02 その2
僕はそれからというもの人をあまり信じなくなった。同級生は何だか幼稚に思えて仕方なかったし、エリアのことを知ろうともしない奴らが嫌で仕方なかった。
そして僕は、小学校を出て、中学校も出て、高校生も3分の1がすぎて、なのに友達も彼女もいない、いわゆるボッチになっていた。断っておくが、別にコミュ障ではない。念のため。
裏山には、あの日以来足が向かなくなった。特に、エリアとよくいた山頂近くの場所には一度も行ってない。
怖くてしょうがなかった。エリアが仮にいたとしても、どう対応していいのかわからない。でもいなかったら――。
そう思うと、その事実を受け止めることができそうにもないから、行くことができなかった。
僕の体はいつの間にか背も大きくなって、声も変わっていた。仮にエリアが僕を見ても、僕とは分からないと思う。周囲の環境も再開発が進んでどんどん変わって、昔のまま残っているものの方が珍しいくらいだ。なのに、エリアはずっと昔のままいてくれる。そんな甘っちょろい夢に、僕は今でも浸ることがある。
現実と向き合うことをずっと避けてきたわけではないが、でも、受け入れたいとも思うわけではなかった。そんな風に自分に言い聞かせ、僕はエリアのことを忘れないよう努めた。
ほかに、エリアのことを知っている人がいないのだから。消えゆく者たちを惜しむ気持ちを持つのは、果たしていけないことだろうか。
そんな気持ちで、毎日を過ごしていた。
だから、別に、僕が裏山で彼女と知り合ったのは、たまたまなのだ。
田舎の学校なんて小中高と大して面子が変わらない。その癖、噂が広まるのは早いのだから嫌になる。
一学期の終業式に噂が流れた。噂に対して少々過敏になっている僕は、その声に耳を傾けた。曰く、転校生が来るらしい。しかも女。しかも帰国子女。しかもハーフ。
正直、がっかりだった。また、知らない奴が一人増えるだけだ。帰ってクソして寝てそのまま毛布被って汗多量で死ねとすら思う。
しかし、噂をすると何とやらというやつなのか、翌週、僕はその女の子と出会った。
そして、その少女を見た時、僕は息を呑んだ。
ところで、現在の裏山について、少々説明しておかないといけないだろう。
今日日この裏山なんぞにわざわざやってくる輩なんて、下世話な話、わいせつ目的の奴らばっかりだ。夜間に車が止まってそんじょそこらにエロ本もコンドームの箱も落としていくのか、山にはその残骸が打ち捨てられた化石みたいに残されている。
僕が昔に遊んでいた頃から、そういうものが全くないわけではなかった。が、再開発の影響なのか、それでもこの辺は昔よりも汚れたように僕には思える。この裏山に来ると、エリアとの美しい思い出まで汚されたような気分になる。それも、来なかった理由の一つかもしれない。僕自身が汚れてしまったという線もありうる。それは別にいいか。
だから、少なくとも、女子が一人で来るような場所ではないのは確かだった。
そもそも、僕が裏山に行こうと思ったきっかけは、今朝、何やら外が騒がしかったことだった。
声がする。
その声の出元を窺って見ると、女で、どうやら、方角は裏山の方らしいと見当がついた。さっきも言ったとおり、あんな場所から女の声が聞こえるのなんて、糞みたいな理由の、ゴミみたいな輩の仕業くらいなものだろう。
しかし、どうやら事情が違っていると僕には思えた。朝っぱらからこんな声を聴いたことなど、これまで一度もなかった。
おーい。誰かー。聞こえますかー。おーい。誰か―。
よく聞いてみるとそんなふうに聞こえた。思考が一つの答えへ行きつく。
迷子。
別に放っておいてもよかった。しかし、夏休みでボッチの僕は何か、飢えのようなものを感じていた。もしかしたら、絶滅したと言われている山の民かもしれない。もしかしたら、馬鹿な女が彼氏といっしょに馬鹿をやっているだけかもしれない。別にそれならそれでもいい。でも、しかし、もしかしたら――。
僕は、急に使命感のようなものに駆られた。そして、何でもいいから、違う世界に触れてみたくなった。他人日照りとでも言うのだろうか。
僕は汚れたスニーカーを履いて玄関を出た。
その際に、ひとつだけ自分で決めたルールがある。
もし、その声が山頂近くのあの場所だったら、引き返そう。あそこは、もう――。
それだけ決めて、裏山を登っていった。
しかし、僕はその少女を、具体的に言えばその目を見て息を呑んだ。
彼女は、碧い瞳をしていた。
エリアとおんなじ、空のように澄んだ目をしていた。
彼女は立ちつくす僕に気が付くと、声をかけてきた。
「あ、よかった。この辺りの人ですか?」
その女の子はそれから、自分が迷ったこと、そして、「あ、自己紹介忘れてた」と1人反省して、自分の名前を言った。
エリカ、と名乗った。一瞬、『エリア』に聞こえたけど、『カ』だった。
僕も一応名前を告げる。品評会よろしく彼女はじろじろと僕を観察してくる。すると、彼女は獲物を見つけた猫のような顔をした。何かを探すようにキョロキョロ首を振り、それから、僕の通う高校に彼女の人差し指を向けて、目を輝かせながら言う。
「もしかして、高校生? あそこの高校2年生?」
その通りだった。
「そうだけど、なんでわかるの」
「本当!? 私も今度からあそこの高校に通うんだよ! よかったー。知り合いがいないからどうしようかと。あ、私、この間までデンマークにいたんだけどね……」
碧い目。茶っぽいっ黒髪。初対面から馴れ馴れしい。海外。ああ、なるほど。
僕はこの子が噂の転校生なんだという考えに至った。でもそれよりも不思議に思うことがあった。
聞いてみる。
「何してるのこんなとこで」
「だからー、迷っちゃったの」
「ええと、じゃあさ、行先は? どこに行きたくてこんなとこに迷ってきたの? 何もないよこの辺」
僕のその問いに、エリカはポケットから一枚の紙を取り出して、へたくそな絵の二重丸のついた場所を指を差し向ける。
「ここ」
紙に書かれた文字を僕は読んだ。
「祠……ほこら?」
エリカは頷いて、僕の目を見て言った。
「うん。昔から続く、犬の神様を祀った祠があるんだって。前に、おばあちゃんが言ってた」
知らなかった。
その紙に描かれた場所は、大体僕が小さい頃に行き尽くしていた場所のはずだ。しかし、祠なんて見たことも聞いたこともない。多分嘘だと思う。
「悪いけど、騙されたんじゃないかな。欠片も見たことないよそんなの。多分てきとー言ったんだと思う」
僕がそう言うと、エリカは怒った様子で、
「じゃあ一緒にその目で確かめてよ。どっちが嘘つきかわかるよ」
そう言われると、何だか僕も喧嘩を売られたような気がして、嫌だなんて言えなかった。
「じゃあ決まりね」
エリカはそう言って、僕に道案内役を務めさせた。
僕は彼女をその場所へと案内する。しかしまあ、よく話しかけてくること。彼女の素なのか、それとも外国で育つとこうなるのか、どちらかは判別がつかないが、とにかく喋る。
僕の中で、おしゃべりな女だというのが彼女の二番目の特徴となった。
母方の祖母が日本人。父親方がみんなデンマークらしい。だからクオーター。梅干しが嫌い。日本暑い。何か田舎。醤油臭い。でも私は醤油嫌いじゃないよ。
そんなどうでもいいことを話していたら、急に犬を飼っているという話になった。僕は少し胸がどきりとした。きっと、エリカには気づかれなかったと思う。
彼女の犬は二匹。柴犬とゴールデンらしい。
「かわいいよ。名前を呼ぶと2人ともこっちくるの。さんしょう、わさびって。もー可愛いの。今日、祠に来たのはね、うちのわさびとさんしょうの紹介なんだ。若い衆ですけどよろしく、って」
「何も、こんな朝早くに来なくても……」
「犬神様は朝早いんだって言ってた。もしかしてそんなことも知らないの?」
知らないも何も、そんなのがいることすら今日初めて聞いた。そもそも、西の方でもないのに、何で犬神なのか意味が解らない。狐ならまだしも。
しかし、彼女の目を見ると、嘘をついているようにも見えなかった。
まあでも、エリアだっていたんだし、もしかしたら――。そんなことを僕は思う。
ちょっと試してみよう。
僕は、エリアと昔よくやった遊びを試してみる。少し歩くスピードを上げる。エリアならすぐ追いついてきて、僕を追い抜く。今度は僕はその後ろを追いかけるのだ。先に頂上に着いた方が勝ち。
しかし、振り向いて見てみると、彼女は「ちょっと待ってよお」なんて言いながらついてくるのがやっとだった。
エリアとは大違いだ。やっぱり嘘かもしれないと思う。
そのままのペースで登ると、見覚えのない場所に出てきた。地図を確認して、知らない道を今度は下っていく。すると、ようやく目的の場所に着いた。
そこには本当に祠があって、しかも犬が祀られていた。
エリカは僕より遅れて、しかし飄々とすることもなくやってきた。
勝ち誇った表情のエリカが、呆けた僕を指さして笑う。
「ほら、あったでしょ。私の勝ちねー」
「賭けなんかしてないだろ」
「そうだなあ、罰ゲーム何にしよう」
「聞けよ人の話」
人の話なんかエリカは聞いちゃいない。エリカは、ぽんと手を打った。
「決めた。罰ゲーム! さっきも言ったけど、私、来たばっかりでよく知らないんだ。町の案内してよ。それでいいよ」
「わかったよ。まあ、それくらいなら」
僕はしょうがないので、彼女の言うことを受け入れた。嫌だと言ってもどうせ聞かないだろうし。ああ、エリアもこんな気持ちだったのか。あいつも、僕の変な命令ばっかり聞いていたし。
そんなちょっと申し訳ない気持ちになると同時に、ちょっとだけ脳内で昔の自分を叱り飛ばす。
そして、僕らにはその日から妙なつながりができた。犬と祠のつながりだ。
ちなみに、エリカの苗字はクリステンセンだった。家の標札はなぜか小鳥遊だったけど。
たしか、あそこのおばあちゃんは、去年亡くなっていた。まあ、特に知り合いというわけではなかったから、どんな人だったかあまり思い出せないけれど。