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07 その7

 子どもの時分には一日もかかったのに、加えて今日は天候が最悪なのに、僕はその山までの道を1時間ちょっとで走破した。

 しかし、どれだけ目を凝らして確認してみても、やはり足跡はない。それでも、僕は山を登り始めた。

 肌に突き刺さる雪と風が痛い。口を閉めるのを怠るだけで、自分の熱が白く漏れ出ていく。

 振り返ってみると、自分の航跡が確認できた。一人分の足跡はどこからどう見ても僕の足跡で、自分がここまで歩いてきたことを保証してくれる。

 おまえはよくやってるよ。だってほら見てみろ、ここまで歩いてきたじゃないか。

 そんな言葉で僕に発奮を促す。

 しかし、もう一方のそいつが僕の後ろから、毒々しく囁いてくる。

 見てみろ。お前は一人なんだ。こんなところに来ても、誰もいないじゃないか。

 それから、そいつは噂話をしている学校の奴らみたいに、いやらしくも、こんな言葉を付け足してきた。

 おっと、言い忘れてた。もちろんエリアもな。

 それでも、その声を無視すると僕は前を向きなおして、再び山を前へ、上へ進む。風がまた増した。僕は止むのも待たず、登るために足を前へと進める。


 妙な浮遊感に襲われた。足の指が何も捉えなくなり、急に力が消えた。

 急に目の前が雪に変わる。自分では気が付いていなかったけれど、どうやら足がもつれていたらしい。結果、ちょっとした窪みも加わって、もし前が崖であれば即死のダイブが起きた。

 僕は顔面から雪に突っ込んでいた。

 冷たい。

 人は死んだあとはただ土の下で眠るだけだと言われているが、もしかしたらそこはこんなふうに冷たい場所なのかもしれない。自分が死人でないことを確かめようと、僕は足の指先を動かそうとするが、感覚は既に無くなってきていてわずかしか動かない。

 しばらくそのまま死んだ。

 目の前が真っ暗になった。瞼を落として、その冷たさに一人染み入る。

 そこにはエリアがいた。瞼を開いてみる。

 僕が目を開くと、エリアはもういなかった。

 生き返った。

 しかし、シャンとしようにも、一度濡れてしまった花火のように、僕の体はしなびて駄々をこねだす。せっかくここまできたんだから、もう少し頑張ろうよ、と言い聞かせても嫌だと泣き喚く。

 両手と相談して、僕はどうにか立ちあがることができた。

 あの声のことを思うと、まだ、立つことができた。

 夢遊病者のようにふらふらと歩き出す。吹雪でもう前もはっきりとは見えない。しかしその声に導かれるように、僕は着実に前へ進んでいた。目を開けても角膜に雪が積っているみたいで、雪以外を映し出すことはない。だから、耳を何とか研ぎ澄ませる。

 声。

 また、声が聞こえた。

 長い、長い、長い、声だった。

 その出所は、以前よりも確実に近い場所からだった。

 僕は、またふらふらと足を進めた。いつの間にか、僕が小さい頃エリアに助けてもらった、エリカとキスをしたあの公園を通り過ぎていたことに気が付いた。しかし、今は想い出のエリカではなく現実のエリカに会いたかった。

 僕はその薄気味悪い山の、薄気味悪い一部になって、歩く。ただ、歩く。頭の中には、ぼやけていた輪郭が、次第に明瞭なその形をもって現れる。

 僕はその瞬間、更に大きく足を踏み出す。

 この先に、エリカがいるのだ。


 さらにしばらく歩いた。気が遠くなるくらいの永遠の白が、世界のすべてのように感じた。もう何処まで行っても、彼女はいないのかもしれない。そんな考えがひっきりなしにやって来る。

 もしかしたら――。

 僕は目を閉じる。足が止まりそうになっても何とか動かす。

 もしかしたら、なんて思う。

 実はエリカはもう誰かに発見されて保護されているのではないのか。今頃は温かい暖炉の前で、暖かいホットミルクでも飲んで、体中にかぶせられた毛布からひょっこりと顔を出して、あの、優しそうな笑顔で、遅れてやって来た家族と一緒に、家族団らんの時を過ごしているのではないだろうか。

 昔の自分とそのエリカの姿が重なった。

 だとしたら、僕はとんでもない道化師だ。なら、今度会ったときに悪口の一つでも言ってやらないと気が済まない。

 ほら、僕の言ったとおりだったろ。さんしょうはお腹を空かせてたんだよ。だからビーフジャーキーのある祠なんかに来たんだ。これからはやっぱり、ちゃんとしたお供え物しないとな。

 そうしたら、彼女はむくれた後、でも、笑うかもしれない。そしてこう言うかもしれない。

 そんなことないよ。犬神様は喜んでるよ。

 それを見て、僕も多分笑うと思う。

 そんな、都合のいい妄想に囚われていれば、このまま横になって眠ってしまえれば、幸せかもしれない。

 痛みが表皮を突き破ってやってくると、現実が僕の目を覚まそうとした。だけど僕の目は、幸福な願望を現実のものにしようとして駄々をこねている。

 瞼をの裏には、エリアがいた。思い出だってちゃんとある。こうだ。

 小さい頃の僕が裏山から手をあてて遠くを見ている。狭い田舎町を飛び越して大きな海へと繋がっているのが見えるのだ。僕はその景色が大好きだった。なんといっても、何もない田舎町とは違い、外の世界は無限大の可能性にあふれている。こんな片田舎に好き好んで住む奴はとんでもない大馬鹿野郎に違いない。

 大きく声を出せば、違う山の稜線から返事が返ってくる。それを見て僕は笑っているのだ。

 そしてその横には、


「私がいるよ」


 僕は目を開いた。


 目を開いて足を踏ん張って体を何とか保つと、崖の上に、何かが見えた。僕はそれが一瞬エリカなのかと血眼になって、その姿を見出そうとした。

 いた。

 そこには、碧い、空のような色が、僕の目に映った。降りしきるというより叩きつけてくる雪をも飲み込み、僕はこれでもかと空気を吸って、

「エリカ―――――――――――――――――――!」

 体の底から叫んだ。しばらくすると、きんとした耳鳴りが僕を襲ってきた。そして、

 声が返ってきた。

 オォ―――――――ン。

 当然、エリカではないとわかった。しかし、僕は何度も涙と雪でべたべたになった目をこすった。その周辺がひりひりするくらい真っ赤に燃えるように熱を持った。

 吹雪きちらした雪山の崖上に屹立する影が、そのシルエットが、僕にその姿をはっきりと見せた。

 毛並みの白く、碧い目をした犬が、見えた。

 ウォオ―――――――ン。

 そして、次のその瞬間、僕は崖下にある影を見つけた。雪はすでにその体の上に積もっていて、その量から、1時間はそうしているのではないかと見当がついた。僕の口からは、「あっ」と間抜けな、意識もせず発せられる断続的な音が漏れ出る。

 体が、ひとりでに、前進し始める。

 ふと、声が聞こえた。

 今度は女性の声で、僕がよく知っている人物の声だった。現実なのか妄想なのか、いずれにせよ、それは彼女の声だった。

 おーい。誰かー。聞こえますかー。おーい。

 タイムマシンのような一瞬に呑まれる。ふいに、僕の中に、その情景が思い出された。


 品評会よろしく彼女はじろじろと僕を観察してくる。すると、彼女は獲物を見つけた猫のような顔をした。僕の通う高校に彼女の人差し指を向けて、目を輝かせて言う。

「もしかして、高校生? あそこの高校の2年生?」

 その通りだった。僕はあの時2年生だった。

 だから、別に、あの夏の日に、僕が裏山で彼女と知り合ったのは、別にたまたまなのだ。

 その通りだった。あのときには、別に、火・土に待ち合わせなどしていなかった。

 でも、だけど――。


 そんなことを思っていると、僕はいつの間にか、現在に帰ってきていた。そして白い息を吐きながら、僕は動き出す。

 あの日から、僕らはたくさん時間を過ごしてきた。主に犬と裏山のことだったけれど、確かに一緒に過ごしてきた。

 だから、今の自分なら、こう言える。

 今日この日、この場所で、僕がエリカと出会ったのは、たまたまではない。

 この時、僕の中で答えが完全に決まったのだと思う。

 僕はゆっくりと歩いていた足を速め、次第に前のめりに転びそうになると、雪も気にせずもがく様に走りだす。

 その先にいるエリカを求めていた。早く会いたくて、顔を見たくて、無様に何度もずっこけた。髪の毛はびしゃびしゃだし、顔は崩れるようにブサイクだし、体の感覚はあんまりないけれど。

 僕はついに、エリカを見つけることができた。

 

 僕はすぐにその頬に触れ、順々にエリカ本人であることを確かめる。間違いない。本人だ。そして、エリカの体からはまだ生命のぬくもりを感じ取ることができた。

 ホッとしてもいられない。周囲を探す。何か、屋根のある場所、雪と風を防げる場所――。

 何かないか。目を澄ます。耳を研ぎ澄ませる。何か――。

 すると、吹き荒れる風の中に、ふと、異音が混ざっていることに気が付いた。

 その方角へと目を凝らす。

 白い一帯の中に、うっすらと黒が見える。

 洞穴ほらあなだ。

 僕はエリカを何とか雪から引っこ抜いて、エリカの雪の分まで背負って、その洞穴へと最後の力を振り絞って、ゆっくりと、それでもエリカを落とさないように、進んだ。

 あと10メートルくらいの距離まで来た時、耳のすぐ側からささやかれた言葉を僕は聞き漏らさなかった。

「カ……ズ……」

「エリカ!? もうちょっとだから!ごめん。もうちょっと我慢してよ」

 僕の背に乗って、ただ揺れていただけなのかもしれない。しかし、エリカは確かに僕の言葉に意志を持って頷いてくれたと思う。


 何とか、その洞穴まで到着すると、僕の関節が急に無くなったように崩れ落ちた。

 何とかエリカを降ろして、壁に寄りかからせる。

 すぐに濡れているジャケットを脱がせ、代わりに、僕がジャケットの下に着こんでいた薄手のダウンをかぶせる。エリカの服は奇跡的にジャケット以外ほとんど湿り気すらなかったため、命の危険はないようだった。

 枯れ尾花のようなエリカの髪先からは水滴が落ちてくる。

 エリカはこの時、すんなりと僕のすることを受け入れ、されるがままだった。

 一通り、処置が済んでから、僕は尋ねる。

「エリカ、大丈夫か。僕が誰だかわかる?」

「うん」

 僕はその声を聴くと、ため息といっしょに「よかった」という正直な声をついた。

 しばらく僕らは見つめ合って時間を過ごした。

 正直、僕はエリカにたくさん説教してやるつもりだった。忠告を無視するのはいけないことだとか、周囲の人に心配をかけてはいけないとか、そんな大人の言うことを大人の代わりに、エリカに教育してやろうと思っていた。

 でも、エリカの空色の瞳を見た時、僕の中のエリアに対する悪い感情は、雪が解けるみたいにどっかへと行ってしまった。

 エリカに「ごめん」と謝ろうと思った。

 僕はエリカの隣に腰を落ち着けた。その際に、エリカの手に、僕の手が触れた。

 その時だった。


「ごめん……なさい」

 先に謝ってきたのは、エリカだった。

「ごめん、なさい」

 エリカは涙声で、僕に向かってその言葉だけを何度も繰り返した。 

 僕は、黙ってその言葉を聞いていた。重ねた手からは、小刻みな振動が感じ取れた。そして、エリカはそのうち、声をあげて体をしゃくりあげながら泣き始めた。8歳の子どもみたいに泣いた。

 次第に、ゆっくりと、しゃくりあげるような呼気吸気が収まった。

 エリカは、何度も鼻をすすっては、唾液をのんだ。

 それから、それも収まると僕はやっと、さんしょうのことをエリカに伝えた。あの祠にいたこと。今もちゃんとあの場所にいるはずだということ。その言葉を聞いてエリカは「よかった」とずっと小さな声で繰り返し言っていた。

 そして、僕らはこれからどうするかを考えなければならなくなった。

 自分でも馬鹿だと思う。家を出る際にジャケットを取りに部屋に言ったまではいい。しかし、机に連絡手段を忘れてきたのだから、やっぱり僕は馬鹿なのではないかと思う。

 これじゃ、二次遭難じゃないか。

 でも、そんな自虐をした僕に、エリカは笑顔で答えてくれた。

「嬉しい。来てくれた。それだけで、嬉しい」

 そう言われると自分は馬鹿じゃない気がしてくるのだから、僕はやっぱり単純で、自分は生まれ持っての天下一お馬鹿なんだと思う。

 

 しばし、吹き荒れる風の音が洞穴を支配した。一向に天候が回復しそうな見込みがない。

 一人あーだこーだ考えていた僕に、エリカが「ねえ」といったので、僕はエリカを見た。

「覚えてる? リンドヴルム王子」

 もちろん、忘れることもない。竜の王子様と羊飼いの娘の話だ。

「私、あの時言ったよね。自分がこの話の王子なんだと思ってた、って」

 確かにそう言っていた。それから、自分に犬が生まれても多分大事にするとも。

「昨日まではね、そう思ってたの。私は王様となったリンドヴルム王子で、さんしょうが王妃様」

 とすると、さんしょうはエリカを人間にするのだろうか、などと野暮な突っ込みを入れてはいけない。当然、僕はそんなことは思っても言わなかった。

 言わなくてよかったと思う。

「でも、今日、私、わかった。私は王様じゃなくて、王妃なんだって。ガラスの城にいた私を、その、王様が助けに来てくれた。……わかるよね、言ってる意味。さっきから黙ってるけど、恥ずかしんだよこんなこと言うの」

「も、もちろん聞いております」

 そしてもちろん、僕だって自分なんかが王様だと想像すると恥ずかしいに決まっているのだ。だから、黙っていたのだ。他意はない。

「それで、あの時カズは答えてくれなかったけど、私、あれカズに聞いたんだよ」

「な、何をですか」

「そしたら、犬になった私のこと、愛してくれるかな。ってやつ」

 なんとなく、記憶にはある。けど、あれは独り言なのだと僕は思っていた。

 そんなドキマギする僕を見てエリカは、大きなため息をついた。しかしすぐに、優しい笑顔になって、続けた。

「でも、やっとわかった。あの時の答え。だけどね……」

 俯いたエリカはそれから先は言わなかったが、どっちなのだろう。

 今度は彼女ではなく、自分に問いかけてみる。もしエリカが犬だったら。

 犬になったエリカを想像する。

 メス。すらっとした肢体からするに、少なくともダックスではないと思う。毛並みは茶っぽい黒かな。頭だっていいし、運動もできる。足が速い。左利き……は関係ないか。

 顔だって整っている。それから、

 僕はエリカの目を見た。

 碧い目がそこにはあった。僕のが映っている。そしてそこにエリカがいた。

 声が、聞こえた。

 あくまで、様な気がするというだけの話が僕の体を過度に動かした。

 僕はエリカの後ろに広がる白の世界を必死に見つめた。その表情が変だったのか、エリカが不安げに訪ねてきた。

「どうしたの」

 エリカの方にまた目を移す。今度は先ほどの優しさの意味が変わっている。

「え、ああ。声、聞こえなかった?」

 なんてことを聞いているのだろうと、僕は自分を責める。これじゃあ、何だか、浮気男がそれをごまかすために、嘘をついているみたいな言い方じゃないか。どう取り繕うか、それとも、嘘みたいな本当の話をしようか――。

 エリカが「あ」と言って僕の後ろへ指さした。

 僕は「え」と言ってその方角を見た。しかし、何も目ぼしいものなど見当たらない。僕は深くため息をついた。

 そして、またエリカのほうを見やる。

 そんな僕の眼前に、タバコ一本分の距離で、碧い目があった。

 そのまま、彼女はその体を僕に預けてきた。それから、不安そうにつぶやく。

「今、カズ、どこか行っちゃうって思った」

「……うん」

 僕は彼女の頭に手をあて、その髪をなでた。彼女がその顔をあげると、僕の手は中途半端に宙へ逃げた。

「声」

 彼女がそう言った。

「え?」

「さっきの話。声。私、昔、聞いたことある」

「……うん」

「……聞いて、くれる?」

 その表情が一歩後ろへ距離を取った。暗闇を背後に、僕が首を振るのは縦。

 それから、エリカは、僕に昔話を始めた。


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