1.はじまり
その日、地獄の浮上を意味するかの如く太陽を冒涜する逆さの十字架が、地上を睨めつけながら清らかなる青空に降臨した。
その瞬間に平等なる青空は穢されたのだ、消え失せたと言っても良い。この世に生きる全ての者たちへ光を届けるためのテーブルであるこの空をまず手始めに略奪せんと、地獄の底から憎悪そのものが落下したのだ。
それで何かが変わったようには見えなかった。そこには太陽があり、青があり、雲があり、地域によっては雨がありあるいは風があった。空を構成する全ての要素がそこにあった。
一見して何も変わったようには見えず何も奪われたようには見えず、しかし人々は確実に何かが確実に奪われたと確信した。
そこにあるのが当然だった太陽が、今は別のものにしか見えないのだ。あれは、そう、例えるならばこの世全てを焼き尽くすため生まれたのに、それができないまま宙に縛られ屈辱に震えている赤子のような。
太陽の遥か下で磔となった逆さの木乃伊が、空洞となったその眼孔で地上に生きる一人一人の命を見つめている。
高層ビルほどもある骨と皮だけの腐った生贄が空の上でどうしようもないほどに狂い叫び、泣きながら命を寄越せと訴えている。
そして、恨んでいる。妬んでいる、憎んでいる、どうしてお前たちは我と同じでないのだと、逆恨みながら理不尽な怒りを向けている。
上空で輝く太陽にも負けぬ怨嗟の炎で何もかもを焼き尽くしたいと、願って願ってやまないのだ。
全ての光あるものが許せないのだと、声を発することなどとうに出来なくなった喉からあらん限りの罵詈雑言を叫んでいる。
どうして、どうして、どうしてどうして! どうしてと!
あらん限りの力を以て、動かぬ腕を振り下ろし、動かぬ足で踏み潰し、光持たぬ目で睨みつけ、恐怖を持たぬ体で憎悪を表し、声ならぬ声を以て地表全ての者どもに憎悪の鉄槌を降り注がせるため地獄の悪鬼と成り果てたいのだ。
人々よ、見るがいいあの姿を。あのどうしようもなく醜くて腐臭極まる終わった姿を。
あれこそが成れの果て、果ての果て、存在そのものを魂の底から奪われ穢され凌辱され尽くした、人という命が辿り着く終わりの果てだ。
しかし当然、この世界に起きている異常はまだ終わりではない。あれ一体で終わるはずがない。地獄の底から落ちてくるのは、一体だけではあり得ない。
来る、来る、来る、奴らが来る、怨嗟と怒号と悲鳴と憎悪で、絶望をまき散らす尖兵となるため地獄の悪鬼の代わりとなって、この現世へと帰還を果たす。
その数は幾つだ。二体か、三体か、それとも十かそれとも百か?
全世界の上空に二億三千五百三十八万四千九百七十二体からなる逆さ磔の木乃伊群が、世界の終わりを告げるべくこの現世に現出していく。
まだまだ、まだ終わらない。所詮は先触れ、奪われた敗残者の残り滓。言わばこいつらは残飯なのだ、床に落ちたパン屑を誰が正式な使者と認める。
全ての木乃伊が現れた後、ようやくそれが姿を見せる。
それは真っ白な女だった。
髪も肌も手も足も胸から腹も背中も臀部も口腔内に至るまで、全ての色を削ぎ落した虚無そのものの白色だった。唯一その瞳だけが、この世全ての闇を凝縮したかの如き濃厚極まる闇色の黒。
木乃伊たちとは比べものにもならぬほどの巨大な女を見た全ての人は、皆一様に一つの答えを確信した。
――この女は処女である、と。
なぜ言い切れるか? なぜそんなことを思い至ったのか? 決まっている、この女は子を産むのにいちいち胎も産道も必要としないからだ。穢れる前から終わった存在であるからだ。
完璧な生命は不完全な方法で繁殖などしないのだと、人間と似た姿をしておきながら在り方からして人間とは隔絶している。
こうしている今も、泡立つかのように巨大な女の肌から次々に何かが産み落とされている。
女がようやく、一瞬だけ眼下の人々を見下ろして、そしてそれだけで彼女に見られた数万の人間は一瞬で存在そのものを吸い尽くされて逆さ磔の木乃伊と化した。
死に切れぬこの死者たちはこうして生まれ、こうして死んでいった誰かなのだ。
全ての木乃伊は彼女の一部であり、“全にして一・一にして全”を体現する泡沫に過ぎない。木乃伊全てが彼女であり、木乃伊全てが彼女の爪の垢ほどの存在なのだ。
二億を超える哀れな死者は、彼女が滅ぼした別の次元の住人だった。滅んだ世界から彼女に引っ張られて連れてこられた、故郷の土に還る権利すら奪われた残骸だった。
数万の人間を木乃伊へと変えた後、それきり興味を失ったのか彼女は地上を見るのをやめて目を閉じて、そして完全な降臨を果たす。
彼女に危機を覚え、吠えた犬が石となった。
彼女から逃げようとした鳥が燃え尽きながら落下していく。
彼女の魔力に当てられた虫が新たな知的生命となった。
彼女の降臨を知った魚が原始の姿へ回帰していく。
そして人は――人は。
彼女をついに地上へと降り立った神の姿だと信仰する者、この世を滅ぼす竜の具現だと諦める者、全世界の脅威だと銃口を向ける者、何とか穏便に元の場所へ帰ってもらえないかと跪く者、そして彼女の姿に耐えられず次々に発狂していく者たち。
知恵あるがゆえにその対応は様々でバラバラだが、だが共通の確信がまた一つそこにはあった。
世界はこれから、確実に変わっていくに違いないと。
すなわち――大叫喚地獄の幕開けである。
そして、時は遥か過ぎ――――。