05. 山の怖さと山の素晴らしさ
次女もソフトクリームを食べ終えた。べったべたの口をティッシュで拭ってやる
そうしてやるあいだにも思い出し笑いのように「まさし」って言ってる。まさしって誰だ。
「よし、もう行くぞ。もう1時間も歩けば山頂だ」
こっからまたキツくなるからな?」
次女の顔が真剣な表情になる。いいぞ、お前のその切り替えの早さ大好きだ
「ここまでほどではないが、いっかい山を越えることになる。あそこに見えてる、中岳だ」
起伏差はそれほどないし、滑落の危険もないが、大き目の岩が転がっていて、
転んで頭を打ったりすると割り合いにヤバい。
「行けるか?」
「行けるぜ?」
袖で口元を拭って次女が答える。袖で拭くなタオルで拭け。
「なら行くか」
「行こうぜそういちろう」
*
中岳は別に難しい場所ではない。尾根の上にあるちょっとした起伏という程度だ。
しかし、ここを越えると木曽駒ケ岳の全貌が見える。
ふふ、ここもよく風景写真として撮られる場所だ。次女の反応が楽しみだ。
……水の匂いがして振り返る。
快晴の空はいつの間にか曇り、濃い霧があたりに満ち始めている。
「マズい」
「ん? おお…!?」
俺の呟きに、先導していた次女が振り返り、驚きの声を上げる。
山の天気は本当に変わりやすい。
八丁坂を越えてきた濃い霧が乗越浄土を包んでいく。
天気はよく確認してきた。今日、この地域に雨が降ることはないはずだ。
しかし、山ではそう言い切れないところが怖い。
いっきに霧が我々を覆っていく。1,2m先も見えないほどに視界が悪くなる。
頭上を見上げても、ただの白。その遥か向こうで太陽が鈍く光っている。
雲が出ているわけではない。この霧は一時的なものに過ぎないはずだ。
次女は明らかに怯えている。次女を安心させてやるために、
そのあたりの岩に座って腕を広げる。
抱き着いてきた次女の頭を撫でてやる。
「山ではよくあることだ。たぶんすぐ晴れる」
「……うん」
いつになくしおらしい。それはまあ怖いよなあ。俺だって怖い。
しかし、仮に雨天になったとしても、すぐにあの山小屋に逃げ込むことができる。
いつも、気丈というか、怖いものなしな次女が震えている。
そう怖がるな。これがトラウマにならなければいいのだが。
ほぼ視界のない山の上でしばらく次女の頭を撫でてやった。
*
15分ほどそうしていただろうか。しだいに霧が晴れ、山小屋が見えるほどに視界が開けてきた。
「もう大丈夫」
顔を俺の胸に押し付けている次女の肩を叩くと、次女が顔を上げる。
めっちゃ泣いとるやんけ。涙と鼻水でぐっちゃぐちゃやんけ。
そのまま次女は辺りを見回すわけよ霧が晴れてきたのが分かったらしい
「……ここでそういちろうと死ぬのかなって思った……」
吹き出しそうになったが気持ちはわかる。
「俺もお前とここで死ぬのかと思った。やっぱり山は怖い」
つとめて冷静にそう答えてやる。
次女は顔を袖でごしごしと拭う。だからティッシュとかで拭いてそれ高いやつだから。
ズッと鼻をすすって、次女は俺から降りる。一気に晴れてきた。
もともと空は快晴なのだ。霧さえ晴れれば何も問題はない。
俺も立ち上がって、次女の頭をぽんぽんとたたく。
「行けそうだな? 行こうか」
「うん!」
お前のその切り替えの良さ大好きだよ
霧は一気にはれた。本当に山は怖い。
中岳の頂点まではあと歩いて3分くらいだ。
ここからの景色はすごいぞ。次女の反応が楽しみでしょうがない
*
すぐに中岳の頂上にたどり着く。そうだ、これが俺が20年前に最も興奮した光景だ。
「おお……」
尾根はいったん下降し、山の中腹にはテント場となる斜面の広場と山小屋がある。
やはりシーズンだな、広場には色とりどりのテントがまばらに並んでいる。
その奥には木曽駒ケ岳。山頂にたどり着くにはここからさらに30分ほど歩く必要がある。
野装の後ろ姿の次女と、その奥に広がるパノラマを眺める。
次女が居ること以外は20年前と何も変わっていない。
この場所も、よく写真として撮られる場所である。
次女は黙ったまま、ここから見える景色を眺めている。
かわいいなあ後ろ姿が見えてるだけだけど嫁に似てきれいな髪をした子だ。
山の景色と次女の後ろ姿の対比が素晴らしい。
次女が満足するまで、俺は俺で次女の後ろ姿と景色を満足するまで眺めていた。
*
ややあって、振り返ることなく次女が呟く。
「……そういちろう」
「うん?」
「山っていいね」
しかし、すこし牽制するように問う。
「さっきみたいに怖いこともある」
「……うん。でも、私、ここ好き。この景色好き。絶対また来る。他の山も行きたい」
ああー俺こいつのこと山ガールにしちゃった。
いやでも分かるよ無茶な登山しないでいてくれるんなら、お前の人生はいいものになると思う。
やはり山はいい。マジで20年ぶりくらいだったが、
人工物に囲まれてない自然を見る、その地を歩くことで、
自分が一個の生命ということを思い出させてくれる。
そんなこといいつつ30分前にはソフトクリーム食べてたわけだが。
座っていた岩から立ち上がって、次女を後ろから抱く。俺の手を握ってくる。
「あとちょっとで山頂だ。行こうか」
「……うん!」
俺と次女は再び歩き始める。