05 その5
冬が来た。
しかし、今年は例年に増して雪が多い。真っ白い雪山へと変貌した裏山からは生物の気配が消え、当然そんな山に立ち入る物好きなんていないから、誰かの足跡を見ることなんてないと僕は考えている。
僕以外の足跡はないはずなのだ。
僕は進学するわけでもないので、大学受験をする連中とは違い、この頃、割と暇に過ごしていた。なので、たまに散歩がてら裏山の方まで行くこともあった。
だけど、時おり、僕以外の足跡があるのだった。
その足跡を見つけると、必ず僕は裏山を登る。サクサクと音を立てて道を登っていって、たまに振り向くと、僕の分と誰かの分、合計二人分の足跡が、僕の後ろに残る。それを見ると、僕は一人分の足跡を再び追っかけた。アキレスと亀……ではないけど、たまにそんな気持ちになる。過去には追いつけない。
そして、その足跡が終わる場所には、いつも決まってエリカがいた。僕は呆れ半分、諦め半分に声をかける。
「だからー、冬場は登っちゃダメなんだってばー。おーい聞いてるかー」
そう言う僕に、彼女はすくっと立ちあがると、息を白く弾ませながらいきなり雪玉を投げてきた。僕は顔面で喰らう。
「あははー。ださーい」
サラサラしてればまだいいが、雪はもう重みを持ち始めていた。しかし、僕は少し役者になった。痛いのをこらえ、怒っているような表情をして、
「……もう用事は済んだ? じゃあ早く降りるよ。来ないと本当においてくからな」
「うん。……ええと、怒ってる?」
「別に。でもさ、何度言っても分かんないのかな本当に」
僕はちょっとだけ呆れ声で聞いて、大げさにため息づいて、返事はいらないとばかりに背を向けた。顔だけひねり横目で様子を確認する。
「……ごめんなさい」
エリカはそう言って持っている雪玉をポイすると、僕に頭を下げた。彼女のいいところだ、と僕は思う。僕が彼女の好きなところは、度を越えて何かをしないところだ。単純というか、従順というか。
「ぷっ」
僕はついつい吹き出してしまった。それに加えて、エリカが「え」とあっけにとられた顔をしていたものだから、僕は腹を抱えて笑い出してしまった。ようやく、演技だと気が付いたのか、エリカは「うわひどーい」とか「そういうところ嫌い」とか言いつつ、けれど、一緒に笑い出した。
でも、まあやっぱり、ひとつだけ気になる。
ひとつだけ、度を越えていることがある。何度も注意してるのに彼女は裏山に来るのだ。何故、周囲の大人に見つからないのかは不明だが、彼女は当たり前な顔をして、その場所にいるのだった。
エリカはダメだって言っても、裏山の祠へは必ず週に一回は来ている。
その日は、寒さが一段と体の芯まで浸みこむ日だった。
前日の終業式の後、エリカは裏山に僕を誘った。どうせダメと言っても行くのだろうからしぶしぶ僕は同意して、僕らは裏山へと向かった。学校ももうしばらく休みになるせいなのか、彼女は普段よりも楽しそうにつまらないことを僕と喋ってずっと笑顔でいた。多分、僕も笑顔だったんだと思う。
祠についた。その祠を前に、エリカは急に声のトーンを変え、僕に話を始めた。
「デンマークの昔話に、竜と人が結婚する話があるんだよ。知ってる?」
昔に聞いたことがあったような気がする。確か「リンドヴルム王子」という話だったはずだ。しかし、僕の知っている話が本場の者といっしょなのかわからなかったから、僕は「よくは知らない」と伝えた。
エリカは「そっかそっか」と白い息を吐きながら言って、それから、彼女は小学校の先生のような振る舞いをし始めた。
「こほん」と咳づいて、その詳細を話し出す。
とある所に、子どもに恵まれない女王がいました。女王は子どもがどうしても欲しかったのでした。それで、魔女に頼って子供を授かりました。しかも双子です。でも魔女の言いつけを破ってしまったので、一人は竜の子どもとして生まれたしまいます。それがリンドヴルム王子なのです。(デデーン ← 効果音を彼女は自分の口で言った)
彼は父親の王様に、息子として自分を認めてもらおうとしたけど、認めてもらえなかったんです。それで実力行使にでたのです。俺の嫁を見つけてれなきゃ喰っちまうぞーって。
そしたら、お嫁さん候補を王様は連れてくるんだけど、やっぱり、竜の王子なんか誰も好きになってくれないの。それで怒って、王子はその娘さんたちをみんな食い殺しちゃいました。
その内に王子が竜だって皆が知っちゃって、お嫁さんに来る人も見つからなくなったのです。しかし、王子に相応しい羊飼いの娘がいるって王様が聞いて、来るように命令したのです。怖いよね。死んじゃうってわかってても、周りのみんなのために自分が犠牲にならないといけないんだよ。
でもね、その子は、来る途中で老婆と出会って、呪いの解き方をいろいろ教えてもらったんだそうです。 それで、王子のもとに着いた後、老婆の言うとおりにしてみると、すると、なんと! リンドヴルム王子は竜ではなくなって、かっこいい人間の王子様になったのです。
その後、二人は結婚して仲良く暮らすのです。
大体の話の筋は僕の知っているものと変わらなかった。「それから幸せに過ごしたんだよね」と僕が投げかけると、彼女はほくそ笑み、「続きがあるの」と言って、その後のことについて話し始めた。
羊飼いの娘はお妃様になって、双子を生んだのでした。でも、その時、リンドブルム王子は王の位を次いで、戦場で指揮をとってて離れ離れだったのです。これが、不幸の始まりでした。
そこで、意地悪な人たちがいて、王妃が王に送る手紙を勝手に改変しちゃいました。「双子が生まれました。でも犬でした」って書いて送ったのです。でも王様はそれを読んで「犬を大事にするように」って返したの。優しーい。だけど、王様と王妃を嫌う意地悪な人たちは、策を講じて、なんと手紙を「息子を連れて国外に逃げろ」という内容に変えちゃったのです。ひどい。
それを読んでたくさん王妃は泣いたんだそうです。それから、王子たちを預けるとそのまま王家を離れてしまいました。
でも、ある時、ある山の頂上に登るとそこには王座がありました。そこで、白鳥と鶴が王座に就いているのを目撃したのです。王妃は閃きます。そこで昔に王にしてあげた、呪いの解き方をこの人たちにもやってみました。そしたら、魔法が解けて白鳥と鶴は二人の王子となったのです。王妃はその二人の王子に誘われて、ガラスでできた城で家政婦をして暮らすことにしました。
一方の、戦場から戻った王様は手紙が書き換えられていたことを知って、怒って王妃を探し回ります。そして、ガラスの山に行き着いたのです。愛の力です。王様は乗り込みます。当然、そこでいっしょに暮してた二人の王子は王妃を取られるのを嫌がったんだけど、王妃は王様といっしょに行くことにしたのです。
王様と王妃はまた一緒に暮らせるようになって、預け先から帰ってきた二人の息子と、幸せに暮らしたんだとさ。おしまい。
僕が押し黙っていると、彼女は、空から降る雪を一口含んで、それからため息をついた。
「たまにね、私、辛かったときに、この話を思い出してたんだ。この話の王子が自分なんだって思ってた。私も8分の1はデンマークじゃなくて日本の血が入ってて、向こうにいた時、それでからかわれたこともあったし」
僕は彼女に賭ける言葉が見つけられなかったから、「うん」とだけ答えた。
エリカは今度は破顔してそれから一笑した。
「でもさ、犬が生まれてきても、大事にしろって言える王様ってすごいよね。自分の父親からは竜の自分を息子って認めてもらえなかったのに、たとえ犬でも子どもを愛そうとしたんだもん。まあ、私も犬好きだから、私が王様だったら、多分王様とおんなじ返事するかもしれないけど」
「そんな、現実的でないことを」
「たとえばの話だよだとえばの。浪漫がないなあ。でも、呪いっていうのは怖いよー?」
彼女は懐かしそうに山をぐるりと見渡した。それから、僕の目を見て聞いてきた。
「もし、自分の結婚相手が人間じゃなくっても、愛さえあれば別にいいのかな。だったら、私はそれってすごいいいなって思うけど、カズ、どう思う?」
「うーん。どうだろうね。まあ、いいんじゃない。僕は少なくとも、エリアのこと種別とか性別とかなんか関係なく好きだったし」
そう言い終えた時、僕ははっとして一つの考えへ至った。
冬なのに汗が出てくるような感覚があった。
自分でもエリアのことを口に出したのはとても意外だった。
そして、そう思ってしまった自分が、一番信じられなかった。
そういえば――。
強引に自分の中に割り込んできたその感情をなんとか制して、僕はこんなことを思う。
なぜ、忘れていたのか。
そう言えば、あの日、4月のあの日、エリカにエリアのことを話して以来、僕はエリアのことほとんど思い出していない。思い出す回数が減っている。あの時、10年前に聞いたエリアの声は、いったいどんな声だったっけ。エリアの毛の長さは、顔は、そして、目の色は――。
その事実にようやく思い至った僕のこめかみのあたりが、恐ろしいほど脈打ち始める。
その一方、妙に僕は冷静だった。自分が、自分でないような感覚。僕が僕の体を出て、斜め上から自分を眺めているような、そんな他人事。一人悩む僕の側で、エリカがすくむように一度肩を上ずったのを見た。しかし、それが、『エリア』という単語のせいか、寒さのせいかは判別がつかなかった。
エリカはいつの間にか僕から目を離して、遠くを見ていた。
「……ねえ、やっぱり、会いたい? エリアに」
「……いや。別に」
それきり、僕らは黙ってしまう。嘘でもいいからどちらかはっきりすべきだった、という考えが今さら僕を叱責して、僕の体中が熱を持った。いつだって、僕は気が付くのが遅い。
こうしていても寒さは一向に増してくる。僕は混乱した頭のまま、もっともらしい一言を探し、結局「降りようか」だけをエリカに告げ、背を向けて自分の足跡をたどり始める。
踏みつぶされる雪の音より先に、囁くような声が、僕の耳に入ってきた。
「……犬に生まれてくれば、良かったかな」
寂しそうな声だった。
それからまるで自分に問いかけているような、とけて消えそうな声が、聞こえた。
「そしたら、犬になった私のこと、愛してくれるかな」
僕はその時、自分のことしか考えられなかった。記憶が、まるで呪いのように問いかけてくる。自分のアイデンティティを根本から覆す、恐怖の仮定が10年分の僕を否定しようとしていた。
お前は、忘れるのか。思い出せないんだな。エリアがどんな奴だったか。思い出が。
僕は精一杯、思い出そうと努める。10年分の思い出よりも、大切だったはずの記憶を一欠けらずつ拾い集める。なんとか、ゆっくりと、エリアのような姿がおぼろげにその輪郭を浮かべた。しかし、その辺の犬との違いが判らない。
その犬が、僕に向かってこう言った。
ふん、お前みたいな薄情者、お仕置きされちゃえばいいんだ。
僕ら二人は、黙ったまま、山を降りるだけ。僕らがいた証は、翌日には祠のビーフジャーキーを除いて全てが無くなっていた。