09 その9
エリカは淀みなく話をつづけ、ひと息ついた。
僕はその間、ずっと口を閉ざし、彼女の話に耳を傾けながらこう思っていた。
もし仮に、彼女の言う『エリカ』がいたのだとしたら、僕の知っている知り合いにそっくりだ。碧い目をしていて、白い毛をしていて、賢くて、そして、人にやさしい。しかも名前まで似ている。一字違いだ。発音までは責任を持てないけれど。
もっと昔を思い出してみる。
小さい頃、8歳のころ、僕も性質の悪い風邪を引いた。
しかしそのとき、エリアは来てくれなかった。もちろん、夢の中にも。
しかし、彼女の元へ行っていたのだとしたら、一応のつじつまが合う。それから、エリアはあの日を境に、消えた。
「聞いてくれる? 最後まで」
エリカは、また口を開いた。
「去年、カズ、話してくれたよね。エリアのこと」
僕は「うん」としか相槌が打てなかった。雪を背にして彼女は語る。
「あの話をしてくれた時、すごいビックリした。だけど、それよりうれしかった。あの時、わたし、わさびが死んじゃって、落ち込んでたし、誰とも話したくなんかなかったんだよ。一人ぼっちになりたかった。でも実際そうなってみると、すごく怖かった。それを気持ちいいと思っている自分いた。怖かった。だから、カズが誘ってくれて、一人じゃなくなって、それからエリアのこと話してくれた時、すごくうれしかった」
僕だって嬉しかった。「私がいるよ」って言ってくれて、本当に救われたのだ。
「私、それから探した。もしかしたらって思って、今年も探してた。『エリカ』……エリアのこと。カズに黙って。だから、裏山でカズに見つかったときは心臓が止まるくらいびっくりした。でも、理由は聞かれなかったから、ホッとした。本当はね、エリアを見つけて、驚かせてやろうと思ったんだ。でも、その時ね、わかったんだと思う」
その先を、彼女は僕の目を見て瞬きもせずに言う。
「わたしにとって、もう、『エリカ』よりもカズの方が大事になってたんだなって」
その言葉に、僕の呼吸が止まった。それから、エリカは、
「もう、十年前の私じゃないんだって。おばあちゃんもいない。『エリカ』もいない。もう子供じゃない。大人はもう近いんだって。だからね、最初はこんなつもりじゃなかったんだ。あの話を聞いた時、本当は、カズのところにエリアを連れて行って、リンドヴルム王子の魔女みたいに、エリアを渡してトンずらしようと思ってた」
なんで。
その言葉が口から出てこない。
でも、エリカはその理由を当然のように言った。
「だって、カズはずっとエリアを見てたから」
確かに、以前、僕はエリアを追っていた。去年までの僕は、たしかにそうだった。
しかし、今は違う。
でも、それより先にエリカが口を開いた。
「わかるよ。どこか遠くを見てるんだもん。昔の私みたいに、近い所じゃなくてどこか別の遠いところを見ていたから。気づいていないと思ってたかもしれないけど、気づいてたよ私。私の目を見て、あなたは違う対象を見てた」
「……違うって」
「違わないよ」
人の話なんかエリカは聞いちゃいない。続ける。
「……だけど、それでもいいって思ってたんだよ。別に、エリアが一番でも。さんしょうを探してこの山に迷い込んだ時、私、エリアも絶対に見つけないとって思った。いるっていう気がした。だけど、」
しかし、彼女の声が、次第に尻すぼみになって、震えてきた。
「身体が急に力が抜けて、私、歩けなくなった。身体が痛くなって、お腹が空いて、もう、気力が出てこなかった。私、なにやってるんだろう。バカみたい。そう思って、もういいかななんて思って、目を閉じたの。そしたらね、夢を見たの。『エリカ』がいたの」
僕は息を呑む。
「『エリカ』がね、来てくれてありがとう、って言うの。私は、そうじゃないよ感謝してるのはこっちだよ、って言っても、『エリカ』はありがとうって繰り返すの。そして大丈夫って言うんだよ。何がって聞くと、何でもって。それから『エリカ』はまた私に背を向けて遠ざかっていく。私はそれを追うこともせずに、ずっとその場で目を閉じてた。それで、気づいたの。あ、『エリア』はカズのところに行ったんだって。私の『エリカ』はもういないんだって。じゃあ、もういいじゃん。私、いらないじゃん。私じゃダメなんだってわかってたはずなのに。でも、そう思うと、涙が止まらなくなって、そのまま、死んだみたいに動けなくなって、気を失った……んだとおもう」
僕はエリカの言う意味を否定したかった。したかったが、なんて声をかけても、言い訳に聞こえて他人事のようだ。確かに僕がエリアを追い求めていた過去は否定できない。
違う。そうじゃない。それは違う。何かを言え。否定しろ。そういうことではないはずだ。
そんな自分がいたにもかかわらず、結局、彼女が口を開くのを僕はただ見ている事しかできなかった。
彼女の震えが次第に増してきた。
外からは、洞穴を覗き込むように雪風が音だけを轟々と鳴らす。時折、その音に何かが混じる。
何か。その音というより呪いとも紛う声に、しかし、聞こえていないのか、エリカは続けた。
「そしたら、声が聞こえたの。『わたしはここにいるよ』って。昔を思い出した。それで、私もここにいるよって、ずっと思ってた。叫ぼうとした。さんしょう、私もここにいるよって。でも、さんしょうは来てくれなかった。その内に、本当に力が抜けてきて、そしたらね。カズ、来てくれた。」
エリカの思いつめた表情に少し躊躇いが見えたのを僕は感じ取った。
外からは、再びその声が強く響く。
僕の中で、答えは既に決まっている。後は、どう言えばいいか。
あとは――。
「声がした。聞こえた。エリカ――って、カズの声。私どうしていいかわかんなくなった。エリアの次でいいって思ってた。けど、あの声を聴いて、やっぱりそれじゃあ嫌だって思った。私の名前を呼んでくれて嬉しかった。みつけてくれて嬉しかった。ずっと私の目を見てほしかった。でも、」
エリカの瞳を見つめる。
今しかない。そう思った。
僕は、本心を言わなければ、告げなければならない。形にしないと、他人には伝わらない。
エリカの瞳を見つめる。その碧い瞳は、間違いなくエリカのものだった。その瞳の中にいる僕の目は、間違いなくエリカだけを映し出していた。
一つ、答えに至る。
必要なのは、否定する言葉でなく、肯定するための気持ちだ。
彼女の言葉を遮るように、僕は彼女へ手を伸ばした。
「エリカ!」
エリカの両肩を掴むと僕はエリカをそのまま引き寄せ、抱きしめた。
エリカから、白い息だけしか漏れでなくなったタイミングで、僕は笑った。
「ばかだなあ、実に君は馬鹿だ」
華奢な体のどこにそんな卑屈さを持っているのかわからないが、それごと僕の腕の中に捕まえている。
彼女がどんな表情をしているのかはわからない。僕に見えるものは少ない。
僕の口のそばにある彼女の耳が、赤く、静かに言葉を待っている。
だから、僕は尋ねた。
「ねえ、僕がどんな気持ちでいたか、エリカはわかる?」
「……ううん」
気持ちを形にして伝えられたなら、どれだけ彼女は驚いたろう。僕の本当の気持ちを。
少し自分でも強張るのを感じる。
「実は、4月のあの日から、僕はずっとエリアのことわすれてたんだ。その分、僕は、」
腕の中でピンと体が跳ねた。
「ずっと、エリカのこと思ってた」
時が止まったような気がした。
「ずっとだよずっと。自分でもなんで飽きが来ないのかわからないくらいずっと。会ってない時も、ずっと。それに、エリカのこと以外にも、僕はたくさん覚えてる。わさびのことだって僕は知ってる。もちろんさんしょうだって知ってる。それにエリカだって、いなかったら寂しいし、今日はずっと怖かったし、僕はそれでもエリカのこと覚えてる。いつか、エリカが『私がいるよ』って言ってくれたのだってちゃんと胸に刻まれてる。」
「……うん」
外で響いていた声が、次第に弱まってくる代わりに、僕の声は大きさを増す。
「エリカなんだよ。一人ぼっちだった僕を助けてくれたのは、エリカだ。そりゃあ、エリアは命の恩人で親友だけど、僕はあの場所でエリカに話して以来、エリアのことをだんだん思い出せなくなっていったんだよ。僕にとって、僕の十年分の呪いを解いてくれたのは、エリカなんだよ。エリアよりも。そのくらい、僕は、」
精一杯息を吸って、こう言った。
「僕は、エリカのこと、大切なんだ。愛してる。」
だから、とか、でも、なんてつけなくても分かってくれるはずだと信じる。
「君の言う『エリカ』の代わり、僕じゃダメかな」
エリカの腕が僕の体を強く締め付けた。心地の良い痛さが、次にくる言葉の合図として僕に響く。
エリカの声がした。
「本当に?」
「嘘なんかつきません」
「私、いやな女だよ?」
「僕にとってはそれでも一番です」
「本当の私知ったら、嫌いになるよ」
「嫌いになった後、もっと好きになるように精進します」
「つらく、ない?」
「むしろ、嬉しい」
この後も、決まりきった答えを彼女は延々僕に問いかけ、ようやく、根を上げた。
「……他の犬に浮気しない?」
「絶対に、しません」
抱きしめた腕が落ちる速度が不意に重なり、二人の手が触れ合う指を絡めると、
そのまま、
世界中から、声が止んだ。
数刻を経て、嘘のように雪風が治まり始めた。
今度は僕が肩を借りる形になってその洞穴から這い出ると、シャバを静観するように世界が開けていた。
白い。
白い雪。
その白い雪の中に、一本の道が通っている。
よく見てみれば、犬の足跡のようにも見えるその道は、山頂の方へと繋がっていた。
あの時に見た、白い影は、姿を消していた。
その足跡に何を見たかエリカは僕に「ねえ」と前置きを置いてから、こう尋ねた。
「行かなくて、いいの?」
「いい」
喰い気味に僕は返事をする。エリカは口をわずかに尖らせた後、すぐに嬉しそうな声で、
「……そっか」
「うん」
「ありがとう、で、いいのかな」
「ありがとう」
「私のセリフなんだけど」
「いいや、僕のセリフだ」
「……まあいいや」
そう言うと、その方角をしばし見入る。
足跡でできた道の行く先、雪の彼方へと消えゆくその輪郭は、むしろ鮮明にその姿を浮かび上がらせている。
しかし――。
しかし、これでいいのだと僕は思う。
とどのつまり、僕らは、過去に戻れるわけではない。
仮に幸せな可能性が過去にあったとしても、それが得られなかったからと言って、今から目を背けていい理由とはならない。
だからこそ、
僕ら二人はその足跡とは逆の方へと歩き出した。
その先には、世界が開けていた。
その後ろには、二人の足跡だけが、ただ、残っている。
僕らは、もう、その姿を見ることはなかった。