11 最後に
最後に。
その日誌を咥えた犬の目撃情報は、今でも時々あるのだという。証人は口をそろえて次のように言う。
呼びかけても反応はなく、次の瞬間消えるように姿をくらましてしまう。
そしてある時を境に、その口にはフリスビーらしきものも付属するようになったのだという。背中に、対になった玉座らしきものを見た証言もある。
それからさらにしばらくたったある時、誰かがたまたま口にした言葉に反応があったらしい。
一声だけ鳴き声を上げると、犬はその姿を消した。
その女の子は不思議そうにその光景を眺めている。
その背中ごしから徐々に近づいてくる影。
「こら。あんまり走っちゃだめだぞ。お父さんの言うこと聞かないと、遊園地連れて行かない――」
父親の言葉に女の子は振り向いた。しかし、その子は口をパクパクと繰り返すだけで言葉がついてこない。その小さな指で懸命に示そうとするも、父親には何も伝わらない。数回やり取りをして、まともな返事をしない娘に、父親はまいったなあという表情をした。
すると、父の背後から、
「ほら、あなた、恵理奈。早く行かないと……って、この子どうしたの?」
「父さんがが聞きたいくらいだよ」
父親は母親のそばによると、バトンタッチと耳元で囁く。
「もう。父さんは昔から口下手なんだから」
フッと笑みを浮かべ、女の子の前に回り込むと母親は膝をかがめて向き合った。
不思議そうにしている二つの目と視線が交わった。
「どうしたのかな~? えりちゃん」
「……わ、わん」
わん? わんとは?
「わん? あ……もしかして、わんわん?」
女の子は大きく頷いた。
「お犬さんがいたの?」
女の子は反応を示さない。
母親は振り向きかえって背後を凝視した。しかし、何も見当たらない。もう逃げたのかもしれない、と思ったのか、
「残念。お犬さん、お腹空いてたんだよきっと。どんなお犬さんだった?」
「……しろくておっきいの」
「うんうん」
「あとー」
「あとー?」
そこで女の子は口をもぞもぞさせた。こういう時は、この子は恥ずかしいことや自信のないことを普段口にする。その経験から母親はちょっとだけ覚悟をしたが、父親はそんなことを知らない。
あとー? 何というのだろう。
「めがあおかった」
時が止まった。
いい年をして本当に驚いて石になっている大人が二人も出た。
いい年して本当に驚いて石になった大人の姿を、恵理奈は初めて見た。
「……ぱぱ、まま?」
その女の子の言葉は魔法だった。石から人間に戻ると、母親は父親と顔を見合わせた。
母親も自分の表情が固くなっているのに思い至る。父親はまさしくそんな表情をしていた。ややあって、そんな不思議なことがあるのか、と笑みを浮かべるのが見えた。
いつしか、その眦に浮かんだ懐かしい笑みで、懐かしい夢を共有するかのようにして見つめ合っていた。
それから、一呼吸の間。
「ふっ」
破顔。
二人分の笑い声が上がる。
女の子にはその意味が分からない。さっきまでの呆然とした様から一変、
「あー! ずるいずるいまたふたりでわらってるー! えりにもおしえるのー!」
二人の小皺に、更に深みが増していく。娘にポカポカぶたれるのすら心地いい。今こうして笑顔でいられるその理由。昔話。恵理奈が赤ん坊の頃から子守唄のようにして口にされた物語。
二人は呼吸を同じくして一度頷く。
間を図り、そして、その言葉を呟いた。
その言葉はきっと「エリア」と聞こえたはずである。
完結……ですが、機会があれば舞台設定に関わる話(その日記)でも書こうと思っています。
その際はぜひよろしくお願いします。