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04 その4

 寒かった冬はゆっくりと、しかし着実に、忘れていた熱を思い出していくように季節を変えていった。春が来ると、僕らは三年生になった。

 しかし、エリカにとってその季節の到来は、深い悲しみも一緒に運んできた。

 学校で、彼女は義務であるかのように時おり窓の外を覗き込むほかは、俯いてその時間を過ごす。僕は彼女の様子がおかしいことはすぐにわかった。

 そして何故か僕は避けられていた。特に何かをした記憶もない。経験上、こういう時はそっとしておいた方がいいと知っていた僕は、彼女の機嫌が治るまで待つことにした。

 そのうちに、妙な噂が僕の耳にも届いた。エリカが変な理由を知りたかった僕は、一言もぬけ漏れの無いように、全神経を耳に傾ける。やはり、胸のすくような話ではない。

 わさびが病気で亡くなった。

 正しくは、噂の語り部たちは犬が亡くなったと言っていたにすぎない。しかし、それだけでは納得のいかなかった僕は、たまたま彼女の母親とすれ違いがてら出会い、そして、真偽を訪ねたのだった。

 噂のとおりだった。僕はお悔やみの言葉を彼女の母親に伝えると、「ありがとう」そして、「ごめんなさいね」と返された。

 わさびの写真は以前エリカに見せてもらったことがある。かわいらしいオスの柴犬。もともとは祖母が飼っていた犬が生んだ子で、自分より10歳年下、でも散歩したがらない、変なの、と語るそのエリカの姿は、どこか家族を僕に自慢しているようにも見えた。

 その家族が死んでしまったのだ。

 ひどく落ち込んでいたエリカは学校でも輪をかけて静かな生徒になった。その分、噂の声は大きさを増したように聞こえる。本人は、そんな境遇をまるでサンドバックのように思っていたのかもしれない。学校ではそんな周囲を避けて暗く寂しい生活へと自らを置こうとしているように見えた。

 また噂話になるが、聞こえた話だと、仲の良かった友人とも大喧嘩したらしい。

 しかし、彼女が一人でいる理由を詮索して回る悪趣味な奴は意外に多いのだと思う。外見も目立つから、いやでも目に入るから、そう言った理由で人を共通の話題という俎上にのせ、自分自身の悪口を言われないようにしているのだろう。

 だけど、一番ひどい奴を僕は知っている。

 僕だ。

 その恩恵にあずかっている自分はもっとたちが悪い。と、自己嫌悪もする。しかし、友人もロクにいない僕は、その噂を止める手段など持っていなかった。

 悄然として、一人何か思い出したように窓の外を眺める彼女を見るのは忍びなかった。去年の夏、噂など気にもせず気丈だった彼女と同一人物のようには思われない。

 次の週が来た。

 一週間たっても、エリカはその悲しみから抜け出せていないようだった。それどころかむしろさらに深い絶望を味わっているように見えた。ぽつねんと一人椅子に根を張ったまま、机の木目を眺めている。

 僕には、何だか、昔の僕とその姿が重なって見えた。エリアがいなくなった、それ以降のもう一人の僕がエリカ・クリステンセンの体を借りて、そこにいるみたいだ。

 見ていられなかった。

 だからその日、僕は決心した。噂を止めることなどできなくても、他に方法はあるはずだ。

 学校が終わると、一人で帰路を歩くエリカを僕は追いかけて、呼び止めた。

「なに」

 死人のような目からは、あの輝きはない。

 やはり、このままにしていてはいけない。そう思う。

 塞ぎ混んでいた燃え(かす)のような彼女に、僕は意を決し、表情は明るく努めて、言った。

「明日、裏山行こうよ」

 断られるかと思っていた。

 彼女は、わさびが亡くなってからというもの……いや、それどころか、年が明けてからは一度も、祠にお参りに来ていなかった。


 彼女は僕の言葉に頷くと、意外なことを言ってきた。聞き違えたかと思った。

「ピクニックにいきたい」

 囁くような声だった。

 彼女から僕にどこに行きたいか聞いてくることはあっても、彼女の行きたい場所を言われたの初めてだった。そもそも、よくよく考えてみれば、僕から誘ったのはこれが初めてだったかもしれない。

「わかった」

 やつれきった、このまま止まり続けていれば今にもその場にへたり込みそうな彼女に、「歩きながら話そう」と僕が声をかけると、彼女は頷いてゆっくりと僕の横を進んだ。彼女の足が道路の「止マレ」を過ぎたのを見て、僕は安心した。

 それから、詳細をつめた。今度の休み。裏山と、そして、その先にある僕がエリアと別れたあの山まで行くことになった。

 エリアと僕が迷っていた場所は、あれから何かのドラマの舞台となったらしく整備が進み、今は小綺麗な公園ができていたと聞いている。

 しかし、僕と横にいるエリカとの間に一枚の壁があるように思える。そう思わずにはいられないくらいに、彼女の反応はそっけない。

 正直、今のエリカを見る限り、ピクニックに出かけるそんな力がどこかに残っているようには見えなかった。断るべきだとも思う。しかし、僕が誘った手前、そんなことはできない。またエリカが机を見る生活を始めるのだと思うと実に偲びない。なにより、僕もそんな彼女を見るのを耐えられそうもない。

 何かきっかけが必要なんだと言い聞かせ、自分を制した。

 でも、断らなかった一番の理由は、あの夏の日に僕が出会ったエリカの姿が、再三再四大丈夫と囁きかけてきていたからだ。

 僕はその可能性に賭けてみることにした。


 当日。

 エリカは相変わらず身体を重そうにしてやって来た。しかし、その目に以前のような暗影は無くなっていたので、僕は一安心した。

 出発。彼女の足取りは重い。急勾配な場所では、僕が引きあげる形で彼女を支えあげねばならなかった。

 春の穏やかな風にも飄々とする。時おり、聞こえないような小さい声で何か呟く。これが夜道だったら、後ろからまるで幽霊がついてきていると思ったかもしれない。

 春の匂いに覆われた山の中はまだ少しほど寒くて、動いているくらいがちょうどいい。軽くにじみ出る汗に太陽の陽射しも相まって、だんだんと血行がよくなってきたのか、エリカの顔色も幾分かましになってきた。

 しばらくそのまま、言葉も交わさず、僕たちは登った。

 そして、祠に着いた。

 僕が背中のリュックを探っていると、箱ごとビーフジャーキーがでてきたのでそれをどかした。エリカが子どものように「それ」と尋ねてきたので、僕は笑顔で、

「ああ、前言ってたよね。犬はおいしいものが大好きなんだって。だから、これまでの分もと思って、箱ごと持ってきたんだ」

「うん」

「経済的、だしね」

 納得いったのか、エリカは何度か頷いた後、しかし、また黙ってしまう。

 僕はさらにリュックの底から袋と軍手と色々な道具を取り出して、「失礼いたします」と断ってから祠の周辺の清掃を始めた。

 手伝おうとするエリカを「ちょっと待ってて」と、僕はとどめた。1人黙々と作業を行う。限りなき小草よ萌え出でぬ、抜けぬる根を張る飽くほどに、賑わひ静かなりければ、我その祠へと宮仕せむ。意味が解らないけど、そんな気分だ。

 僕はエリカを呼んだ。

「祠の掃除は、一緒にやろう」

 エリカは縦に顔を振る。

 僕らは御神体を布でふき、祠にはびこる蜘蛛の巣を征伐し、ようやく祠の黒ずみを雑巾へと移し終えて、何とか「汚くない」と言えるくらいにまで清掃することができた。

 作業がひと段落して一息つくと、「はい」とエリカはスポーツドリンクを僕に渡してくれた。「ありがとう」と言う言葉に、彼女は微笑みで返してくれた。

 それから、ラストスパート。思っていたより早くに清掃作業は終え、撤収作業へ入る。もちろんお供えも忘れずに。荷物を二つに分ける。すると、エリカがその理由を尋ねてきた。

「ああ。こっちはここに置いておいて、帰る時に一緒に持って帰るんだよ。そうすりゃ楽だろ」

 そう僕が言うと、彼女はくすくすと笑った。それから、僕は意を決してエリカに告げる。

「ついてきて、見せたい場所があるんだ」

 そう言って、僕はエリカを連れてある場所へと目指して歩いた。山頂が近づいてくる。

 後ろへ目を向ければ、景色が次第に遠くまで見えるようになったのがわかる。

 だんだんと空に近づいていくと、彼女の瞳にも少しずつ空の色が浮かんできた。冷たい風が、舐めるように僕らの肌に触れ、通り抜けていった。その風につられて、萌えたばかりの草木が温かなリズムを奏でる。

 僕らを歓迎してくれているような、鳥のさえずりを2度ほど聞くと、ついにその場所に到着した。


 あの頃、僕とエリアがいた、山頂にほど近い、遠くの海まで見えるあの場所は今でも変わらないままだった。

 しかし、遠くへ目を向けてみると、その景色は、あの頃に見た世界の広さほど大きくは見えなかった。思えなかっただけ、とは感じなかった。

 僕らは二人で、しばらくそのまま遠くへとその目を移していた。

 しばらく経ってから、僕はエリカの目を見た。

 空が、見えた。

 ここで、話そうと思っていたことがあったはずだ。

 止めた方がいいんじゃないか。彼女に話しても分かってもらえないのではないか。そんな不安が何度も僕に再考するようにせがんでくる。しかし、それでも僕は、

 口を開いた。

「あのさ」

「うん」

「僕も、友達がいたんだ。犬の。ずっと昔なんだけど」

「……うん」

 エリカは空に向けていた目を僕の目に向けた。その目がエリアの目と重なって見えた。

「そいつ、僕の大親友で、エリアって言うんだ。もうしばらく会ってないんだけど、僕は、あいつがさ、またひょっこり姿を現すんじゃないかって、思ってたんだ」

 彼女は僕の話を黙ったまま聞いていた。僕はエリアの可愛いところや、すごいところや、賢いその振る舞いについて一通り話して、呼吸を整えて、また口を開いた。

「ここも、そいつといつも二人で一緒に来たんだ。僕の隣のエリアと一緒に遠くを見下ろしてさ。相棒だったんだ。用心棒だったんだ。先生だったんだ。そして、唯一の、僕の親友だった。だから、エリアがいなくなってからはさ、なんでか知らないけど、来たくなかったんだ」

 僕は顔をそむけ、遠くへと目をやった。

 そのままエリカを、その目を見ていると、何故か涙が出てきそうだった。

「でも、来てみてわかったんだ。あいつはもうここにはいないんだって。エリアはあの時、僕をかばって、どこか遠い所へ行ってしまったんだって」

 見ていなくてもダメだった。涙が出てきた。「僕にもこんな思い出があるんだ。でも、だから、元気を出して」なんてエリカに言えなかった。本当にエリカに話したかった言葉なんてどこかへ行ってしまって、だんだんとエリアに伝えたかったことが込み上げてくる。それでも必死に言葉を紡いだが、しかし、だめだった。

「わかってたはず、なんだ。逃げて、たんだ。でも、それを、分からな、い、ふ、りをして、現実から、目を、そむけて、ずっと、ずうっと、一人で、誰かの、せいに、して、で、やっぱり、わかった。……そばに、は、もう、いない、ん、だ、なあ、って」

 それから、堰を切るようにあの時の思い出があふれてきて、僕は、一言一句漏れないように口にして言葉でエリカに伝えようとした。

 エリカも僕の話を最後まで黙って聞いている。その目に涙を浮かべていた。

 僕は、声を何とかかみ殺して、涙を止めようと努めた。「情けない」とか「ごめん」とかそんなことを口走りながら、しゃくりあげながら、しかし最後まで我慢し続けた。そして、ついに口から言葉が一つも出てこなくなった。

 エリカは何かを察してくれたのかもしれない。

 そして、エリカは、そっと、僕の手をとった。

 僕の目を見て、声を震わせて、それから、こう言った。


「私がいるよ」


 呼吸ができなくなった。僕らはそのまま、手を取り合ってわんわん泣いた。

 初めて、エリアの存在をエリカが認めてくれた。一緒に悲しんでくれた。それだけで、僕はなんだか救われたような気がした。


 それから、僕らは簡単に昼食をとった。

 エリカの手作りは正直微妙だったが、多分涙のせいだったのだろうということにしておく。

 それから、バスに乗って、あの山の近くまで移動した。

 エリカの足取りは裏山に登ったときよりもだいぶ良くなってきていて、逆に僕が腕を引かれることすらあった。

 僕がエリアと別れた辺りは、公園の一部となっている。子供が喜びそうな遊具に、大人が喜びそうな休憩所と自動販売機。

 しかし、そこに人っ子一人姿が見当たらない。

 静かだ。

 川のせせらぐ音が聞こえる。たまに鳴く鳥のさえずりが緑色に映える。

 僕らはそこのベンチに腰かける。僕が荷物をベンチに下ろしているとき、エリカが話し始めた。

「……わさびが死んじゃって、私ね、おばあちゃんのときのこと、思い出したの。私、ずっとおばあちゃんと一緒に、日本で暮らしてみたいと思ってたから、すごく悲しくて、デンマークで部屋に籠って泣いてた。何日も学校を休んだ。でも、私のおばあちゃんのことなんて、周りのみんなは知らなくて、何だか、それが凄い悲しくて、私、ずっと泣いてた。だから、日本に行くよって言われたとき、すごくこわかった。あんなに行きたかった場所なのに、すごく嫌だったの」

 僕は、彼女のその言葉に、自責の念を駆られた。僕があれほど誰かに求めていたこと。それを他の誰かも求めるのは当然のことだなんて、知ろうともしていなかったのだ。

「ごめん」と僕が言うと、「カズは別に悪くないよ」とエリカは言ってくれた。少し救われた。

 エリカは不器用な作り笑顔を見せた後、再び肩の力を抜いて話し始めた。

「一回日本に来てみて、それから決めればいいって、お母さんは言ってくれた。でも、あの時一番つらかったのはお母さんだったんだよね。それでも、お母さんが泣いている姿は見なかった。『大人』なんだな、って思うよ。それから、お葬式で実際にこの町に来たの。来てみて、私、決めた。ここに住む。ここに住みたいって。その時、お母さんすごく喜んでくれた。おばあちゃんもきっと喜ぶよ、って言って」

 それから、彼女は、わさびとさんしょうについて語りだした。その顔には、時折、自然な笑顔が混ざった。失意の中を埋めてくれたのは、その二人だったのだということが、僕にもよくわかった。

 そして、その話も終わると、エリカが懐かしそうに遠くを見た。

 僕は時計を見た。そろそろ、帰りのバスを考えると、降りる準備をしなければならない。太陽がその姿を闇に隠す時分になれば、春とはいってもやはり寒い。

 今日は、来てよかったと思う。

 そんな本日の総括をして、その評価付けを一人し始めた僕に、エリカが聞いてきた。

「ここが、エリアの助けてくれた場所?」

「うん。たぶん。それ以来この辺はきてなかったけど、なんとなく見覚えがあるんだ」

「わかるの?」

「なんでか、ね」

「……すごく綺麗なところだね」

「……うん。僕もそう思う」

 僕らは、そのまま黙ってお互いに見つめ合った。エリカを見つめていると、帰りのバスの時間なんて吹っ飛んでしまった。

 綺麗なところだと彼女は言ったが、僕からすれば、彼女の方がそれよりよっぽど綺麗だと思う。

 ほんのり顔に朱が射しているエリカがその目をつぶると、僕も目をつぶった。たぶん、彼女が目を開いてたら、彼女の目に映る僕の顔は死ぬほど真っ赤だったと思う。

 心臓が、破裂しそうだった。

 時が止まった。

 二人の他には、せせらぐ渓流の音だけが、ただ、音を奏でていた。


 僕らはそれからの時間を一緒に過ごすようになった。今さら知ったのは、エリカの誕生日が、あの裏山で僕と出会った日だったということ。「プレゼントはもう貰ったからいいよ」とエリカは言うけれど、当然僕は男なのだから、カッコつけなければとも思ってしつこくしてほしいことを尋ねた。しかし彼女は「じゃあ僕の誕生日になったら教える」と言ってきかない。僕の誕生日は4月2日なので、もうとうに終わっているのに。最後、「私も何もしてあげられなかったし」と付け足すように言った。言われてみればそうだった。気にしないでいいのに。

 その日、風呂に入って、飯を食って、部屋に帰ってから、ようやく気が付いた。

 ああ。だからなのか、と。

 そう気が付いた時、僕の顔が真っ赤に張れあがった。何で気が付かなかったのだろう。そして、自分はなんて愚かなんだろう。

 エリカは僕の誕生日をとっくに知っていたのだ。

 この日は何だか寝付けなかった。

 しかしそれから、以前とは少し変わったことがある。噂が二人三脚を始めたこともそうなのだが、ちょっと今までとは違う展開。

 エリカはたまに、僕が知らないうちに、一人でどこかに行っているらしかった。

 僕が「声をかけてくれよ」というと、「秘密」とか何とか言って、一人で何かをしているらしい。

 しかし、その目は以前のエリカとおんなじで、空色の澄んだ碧い瞳だったから、僕は別にそれでもいいと思っていた。


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