ホントに俺らの兄妹なのか? 父上がうわきして作った子供なんじゃね?」
お願いします、やめてください。謝ります、謝りますから。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。わからないのです、私があなたたちに何をしたのかわからないのです。
何かしてしまったのなら謝ります。だからどうか、いじめないで。
「うるさいなぁ。何言ってるかわかんないんだ、よ!」
「ねえお兄様、早く黙らせてよ。こんなのがわたしの姉なんて、わたし恥ずかしいのよ。わたしの方が先に生まれていれば、少しは恥ずかしくなかったのに」
「まだピクピク動いてらあ、芋虫みてえ。おらっ!」
「お前たち。それで遊ぶのも良いが、そろそろ勉強の時間だぞ。速く戻ってきなさい」
「はーい! それでは行きましょうお兄様方」
飽きた、というよりは他にやることがあるからという理由で、あの人たちは去っていきました。
私はしばらくの間そこでじっとしていました。痛みで動けないからです。
骨が折れているかもしれません。痛くて、痛くて、痛くて……動けないのです。
「あ、あぅぅぅ……ぐ、ぅぅぅ」
けれど、痛くても動かなくてはなりません。この頃の私はまだ掃除などの仕事を命じられていましたから、休んでしまうと怒られてしまうのです。
もっとも、ちゃんと掃除をしていても怒られるのですが。それでもしていないよりはマシなことが多いので、ちゃんとやらなければいけません。
「はぅぐ、ぐぐぅぅ」
少し身動きするだけで体に激痛が走りますが、動かなければ更に殴られます。
動いても結局殴られはしますが、殴られる回数が少しは減るので動くのです。
なんとか這いずりながら動いていると、ガチャリと戸を開ける音が聞こえます。首をそちらに向けて見てみると、お医者様が歩いているのが見えました。
私たちの末の妹が、風邪を引いたからなのでしょう。私を蹴っていた兄が「お前のせいだろう疫病神!」と言っていたのを覚えています。
決して私のせいなどではありませんが、彼らにとっては私が病気を運んでくる疫病神に見えるのでしょう。
お医者様が私に気づきました。これで助かりました、お医者様が私を治療してくれます……なんてことには、当然なりません。
彼は私が明らかに怪我を負っているのを視認した上で、私を無視して帰っていくのです。冷たい目で私を見下ろしながら、なんだお前かと言わんばかりに、こいつならば治さなくても良いだろうと立ち去っていくのです。
怪我をしているから? 痛そうに泣いているから? そんなことがどうしたというのでしょう。大人たちも子供たちも、私を慮ってくれる人はいません。
私が年端も行かない少女だとしても、関係はありません。食堂で残飯を漁っている虫がいたとして、その虫が大きかろうと小さかろうと潰してゴミ箱に捨てるようなものです。
なぜ潰すのか? 簡単です。相応しくないからです。
清潔を保たなければいけない食事の場に、汚らしく醜い虫がいたら潰さなければいけません。これは不快かどうかという個人の好悪ですらなく、そういうものだからそうするという話なのです。
虫の入ったスープは誰も飲まないし、入るような事態があってはならない。
私は、そういう存在です。
スープの中に入った、虫。
けれど、こんなことは何でもないのです。痛いのなんて、我慢すればいいだけなのですから。
耐えればいいだけのことなんて、本当に辛いことではないのです。
……いえ、勿論できるならばやめて欲しいですが。痛いの嫌ですし。
ですが本当に怖いのは痛みなんかではないのですから、それに比べればこんなことは虫に噛まれたようなもの。
ええ、虫に。あんな奴ら、血の繋がった家族でも何でもありません。
最初の頃は「なぜ」「どうして」と繰り返し言っていましたが、毎日毎日虐められれば流石に家族としての情なんて消え失せます。
父も、母も、兄妹たちも、親戚も、誰も彼も私に家族は一人もいません。
……もう、家族なんかじゃありません。
恨んではいない。憎んでもいない。家族だとは思えなくなっただけ。家族としての情が、擦り切れてしまっただけ。
けれど現実問題として、私はここにしがみついて生きていくしかないです。小娘に過ぎない私が放り出されれば、辛うじて残っている一本の糸すら切り落とされてたちまち死んでしまうでしょうから。
そういう意味で、あの人たちへの感謝も一欠片は残っています。ここに住まわせてもらうことだけは、許してくれているのですから。
目のつくところに置いておいた方が、安全だからなのでしょうけれど。
まあ、どこだろうと私の地獄は変わらない。
――本当に、なんて酷い世界だろう。