ブランククスの攻防 file.1
ブランククスの攻防
透き通った女性の声が聞こえる。
『凛、むやみに誰かを救う事をしてはいけません』
ずっと昔に聴いたその言場は、今でも私の中に残っている。
私がまだ皇国に居た頃、私を救ってくれた私の先生。
なぜ? 私がそう訊くと、先生は表情一つ変えずに答える。
『人が救えるものには限りがあるのです。 悲しい事ですが、人は救う事でなく切り捨てる事で歩みを進めて来たのです。 自然淘汰ではなく、自発的に切り捨てる事で歩みを進めるのが人間です。 選びなさい、貴方が本当に救うべき者を。 そして残りなさい、人類に切り捨てられない様に』
どうすれば良い? 自分がそう在り続けるには、どうすれば良い?
『何かをする必要はありません。 ただ、強くあれば良いのです。 救うべき者を救い、切り捨てるべき者を捨てられるように。 そして忘れないで下さい。 生きるとは辛い事だけど、きっと何よりも素敵な事なのですから』
そう言って先生は不慣れな笑顔で、肩まで伸ばした白髪を揺らして答えた。
あの時の先生の声が、少し悲しそうな気をしていたのは、震えていたような気がしたのは、きっと気のせいじゃないと、私はそう思いたいのだ。
「――さん、――ください。 ――さん。 凛さん」
同僚の声で眼が覚めた。 優し気で、とても気持ちの良い声。
嗅ぎ慣れた、甘い香りがする。
どうやら、私は気付かぬ内に眠ってしまっていたらしい。
眠気で頭がクラクラする。 もしかすると、私は夢から目覚めたく無いのかもしれない。
未だ覚醒しない意識は、私を再び眠りに誘おうとする。
「もう……、あんまり起きないと、こうしちゃいますよ?」
朦朧とした意識の中で薄っすらと眼を開くと、そこには銀色の髪の綺麗な女性が居た。
『先生? いや違う。 …………誰かが近付いて来る。 これは……アリス少尉? え、いや……嘘⁉ ちょッ――』
「ちょっと待って‼ 人が眠っている間に一体何をしようとしているんですか⁉」
慌てて私が目覚めると、アリスはあからさまにガッカリした素振りで答える。
「声を掛けても起きなかったじゃないですか。 私は~、ちょっとビックリすれば起きるとおもって、つい」
「ちょっとじゃ在りませんよ! すごくビックリしました! それと、ついなんて軽い気持ちで他人にキスしようとしてはいけません」
私がアリスにそう言うと、少尉は頬を膨らませて、起こった様に顔を近づけてくる。
「他人じゃありません! 私は凛さんだからしたんですよ! それに、私は軽い気持ちで人にキスなんてしません。 私を見縊らないで下さい」
アリス少尉は私の肩を掴み、少し顔を高潮させながら言ってくる。
顔を赤らめたアリスの言動に、堪らずこちらも赤面してたじろいでしまう。 よくそんな大胆な事を人前で言えるものだ。
「ちょっと! 前々から言おうと思っていましたが、そういう恥ずかしい事を公衆の面前で言うのは止めて下さい! 頬を赤らめないで下さい(まあ……本気というのは少し嬉しいですけど)!」
そういえば、大胆な告白は女の子の特権だと先生が昔言っていた。
これがその特権なのだろうか。 だとしたら、これは中々に堪える、破壊力大だ。
まあ、好きだと言われて嫌な気はしないが。
「えっ、私に言われると恥ずかしいんですか⁉」
『こいつッ‼』
鼻息を荒くするアリスを相手に頭を抱えていると、後ろから聞きなれた男の声が掛かってきた。
「まったく……こんな所でなにを恥ずかしい事をしているんだ、二人とも」
「イヴァン中尉、どうして此方に?」
声を掛けてきたのは、私達と同じ部隊のイヴァン・デヴィンスキー中尉、汚れた様な色の金髪が特徴で、いつも私達に良くしてくれる人だ。
中尉は、私の質問に笑って答える。
「いやなに、睡眠中の同僚の様子を見に来ただけさ。 もっとも、アリス少尉のおかげでお目覚めのようだが……。 仲が良いのは結構だがね、もう少し周りの目も気にした方が良いんじゃないか?」
イヴァン中尉の言場に、私は苦笑いで答える。
「そういう事は私でなくアリス少尉に言って頂けると幸いなのですが……」
そう言って私とイヴァン中尉がアリスの方を向くと、
「フヘへへ、凛さんは私にああいう事されるのが嬉しいんだぁ……、へへぇ~~。 もっとしちゃおっかなぁ~~」
顔を赤くして、聴いた事も無い声で何やら呟いていた。 こころなしか息も荒くなっている。
『『うわぁ…………』』
「そ、それじゃあ俺は失礼するが……、二人共、仲良しは程々にしとけよ」
イヴァン中尉が足早に去って行く。 これ以上は精神衛生上良くないと思ったのだろう。
というか、二人共? 程々にするのはアリスの方だと思っていたが、もしかして私も周りからはそういう目で見られているのだろうか? 今度から気を付けた方が良いだろうか?
いや、もしかしたら知らず知らずの内に私もあんな風に…………、止めておこうか。 これ以上は今の私では処理しきれない。
私がそんな事を思っていると、イヴァン中尉が「忘れるところだった」と言ってこちらに戻ってきたのが見えた。
「あれ、今度はどうしました?」
「隊長から二人を呼ぶように頼まれていたのをすっかり忘れていた。二人とも四号テントまで来るように班長が言っていたぞ。 それとだな――」
中尉が少し躊躇いながら話し出す。
「先輩としての言葉だ。 『好き』ってのは『隙』に成る。 アリス少尉の事はお前が護ってやれ」
『好き』が『隙』になる、注意も中々に巧い事を言ったものだ。
それに的を射ている。 恋とは人を盲目にするものだ。
妙薬にも成れば、猛毒にもなる。
はたして、アリス少尉にとって『恋』とはどちらなのか。
一見して軽薄そうに見えるけれど、中尉は私達の事を心配してくれているのだ。
素直に優しいと思う。 思ったなら、すぐに言葉にしなければ。
私は中尉へと感謝の言葉を口にする。 でないと、言葉にするのが恥ずかしくなるから。
「判りました、わざわざありがとうございます。 ほら、急いでください少尉!」
中尉にお礼を言うと、私はボソボソと何か呟き続けているアリスの手を取って、隊長の下へと走り出していた。
「え、凛さん手⁉ ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
凛に手を握られ、顔をトマトの様に紅くしたアリス少尉が凛の後に付いて行くのを観て、その場に一人残ったイヴァンは煙草を吹かす。 軍服のポケットから何時も吸っている煙草を取り出すと、愛用のライターで煙草に火を着ける。
イヴァンは煙を大きく吐き出すと、天を仰ぎながら呟く様にボソリとこぼした。
「凛少尉のああいう所が、アリス少尉や他の奴の誤解を招くんだよなぁ。 いや、案外凛少尉もその気だったりしてな」
そう言って中尉はもう一度、煙草の煙を青空に吹かした。
連邦軍ブリャンスク陣地 四号テント 2049・9・23 10時30分
「……何だこの資料は、名簿の並びが滅茶苦茶じゃないか。 階級でも無いし、何の順番で並んでいるんだ? それに、人によって文字の色を変えているのは何か意味が在るのか? 資料部の奴等、適当な仕事をしたんじゃないだろうな」
凛やアリスの所属する第669特殊戦闘班の班長であるニコライは、手元の資料に眼を通していたが、その内容に悪態を突くと、資料を机に置いて、先程呼び出した部下を迎える為にテントに置いた珈琲セットへと向かう。
カップを手に取ってインスタントコーヒーを入れてお湯を注いでいると、テントの入り口から部下の声が聞こえた。
「桂木・凛ならびにリゼッタ・アリスベル両少尉、ただいま到着しました!」
「ああ、入れ」
二人がテントに入ると、そこには難しそうな顔をした班長が珈琲を入れて待っていた。
元々悪かった眼つきが今は更に酷い、何か在ったのだろうか?
「前線司令部から命令が届いたのでな、二人にも作戦内容を伝えるために来てもらった」
班長が話し始めたのは仕事の話だった。
あまり良くない顔をしていたので、てっきり良くない話だと思っていた私は少しだけ胸を撫で下ろす。
しかし、班長の表情は依然として険しいままだ。
班長は、私達を書類の重ねられた机に座らせる。
【第318戦車中隊 資料】【西部戦線における作戦概要】【ゲーニッヒラントにおける異能者運用のイデオロギー】【西部戦線一帯の先一週間の気候予測】
机の上に置いてある資料を眺めていると、班長が私達に珈琲を持って来てくれた。
「飲みたまえ」
そう言って差し出されたカップを受け取ると、私達はそれには口を付けずに机に置いた。
私達に珈琲の入ったカップを渡すと、班長も書類が山の様に重ねられた自分の机に就く。
「イヴァン中尉には既に伝えたが、我々の任務は味方戦車の護衛になる。 目的地であるE03地点まで無事に戦車中隊を送り届けるのが我々の任務だ」
「目的地は、何処になるのでしょうか?」
私が質問すると、隊長は少しだけ居心地が悪そうに答えた。
「中隊が向うのはブランククス市内だ」
「市街戦に戦車の部隊を投入するんですか?」
「その様だ。 まあ……、上にも考えがあるのだろう」
私達が隊長の事を、「他には?」という様な目で見ていると、隊長もそれに気が付いたのか再び任務の内容を話し始める。
「私達には戦車の護衛の他に、もう一つ任務が任せられている。 【帝国の剣先】という名前を聴いた事は?」
隊長が口にした名前は、連邦兵の間では知らない者は居ない程に有名な名前だった。
【帝国の剣先】とは、EU内でも屈指の軍事力を持つゲーニッヒ帝国のとある兵士の呼び名のことだ。
いわく、戦車の装甲を物ともせず、たった一人で敵の陣地を制圧する赤髪の乙女だとか。
戦場ではよくその手の噂か立つ。 そして何故かそれらの対象は美しい少女が多いのが不思議で胡散臭い理由なのだが、今回の相手は噂では無いらしい。
一度だけなら噂と一蹴されたかもしれない、一つの戦場だけなら士官が自分の失態を誤魔化す共通の作り話だったかもしれない。
が、【帝国の剣先】は異なる戦場で複数回目撃されている。
まあ尤も、今の世の中そんな奴がいるのは珍しくも無い。
「ええ、まあ……もちろん知ってはいますが」
「むしろ知らない人の方が少ないと思います」
私とアリスの反応に、班長も「そうだろうな」と言って説明を続ける。
「そいつが帝政ゲーニッヒの軍と共にこの戦場に遣って来ているらしい」
なんとまあ! EUの精鋭である帝国は、南方のアトラス大陸に向かったものとばかり思っていただけに内心少しばかり驚いてしまう。
なにせ、この戦線に居るEUの軍はこちらの演習が原因で、急いで編成された急ごしらえの部隊が殆どだからだ。
上もそれが狙いでこの時期に西方で演習を行ったのだろうが、よもや帝国軍が居るとは。
「それは……確かに厄介ではありますが、私達の任務に何か関係があるのでしょうか?」
「在る、大いに在るとも。 奴は高い確立で戦車を狙ってくる」
確かに、戦車の装甲を物ともしないなら、此方の戦車を狙ってくるのも当然かもしれない。
それが事実だからだろうか、班長はこれから相対するだろう相手の事を考え、先程よりも険しい表情をする。
「なら、私達はそいつを戦車に近付かせないようにすれば良いんですね?」
「恐らくは。 まあ、何か判ったならまた呼び出す」
確かに、歩兵が前進するのに戦車は邪魔だろう、潰せるのならば潰すのが普通だ。
連邦内でも一目置かれる程の実力者である班長が、ここまで警戒しているのなら、その
【帝国の剣先】もそれなりの実力なのだろう。
不安に思う一方、私は心の中で少しだけ期待もしていた。
先生の下で鍛えに鍛えた私の実力がどの程度の物なのか試してみたい、という気持ちが少なからず在る。
いや、むしろその気持ちの方が不安よりも強いかもしれない。
『フフッ、これではアリス少尉に偉そうに言えませんね、私も』
少し自重したように微笑むと、私は班長に問い掛けた。
「勝てるでしょうか、私達は?」
私が班長に懐疑的に問いかけると、隊長はニヤリと笑うと不適に答えた。
「君にしては随分と謙虚なことだ、勝てないとでも思っているのかね?」
その言場を聴いて私もアリス少尉も表情を緩めると、どちらもクスリと笑って答える。
「「まさか。 連邦の威信にかけて、必ず撃破して見せます!」」
「大変結構! 任務開始は明日の早朝だ。 それまでに充分な休息を取っておけ」
連邦軍西部ブランククス戦車駐屯陣地 2049・9・23 13時00分
戦車を待機させる為に、除雪作業が済んだ陣地の一角を、雪景色に紛れる為の灰色の迷彩を着た整備兵が、忙しなく走り回っている。
しかし、どの兵士も忙しそうではあるが恐怖に震えている者は居ないようだ。
その証拠に、そのあたりからは兵士達が談笑する声が聞こえてくる。
「なあ、戦車の中に湯沸し器って持ち込めたか?」
「別に駄目じゃないが、車内で熱湯風呂に入る事になるぞ。 魔法瓶にしておけ」
「それもそうだな、冷水には慣れっこだが熱湯は嫌だな」
「兵長、排気口が凍結しているのですが~?」
「ああ? お湯でも掛けとけ。 その辺にポットが在っただろ」
兵士が普通に話せているのは良い事だ、それだけ余裕が在る。
そんな事を思いながら戦車中隊の隊長コリンコ・フルシコフ大尉は、四号テントへと向かっていた。
「第318戦車中隊のコリンコ・フルシコフ大尉であります! 入室の許可を頂きたく!」
「入りたまえ」
コリンコが中に入ると、黒軍服の男が珈琲をカップに注いでいる最中だった。
「珈琲は砂糖入りで構わないな」
自分がやって来るのを知っていたのか、彼はちょうど珈琲を二つ用意してくれていた。
彼に促され傍に在った椅子に腰を下ろすと、彼は私に湯気の立ち昇るカップを渡して、自分も反対側の椅子に座った。
「さて、知っていると思うが、私は参謀本部直轄・第669特殊戦闘班班長のニコライ・ヴォルシニヒだ。 本国より少佐を拝命している。 此度の作戦では貴殿らの隊の防衛を任されている」
少佐の言場を聴いて、コリンコは机き、怒りを露わに立ち上がる。
「それです‼ 私はその件でお話があって参ったのです‼」
コリンコが声を挙げると、ニコライは小さく眉を顰める。
「急に大きな声を出すな、まあ珈琲でも飲んで落ち着きたまえ」
コリンコの声にも全く動じず、冷ややかな瞳でニコライは右手を差し出し、珈琲を勧める。
『全く。 この若造、無駄に声がデカイぞ』
ニコライはあからさまに不愉快そうな顔をして、元々悪かった眼つきが更に一層鋭くなる。
その時、ちょうど言葉を続けようとしたコリンコは、ニコライが此方に向けている視線に凍りついた。
まるで地獄の底の様な瞳から放たれる視線は暗に、こう伝えているのだと感じた。
『黙れ』と。
まあ、完全に勘違いなのだが、ニコライの気迫に押され、何とか落ち着こうと震える手で珈琲を口へ運ぶ。
『何て圧だ。 私は今、此処で殺されると感じ――ッ! 何だこれほんとに珈琲か⁉ 砂糖何個入ってるんだ⁉ 底に溶け残っているじゃないか!』
コリンコが飲んだ珈琲には、最早珈琲の苦味は無く、飽和して溶け残る程入った角砂糖の歯が抜ける様な甘さしかなかった。
『まさか! これも私を動揺させる為の策略だとでも言うのか⁉』
「大尉が作戦の件で納得が行かないのは理解している。 なにせ相手はあの……どうかしたのかね?」
コリンコが、珈琲の入ったカップを驚いた様な、なんとも渋い顔で凝視しているのを見て、ニコライが怪訝そうに声を掛ける。
「如何かしたのかね?」
「いッ、いえ、何でもありません。 それよりも今回の作戦です。 何故、『帝国の剣先』の居る戦場で、わざわざ戦車の部隊を突出させる必要があるのです!」
コリンコの怒りも当然だろう。
奴と対峙した戦車は皆、尽く廃車にさせられているのだから、自分達もスライスにされたく無いのは当たり前だ。
しかし、この作戦にもれっきとした理由があるのだ、聴かれたなら答えるしか有るまい。
「今現在、味方部隊がブランククス市内でEUの部隊と戦闘中だ、貴官の隊にはその救援に向ってもらう。 不意遭遇戦になるだろうが、これも参謀本部からの命だ、了解してくれたまえ」
「そんな説明で納得出来ると御思いですか⁉ 敵歩兵の良い的になるだけです!」
「ちゃんと歩兵部隊の護衛が就く事になっている」
「二個小隊と一個班ではカバーしきれません! 連邦はチェチェノグーシでの敗北から何も学んでいないのですか⁉」
どうやら今の説明では不満ならしいコリンコは、先程よりもまた一段と大きな声で捲くし立ててくる。
『全く、真面目で行動力が在って声のデカイ奴がこんなに面倒だったとは思わなかった。 まあ、そういう奴の方が軍隊には好ましいのだろうが……』
確かにコリンコの言う通り、市街地での戦闘において歩兵の十分な支援も無しに戦車を投入すれば、結果は眼に見えている。
そもそも、戦車という兵器自体が市街戦に向いていないのだ。
市街地では遮蔽物が多いために歩兵が隠れて行動し易い。
また、戦車の主砲は上方への攻撃が難しいうえに、市街地では小回りが利かない。
対して歩兵側は装甲の薄い戦車の上面部を攻撃し放題なのだ。
故に、戦車が歩兵の十分な支援無しに市街地に入るのは自殺行為である。
その事を我等の連邦は北コーカサスで起きたとある紛争で学んでいる。
が、それでも任務は任務だ、軍人である以上はその務めを果たしてもらわねば困る。
「今のは、私が参謀本部直轄部隊の隊長と判っての発言と捉えて良いのかね?」
それは、こと軍人にとっては絶対の効果の有る言葉だった。
軍とは絶対的な縦社会、そのトップに近い存在である参謀本部からの指示に楯突くという事は軍に逆らうという事だ、許される事ではない。
まして、ニコライは参謀本部直轄の佐官。 この場で殺されても文句は言えない。
先程よりも一層に圧の籠もったニコライの声にコリンコはまた体を強張らせる。
ニコライに対して、明らかに恐怖を感じている。
『ああ、こいつは駄目だな。 この程度で恐怖に染まるなら、戦場では生き残れない。 こいつは……、無能なのだな。 教育してやる時間も無い、手短に済ませるか』
「本部からの命だ、諦めたまえ」
「納得出来ません‼ 自分は――」
「黙りたまえ、これ以上は命令違反で処罰対象になるが?」
ニコライの言葉に、コリンコは顔面を蒼白にして恐怖に震えた。
そこへ追い討ちを掛けるように、再び圧の籠もった声で話す。
「貴官が如何しても作戦を認めないというのなら、貴官の隊の指揮は私が引き継ぐ事になるが、それで構わないのかね?」
「ッ⁉ それは…………‼」
遂にコリンコは恐怖で言葉を返せなくなった。
『……此処までか、さすがにこれ以上は噛み付いてこないだろう、私の見聞にも無駄に影を作る必要もない』
が、これはあくまで此方の視点での意見に過ぎない。
正直に言って、自分が同じ事をしろと言われたら断固として拒否しただろう。 それが無理だとしても、生き残るための保険をかける。
彼だって好きで政治家の家に産まれた訳じゃない。
上司によって意図的に殺されるのだ。 詫びる事すら、今の自分に資格は無い。
だが、それでも仕事は十全にこなそう。 私は軍人が職業なのだ。
味方の屍を積み重ね、その上に今の自分の地位や功績、そして自己がある。 今更変える事など出来ない。
自分は割り切るのに数年かかった。
果たして、凛には如何か?
凛、アイツは潜在的な異常性を持っている。
味方殺し、殺人、その他の常人が拒絶感を持つ行為に対して、凛は本質的な耐性を持っている様に感じる。
殺しに慣れるのは兵士にとって基本だ。 けれど、凛は意図して殺しに慣れないようにしている。 その上で感情と理性、自己と任務を完全に割り切っている。 殆どの場合、感情よりも仕事を優先するのは当然だ。
まして軍人、迷っていれば此方が殺される。
だが、凛のそれは他の者がする死への耐性とは決定的に違う。
他者の死を意識しながらも、殺人という行為への抵抗を完全に消している。 いや、抵抗を感じながらも十全な行動を出来る。
幼い頃から狩猟によって死と触れてきたアリスとは違う、もっと歪な何か…………。
それは、きっと触れてはいけないもの。
凛が話していないなら、それは触れられたくないもの。
ニコライは深い溜息と共に珈琲の入ったカップを口に運ぶ。
戦闘前には邪念が過ぎる。 将校が思考を止める訳にはいかないが、考え過ぎは自分の寿命を縮める事になる。
ニコライは頭の中を切り替える為、珈琲の入ったカップを傾ける。
『ふぅ、やはりこの位は砂糖を入れないと苦くて珈琲は飲めんな。 凛とアリスは珈琲を飲み忘れていったが、イヴァンの奴も飲まないで行ったな。 凛ならば判るが、他の二人も遠慮したか? 性格に似合わず繊細な奴等だ』
と、そこでニコライは思い出す。
『凛の奴、初めて会った頃は俺が淹れた珈琲を普通に飲んでいたような気がするが…………、まあ、余り気にする事でもないか』
「失礼……しました……」
顔を蒼くしたコリンコが四号テントから立ち去り、テントの中にはニコライが一人残った。
「はぁ……、連邦の末端はやはり再教育の余地ありか。 凛達には勝てると言ったが、隊長クラスがあれでは少し怪しい……」
『やはり』と、ニコライは思う。 最後の大戦から約一世紀、各国の兵器は確実に強くなっている。 しかし兵士その物は弱くなった。
今の時代、紛争やテロ以外で戦闘を経験した事のある国はどれ程ある? 殆どの兵が訓練だけを積んで、実戦の経験は皆無に近い。
国家が闘争から離れた事も大きいのだろう。 国際協調の高まる中で、下手の波風は起こせないのは当然だ。
政治と軍事の思考が同じ方を向かないせいで国家レベルでの戦闘能力が低下しているのだ。
そこで、ニコライはふと気付いた。
『今回の作戦は参謀本部、もっと言えば軍部派閥が主導で動いている。 だから私の班が此処に居る。 対して、コリンコの父は政府の高官だ。 作戦の始動にあたって軍部は政府とかなり揉めた。 となれば軍部も動き辛くなる……、前線に政府側の部隊を置く? この状況で政府側の部隊が手柄を挙げては……。 違う、逆だ。 もし政府側の部隊だけが損害を負えば……、なるほど。 敵の手で粛清とは、こんな事を考え付くのはイワン二次長か、それともカラシニコフ総長か、どちらにしても恐ろしい事を考え付く事だ』
ニコライは自分達が任務をどう遂行するべきか思考する事にした。
『参謀本部は戦車中隊に損害が出る事を望んでいる、というより政府側の部隊に損害が出る事を望んでいる……、私の班には中隊の護衛が任されている。 私がするべき行動は何だ……。 ん?』
そこで、ニコライは本部から戦車中隊の資料が送られている事を思い出す。
ニコライは【第318戦車中隊 資料】と書かれた書類を手に取ると、再びその中身に眼を通す。
『この資料の名簿の並び、年齢や階級で無いなら一体何だ……。 それにこの文字の色、何かで分けている? コリンコ大尉は赤色、副隊長のボリス中尉も赤、副官もだ……、部隊のトップに赤色が多いな……』
そこで、ニコライは赤色で書かれた兵士の経歴に一つの共通点があるのを見つけた。
『旧所属? 何故そんな項目を作る必要が…………‼ なるほど、赤色は政府が設置した部隊、もしくは政府に近しい兵士か! ならその兵士が乗る車両を撃破させればこの任務を達成出来る! また一つ私の手柄が増え、本部も邪魔な政府の勢いを削げる。 素晴らしい! 正に相互利益という訳だ。 彼等には悪いが、連邦の勝利と私の保身の為、ブランククスに散って貰おう。 この手の任務なら……凛が最適か。 若人には辛い仕事だが、彼女なら遣り遂げるだろう』
そして、ニコライは傍に置いてある電話と取ると、大急ぎで副班長へと連絡を取る。
すると、電話の呼び出し音よりも早く、受話器の向こうの相手が電話に出た。
「はい、班長いかがなさいました?」
受話器の向こうに居る起伏の無い声に向かってニコライは手短に用件を伝える。
「桂木凛中尉を直ちに四号テントに招集してくれ」
ニコライが用件を伝えると、受話器の向こうの相手も素早く応答を済ませる。
「了解しました」
受話器を置いて、ニコライは少し自己嫌悪を覚える。
「国家と自分の為に、若い世代に手を汚させるか。 嫌な大人になってしまったな、俺は」
今回の部分は少し長いので、二回に分けての投稿になります。
ここまで読んで下さった皆様、引き続き本分を楽しんで頂けたら幸いです。