3.私はシェリー
この数時間の間に何して来たんだこいつ……という相棒の非難する視線を受けて、シェリーは憤慨した。
見てもいないのにそんなことがなぜお前にわかるのかと、心外だと顔をムスリとしかめた。
「詳しい話も聞かずにそんな目を向けるな馬鹿者。私は悲しいぞ、信頼するパートナーが私を信じてくれないなどと……!」
「じゃあ何が起こってそうなったのか詳しい話とやらを聞かせてみろ。聞くだけは聞いてやる」
「うむ、では話してやろう――と、言いたいところだが」
うちの店に迷惑でも持ってくるつもりかいと言いたげなユバンナや、何だ何だと集まってきた女給たちを尻目に、心配するなもう出ていくよと言うようにシェリーはひらひら手を振って。
「ここでするのは、まあ少しまずいだろう」
ヒラリと飛び降りるようにシェリーは酒場を出て、自慢の金髪を掻き上げた。
「お前がここにいるのは確認した、だったら何も問題はない。私は何の心配をすることもなくこいつをぶちのめせるというものだ」
そんな彼女の言葉に「誰もいないよね」「ねー」と店員たちがキョロキョロと辺りを見回すが、その通り彼女を追っているというような怪しい人影は見当たらない。
だがシェリーは居ると確信しているようで、その場に自然に立っているようでいても決して隙は見せない。
「では話をするとしよう。そう、それは今朝のこと――いつものように目覚めた私は、身を清めてから先に出て行ったであろう馬鹿に追いつくべく家を出たのだ」
「おい、その馬鹿ってのは俺のことか馬鹿」
彼女は無視した。
「清々しい朝だった、まさに太陽が全身全霊で私という超絶最強ウルトラハイパー美女の目覚めを祝福しているようだった。まあ太陽如きが私という美女の輝きに優るはずもないので、いくらキラキラ光ろうが無駄な拝謁にすぎないんだが……だが崇められるとは気分が良い。天上の星をも足蹴にしながら、私は意気揚々とこの店を目指して出発したわけだ」
無駄にしか思えぬ自画自賛を真剣に聞いた者は皆無だったが、誰も彼女の話を遮らなかった。
とりあえずこの場はこいつに喋らせておこう。そういう空気をその場の誰もが発していたからだったが、しかし彼女はそれを気にせず話を続ける。
「だがこんなにも太陽が輝いているというのに、私たちときたらこれからじめじめと薄暗い地下へと潜らなければいけないときた。気が滅入る、気が落胆る、そもそも誰かの足元に潜らなければならないと考えただけで憂鬱になる、そうだろうヴァン?」
自分たちの頭の上を大勢の人間が踏みしめるのかと思うと、迷宮に潜るたび急激な精神不可がかかるのだ。
太陽すら自分の飾りだと言い切った彼女にしてみれば、天地を覆されているかのような違和感が襲うのだろう。
端的に言ってしまえば気に入らないという一言になるのだが、それもまた彼女たちが迷宮に潜りたがらない理由の一つだった。
金銭を稼ぐために命を懸けるのは冒険者であるなら当然のことだが、それに加えて精神不可で気持ちの悪い思いもしなければならないとなると誰だって進んでやりたくないのは当然のことだ。
汚れ仕事を忌避するように、彼女にとって迷宮探索とは泥掃除と似たようなものなのだ。
自我を踏み荒らされるような気分にはなるため、とにかく落ち着かないのである。
「本音を言えば遠ざかりたかったが、そうもいかない。先に行った相方に追いつかなくてはならないし、金が無ければ何も食えんし旅にも出られん――そんな時だ」
***
何となくだった。
シェリーは何となく、こっちに進んだ方がいいんじゃないかという感覚に陥った。
《猛牛の休息所》に行く道からはズレていたが、彼女は大して逡巡もせずその道へ入った。
こちらへ行こうと決めた理由は何となくという程度のものだが、しかし彼女は己の直感には従うと決めている。
自分に対する無意識下からの無自覚な指令、そこにはきっと意味があるのだと、彼女は自分を信じるがゆえに自分の直感も信じている。
だから何となく怪しい男たちが集まってるその場所を発見した時も、侵入することに迷いはなかった。
住居侵入? 不法侵入? 知らん。
外からの見かけ以上に中は広く、何らかの魔法効果がかけられた建造物であることに間違いはなかった。
このような真似ができる魔法使いなど在野にそうそう転がっているものではないが、この中にもしそのレベルの魔法使いがいるとしたなら多少なりとも厄介だ。
そう考えながら、しかし彼女は迷いなく歩き続ける。
「ンだテメェ⁉」
「どっから入ってきやがった!」
いくらか進んだところでスタスタと内部を歩いているシェリーを発見した男たちは荒げた声を上げ、不審な女を脅しにかかる。
だがシェリーに一切気にした様子はなく、辺りを見回すと納得したように頷いた。
「ふむ。やはり、私の勘は正しかったようだ。初対面の相手をいきなり怒鳴るような人種は、たいていロクな人間じゃないと相場が決まっているからな」
知らない相手の家に無言で侵入する人間のことも、人はロクでもないと言うものだが彼女は華麗にスルーする。
彼女は左の指を四本、こめかみに当て。
「天は私に二物を与えた、この強さとこの美しさを。天は私に三物を与えた、この強さとこの美しさとあの運命を。天は私に十の宝物を与えた、天は私の下に人を創った。……ちょっと罪すぎるな、天。美しさは罪だと言うが、この私の完璧な美貌が罪なわけはないのだし、悪いのはやはり天の方だろう」
「……何を言ってんだテメエは⁉ 言ってる意味が分からねえぞ!」
「何をも何も、お前たちが言ったことだろう。なんだお前はと、だから自己紹介をしているのではないか。流石に名前までは言いたくないから、私がどういった人物であるかを簡潔にだな」
こちらこそお前たちが何を言っているのかわからないというような目で男たちを見ながら、やれやれとシェリーは肩を振って呆れる。
仕方ない、もっと簡単に言うしかないかと。
「つまりだな。私と比べればお前ら程度は、道端に転がる虫にすら劣る有象無象の小さきものに過ぎんから、さっさと一番強い奴を連れてこいと言っているのだ。ほら、これでわかりやすいだろう? 少しでも延命したいのなら、速くした方が良いぞ。せっかく潰しに来てやったのだ、快適に壊滅させろ」
――私は別に、お前たちを全滅させてからゆっくり探しても良いのだからな。
男たちのことを完全に舐めきっているその発言に彼らは激昂し、次々に武器を手に取ってシェリーを囲む。
舐めた口を叩いた女を笑って許せるほど彼らは優しくないし、甘くもない。
「テメエただじゃ済まさねえぞコラ!」
「ここを見られた以上、帰す気は最初からねえが殺す前に痛い目にあってもらうぜ」
「へへへ。嬲り殺しにしてやるからなあ?」
「へえ……」
だがシェリーは男たちの脅しに震えるどころか、むしろ感心したように男たちを見る。
「私に勝つのは無理だと悟って、少しでも私を油断させたいのか」
ピタリと男たちの罵声が止まり、彼らの表情から怒りが消える。
「貴様らチンピラじゃあないだろう。それにしてはコソコソしすぎて怪しいし、この建物の中身もただのチンピラに用意できるようなものではないだろうしな」
「……」
女は冷静だった。冷静に観察し、男たちの動きを見ている。
自分を囲む際の澱みのない動き、自分の初動を見逃さんとする眼。彼らの動作一つ一つが、彼女に自分の確信は正しかったのだと伝えてくれる。
この中に入った瞬間に確信した。この建物の中から一瞬漂った濃い気配、それが自分をここへと呼び寄せたのだのだと。
ならばそんな強い気配を隠している連中がただ者であるはずはなく、よってその気配の主が出てくるまでとりあえず暴れてやろう。
この強い気配の主は、ここで絶対に叩いておかなければならないと確信したがゆえに。
「……おい、逃がすなよ。ここで確実に仕留めるぞ」
「何だってこんな時に。あの化け物め、余計な真似を」
声を荒げていた先ほどまでとは打って変わって冷静に、彼らは確実な殺意を研ぎ澄ませている。
彼らがチンピラを装っていたのは余計な情報を与えないようにするためと相手の油断を誘うための擬態だったが、目の前の女には無意味だと判断したのだ。
「慌ただしそうだったのはもう少しでここを離れる予定だったからだろうし、あいつを呼ぶ時間はないか……仕方ない、私一人でやろう」
相棒が私を案じるまでの時間制限はおよそ二,三時間。それまでにケリをつけて、さっさとあいつに合流しよう。
一人でやると決めたのにあいつに泣きつくのは格好悪いからなと、シェリーはコツコツと爪先で床を叩く。
「お前たちの素性も、大まかな予想はつく。推理を完成させるための証拠も、推論を成立させるための材料も少ないが、簡単な推測なら立てられるぞ。さっき断片的な会話なら聞こえてきたしな。まず冒険者ではないだろう、そして当然だが騎士や衛兵でもなさそうだ。そうなると――」
瞬間、男の一人がシェリーに凶器を向けて飛び掛かり――そしてそのまま顔面を掴まれて、固い床へと頭から叩きつけられる。
ぐしゃりと嫌な音が聞こえ、ピクピクと痙攣する男をそのまま放置したシェリーは汚い物でも触ったかのようにパンパンと両手を叩いて払う。
彼女が人差し指をそっと自らの唇に当てると桃色の唇はぷにっと瑞々しく弾み、その奥から彼女の息がそっと漏れた。
「しー……」
静かに、と。大きくも何ともないはずのその一言が奇妙なほどに深く響いて、その場にいる男たち全員の背筋にゾクリと悪寒を走らせる。
「私が、話をすると、言っているだろう」
否を許可したつもりはないと、大上段から言ってのける。
男たちは慌てて彼女の胸元に付けられていた冒険者の証であるバッジを確認し、彼女の等級を把握する。
バッジの色は青銅、つまり四等級である。
一級から二級の上級、三級と四級の中級、五級に六級の下級に分かれている冒険者の等級。しかし四級はまだまだ実力の足りない、いわゆる駆け出しを抜けた者たちが留まっている領域であり、数も最も多いため軽く見られることも多い。
――今の動きが四等級? 姿すらまったく追えなかった、この速さで中級とでも言うのか⁉
「論より証拠とはよく言ったものだな、これで手間が省けた。いや実のところ、私が早とちりをしただけでお前たちがただの劇団だった可能性も残っていたのだが、その心配はなさそうだ」
何せ客観的に見ればシェリーは不法侵入した挙句に「お前たちは怪しい」とイチャモンをつけて暴力を振るおうと考えていた危険人物なのだから、通報されるとするならばまず真っ先に彼女だろう。
しかし彼らは本当に後ろめたいことを考えている怪しい者たちだったため、丁重にお帰りいただくことよりも口を封じることを考えた。
結果、これで彼女は何も考えずに彼らをぶっ飛ばす口実を得たのだ。
「とりあえず、話を聞きたくないというなら仕方ないか。全員纏めてかかってこいよ――格の違いというものを教えてやる」
蹂躙が始まる。
殺しのプロが、なすすべもなく壊滅される。
「さあ、どこだどこだ。私を呼んだ敵はどこにいる。早く出てこないと、この場の全員私が全滅させてやろう」
歯牙にもかけないとはまさにこのこと、たった一人の女を囲んでいるというのに男たちは歯も牙も立てられない。たった一つの切り傷を入れることすら、この女は許さない。
一と多の戦いにおける多数側の必勝法とは簡単で、囲んで殺す、これに尽きる。
一人の側は自分を囲む敵から身を守るために四方八方を常に警戒し続けなければならないが、囲む側は前進する一方向のみに気を使えばいいだけなのだから。後は味方と共に一斉にかかれば、それだけで一人を殺すことは容易である。
無論、戦いとはあらゆる要素が複雑に絡み合う混沌の庭に等しい戦場で行われるものなのだから、ことはそう単純な話で決まることではないが、しかしたいていの場合においては通じる理論ではあるだろう。
不確定要素を考慮したとしても、一の側が不利であるという前提までは変わるまい。
しかし先史も現在もいつだって戦場に不確定要素は付き物であり、そしてここにいるのもまた定石を覆す不確定の塊である。
ましてや今は、先史以前とはまるで異なる世界である。奇跡も魔法も現実に、兎の導くワンダーランドは穴から溢れて、そこかしこで魔物が茶会を開いている。
一人で千人を上回る文字通り一騎当千の兵も絵物語ではなくなっているのだから、細身の女がたった一人で男たちを相手に無双することも、可能性としてはあり得る話。
「お、おおおぉぉぉ……⁉」
だが現実として囲んで叩くという必勝法が通用しないことは、絶対に有利なはずなのに悉くが通じずに敗れ去るのは、多数の側から見れば理不尽でしかないだろう。
けれど残酷なことに今も昔も勝負の理はとてもとても単純で、勝つ方が強い、それだけなのだ。
多数の側がどれほど大人数で一人を囲んでも、その一人が多数を圧倒的な武力で上回ってしまう常識外れすら起こり得るのであれば、魔法など存在しようがしなかろうがたった一人が勝ってしまうのが必定だろう。
「……しまった。そういえば朝何も食べていなかった」
どれほど男たちが刃物を突こうと、振り回そうと、シェリーはその全てを紙一重で回避する。
当たらない、当たらない、掠ることすら許さない。まるで攻撃の方が彼女を避けているのではないかと錯覚するほど、彼女の動きには無駄がない。
いいやそもそも、彼女にとってこの程度の数は多数ではない。
どれだけ囲まれているとしても、自分に向かって一度に攻撃してくる人数には限りがある。仮に千人が彼女を囲んでいようとも、千人が同時に襲いかかってこれるわけではないのだ。
それらを的確に素早く捌いていけば、一対多は一対一の繰り返しでしかなくなるのだという理屈。机上の空論だとしても、実現可能な速度があれば空論は現実に変化する。
上回るとはこういうことだ。十人纏めて敵を吹き飛ばすためだけに無駄な力を使う必要などなく、スマートに敵を圧倒する。圧倒できる力の差がある。
男たちが戦慄したのは、まさにここだった。多人数との戦いを一対一の繰り返しに落とし込めるだけの武力を所持しているこの女に、世の英雄たちにも並ぶだけの器を垣間見たのだ。
「まあ、朝食前の運動と思えばいいか」
そして男たちの攻撃は何も当たらないが、逆に彼女のそれはその全てが命中する。人体の急所を的確に打ち抜き、一発ずつで彼らを地に沈めてスタスタと散策を再開した。
傍目には、襲いかかったと思った男たちが何やら女が歩き出すと同時に勝手に吹き飛んでいった、というようにも見えるだろう。
彼らも決して貧弱なわけではなく、一般人を音もなく殺害する程度の力は優に有している。だというのに手も足も出ない理由は簡単に言ってしまえば、彼らと彼女の性質の違いだ。
彼らの性質は殺す者、すなわち殺し屋、暗殺者。対して彼女は戦う者だ、常日頃から前線に身を晒している回数が違った。
加えて本来は奇襲する側である暗殺者たちが、今回は彼女に奇襲される側へと回ってしまっていること。
始めの時点で優位に立っているのはどちらなのかが確定してしまっており、よって実力差がハッキリしている以上はそこからの逆転は難しかった。
「悪の栄えたためしなしってよく言うよな? あの話を聞くたびにいつも思うのだが、なぜためしがないとわざわざ親切に教えてくれているのにお前たちのような奴はいつまで経ってもなくならないんだろうな」
「だから私は思ったわけだ、ひょっとしたら逆なんじゃあないかとな。ひょっとしたらお前たちは栄えたいわけじゃなく、その逆こそが目的なのでは? 悪事という過程はもののついでに過ぎなくて、蜜蜂がほんの少し花粉をつまみ食いするようなものなのだとな」
「そして私は納得した。お前たちは敗北を知りたいんだな、汚れた地面に這い蹲って汚い汁を吐き出しながら踊り狂って死にたいんだろ。反吐を催す被虐趣味、低俗すぎてよくぞそこまで歪んだものだと感心すら覚える」
「私には理解できないが、望みというなら仕方ない。人様に迷惑かける前に、命ごと潰してやらねばな」
「――踏んでやるから跪け、豚」
彼女の言葉を封じるかのように、シェリーの足元からどぷりと突然何かが湧いて出た。
その何かは彼女の足首を掴むと、自らもろとも彼女を地中に引き摺り込んでいく。
「なっ……⁉︎」
ズブリと沈んでいく感触が足元から伝い、まるで餌となる獲物を落下させる蟻地獄の巣のようにどんどんとシェリーが落ちていく。
「まさか地面の下とはな!」
いや、違う。地中ではない。まるで世界そのものが切り替わったかのような感覚が彼女を襲い、事実として既にチャンネルの異なる彼女を元の世界の者らは傷つけることができない。
自らの巣がある裏次元へと彼女を連れて潜るのは、混沌色の古き蜘蛛アトラ=ナクア=アトラクナクア。
その正体をシェリーは知らぬが、しかし間違いないと確信する。
私を呼んだのはこいつだ、先ほど自分の直感を刺激したのはこの蜘蛛のような魔物だ、何よりも優先して倒さなければならないと思わせたのはこいつなのだと。使役されているのか、手を組んでいるだけなのかは定かでないが、ここでこいつを倒しておかなければ何かまずいという直感がある。
ギシギシと不快な音が耳に障り、見る者全てに不安を与える八つの紅い眼光がシェリーを見つめていた。
来たぞ来たぞまんまと獲物がやって来たぞと穢れた笑みで蜘蛛はシェリーを歓迎して、その目は間違っても彼女を対等の敵とは認めていない。
ならば――思い知らせてやらねばならないだろう。
お前がいったいどこの誰を挑発したのか、その命を以て脳髄に叩きこむがいいとシェリーは闘志を漲らせる。
「いいだろう。私を獲物に選んだことを、後悔しながら息絶えろ!」
***
――そして時は戻り。
「と、いうわけでよくわからん化け物との死闘を何とか切り抜けた私は、そのまま連中のアジトにいつの間にか大量発生していた雑魚蜘蛛を駆逐しつつ、奴らをほぼ全員ぶちのめして見事に勝利を収めたわけだな。うむ、流石私。頑張った」
朝の散歩ついでに悪の組織とやらを一つ壊滅させてきた、そんなことを語った彼女に酒場の女給たちは皆引き気味な顔をしていたが彼女にとっては積み重ねてきた勝利の一つに過ぎない。
いちいち誇る必要もないことであり、こんなことは成果ではなく経過でしかないのだ。
後は通行人に通報諸々押し付けて、一度ここまで後退した。
「そんなわけだから、もう出てきていいぞお前。いつまで隠れているつもりかは知らないが、私に通じると思うなよ」
彼女の言葉に応えるように、声がその場に一つ増える。
「……暗殺稼業を始めて長いが、計画をこんなにも無造作に台無しにされたのは初めてだよ」
何もない空間から、突如として男が現れた。まるで見えない扉を開けてきたかのような自然さで、最初からここにいたのだと主張するように。
巨大な男だった。二メトルはある背丈で大地を歩く全てのものを見下ろしており、巌の如きごつごつとした肉体もあり岩山を思わせる男だった。
だが何よりも特徴的なのは、長い――長い、その手足。真っ直ぐと伸ばせば地面に指が付くだろう腕に、まるで大蛇が生えているかのような足。
それは人族の特徴ではあり得ず、間違いなく亜人族のものだった。
「当然だろ。私がお前を邪魔したのは、今回が初めてだからな」
もっと早くに遭遇していればその時に、もっと後に鉢合わせていればその時に、お前程度の企みはいつでも潰せるようなものに過ぎないと彼女は言い切る。
宣言通りに実際潰しているのだから、負け惜しみを返すこともできない。
「言ってくれる。お前のような何も考えていない薄ら馬鹿女に仕事を台無しにされた責任は、もはや貴様を殺すことでしか晴らすことはできんぞ女!」
「人のせいにするなよ、人聞きの悪い。人に言えないようなことをやっていたのはお前たちだろう、人に当たる前に人の法を学んで人の道に戻ろうとする努力くらい人様に迷惑をかける前にしたらどうだ?」
やれやれと、悪いのはあくまでお前たちであって私ではないという態度を崩さない。
もっとも、悪事を働こうとしていたのは確かに彼らの方なのだから人の事をとやかく言えるような立場ではないのはその通りだ。
努力の成果を台無しにされた時、人は善悪を問わずして喪失感や怒りを覚えるものだから怒りを覚えることは普通だが、悪党に怒りなど上等な感情は必要ないとシェリーは切り捨てている。
「私は正義の味方ではないが、ほら、人間誰しも部屋の隅に害虫が湧いていたら駆除するものだろう? 同じことだ。視界の中に虫が湧いていたから潰しただけ、だからそんなに怒るなよ。なあ、お前に言ってるんだぞ、虫ィ」
瞬間、シェリーの背後に湧いて出るように現れた男がその巨きな拳を振り下ろす。いつの間にか一瞬前までいた場所からその姿はかき消えていて、殺意を叩きつけんとしている。
だが当たり前のように、出てくることはわかっていたかのように、ひらりと彼女は拳を躱す。
「……ならば、その虫にこれから叩き潰される貴様は、一体何と呼べばいいんだ?」
「見てわかるだろう。天女様と呼べ」